第67話



 ―――そう。


 たとえば、断崖絶壁の崖で、足を踏み外してしまったとき。

 たとえば、唐突に飛んできた硬球が、後頭部にぶつかったとき。


 そのようなおそるべき衝撃を、この男はたった一言で私に食らわせてみせたのだ。



 アラートアラートデンジャー!! はるか天高くから警報が聞こえる! 危険人物! こいつは私の予想をはるかに超えた超危険人物!


 社会の敵! ニュースになっちゃうタイプの危ない人だ!


『向井容疑者は「いけないとは思ったが、少女になじられたかった」などと供述しており』とかいうセンセーショナルなアナウンスとともにニュースの顔になっちゃう人だ!


 やばい……やばいよ……。これは私の手に負える変態じゃないよ……!


 美里の言ってたとおりだあ……。私って本当に救世主だったんだ……。ちゃっかりしっかり、この変態はコトを進めていたわけだよ。


 私がいなければ、一人の少女が変態に飼いならされてしまうところだったんだ。



「ち、ちなみにですけど、美雪さんにどう言って結婚したんですか?」



 遠くにいるので、私は少し大きめな声で尋ねる。


 主任としては、奥さんなんて世間に見せるための飾り、置物みたいなものなんだろう。目当ては最初から子供を引き取ることなんだから。


 でも美雪さんは主任に惚れている。そこの利害は一致しているのだろうか?



「親にも彼女との結婚をすすめられていましてね。この駄犬もできるだけ早く養子縁組を完了させたく思い、切羽詰まっておりました。彼女はひじょうにちょうどいい位置にいたわけです。彼女には、これが偽装結婚であることをよくよく説明し、金を渡して解決しています」



 主任が彼女に金を積んで言った言葉はこうらしい。



『里親となり、子供を引き取りたいと思う。そのためには結婚してなくてはならない。この金をやるから、形だけ俺の妻になってくれ。ちなみにお前に対する恋愛感情はみじんもない』


「そんな最低なプロポーズあるかぁああ!!」



 なに!? なんなの!? 主任は美雪さんを感情のないジャガイモとでも思ってんの!? でなきゃこんなひどいこと出来るはずないよ!



「そうですか?彼女、喜んでましたよ? 『私でよければ』って。しかしまあ、それも終わりです」



 主任はふふっとご満悦な笑みを見せた。



「な、なんですか?」


「この駄犬には詩絵子様という素晴らしい女王様がおりますので。すべては不要となったのです。昨晩、彼女には離婚の話をしました」



 かくん。顎が落ちる。


 やばい……。主任に奥さんがいるって知ったときは、それなりにショックを受けたし、傷つきもしたけど……。


 いや、だってね? 離婚なんてされちゃったら、私一択になるじゃん? 逃げ道ないじゃん? なにがなんでも全霊をかけて私にまとわりついてきそうじゃん?


 でも……一人の少女がこの変態の生贄になるのも……それはあんまりだ……。



 ようよう考えが行き詰まり、私は頭を抱えた。この変態に一生つきまとわれるか。いたいけな少女を差し出すか。


 二つにひとつ。


 私は珍しく真剣に考えた。考えて考えて考えて……頭の中でなにかが切れた。



「よし。説明してもらったし、私帰りますね」



 椅子を主任の席へ戻しながら告げる。



「今ので詩絵子様の求める説明になっていたでしょうか?」


「あー大丈夫です。だいたい分かりましたから」


「それでしたらよかったです。送っていきますよ。一人では危ないです」


「いや、いいっすよ。どうせついてくるんでしょ? だったら安全なんで」


「!さすがは詩絵子様! お見通しでしたか!」



 私は歩いて家へ帰った。主任がつけてくるような気配は全く感じられなかったけど、家について電気をつけると、間もなくしてメールが届いた。




『本日はこの駄犬の話に耳を傾けるためにご足労いただき、ありがとうございます。先ほどの話で分かっていただけたと思いますが、僕は一生詩絵子様に付き従う所存でございます。籍を入れたのは詩絵子様と出会う前でした。あの時の僕は、まさかこのように理想通りの(しかも成人されている)女王様と巡り会えるなどと、ちっぽけな乾いた米粒ほどの頭では思い描くことができませんでしたので、まさに奇跡と呼ぶにふさわしい出会いかと思います。それはそうと、話は変わりますが、詩絵子様はだいぶ酒癖がよろしくないようですね。いえ、責めているわけではありません。とてもよろしいことだと思います。お酒に酔われたとき、詩絵子様は大声で僕を罵っていらっしゃいました。感激しました。その場にいられなかったことが、心より悔やまれます。まあ……今の話と全く関係はないのですが、よろしければ今度、詩絵子様の都合のいい日にワインでも嗜めたらと思いつき、銘酒を我が家に揃えておきました。本当に詩絵子様の都合のいい日で構いませんので、日時を指定して頂ければ、すぐにお迎えにあがります。いつでも気兼ねなく言ってくださいね。そういえば、僕のメールが長いと感じられているようですので、今日はこの辺りで終わっておきます。あ、すみません忘れていました。最後に一つだけお伝えしたいのですが、例のピンヒールで踏んでいただくためにはどのようにすればいいのか。ひとつ思いつきましたので、そのことだけを伝えて、今回のメールはきりよく終わりに……』




 その日届いたやっぱり長いメールを流し読み、私は家の荷物をリュックにまとめた。


 数日分の衣服と、食糧と、貴重品……。そうして家を漁っていても、監視カメラらしいものは見当たらなかったけど、絶対に監視されてるもんね。


 ずっしりと重いリュックを背負い、私は決意した。



「よし。逃げよう」



 あの変態は私の手に負えんわ。さらば、我が家。



 つづく!



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