第56話



 備え付けの冷蔵庫から、缶ビールを取り出して誘います。



「チビ朔ぅ! 今日ばっかりはあんたに感謝だよ!」



 二人はソファーに座り、しばらく酒を飲みながら話しました。



「しかしびっくりだよなーあいつに奥さんいたなんて」


「そうなのよ! そんなの聞いたことないよ! 会社でも独身で通ってるんだよ? いったい何がなにやら、分からないことだらけだよ」


「それから連絡はねーの?」


「あったけど……話し合いをしたいっていうのと、アザラシ抱っこしてんのが可愛かったっていう内容で……」


「やっぱし、『熱の子供が夜中に起きてきた作戦』はあいつに有効だったんだな」


「そんなことより奥さんのことを説明してよ! って感じなんだけど!」



 詩絵子はガブガブ、グビグビ酒を飲んで荒れた様子でした。酒はどんどんなくなっていき、それに従って彼女は怒りをあらわにします。



「このドエムがあああ!! 私はあんたと違ってひよっこ精神なんだよー! 傷ついちゃうでしょうがあ!」



 詩絵子は遠くの主任へ叫びました。



「だいたいあんたは二重人格かあ! どこで土下座習ってんのよお!! 今度こそ本当にピンヒールでぐりぐりしてやるんだから!!」



 詩絵子はさらに叫びました。



「私の忠実な駄犬のくせに傷つけてんじゃないわよ!! 生意気なのよぼけえ! この駄犬が!!」


「はい、ストップストップ」



 あまりに威勢がいいので、朔は見かねてワインボトルを取り上げました。



「あー! 私の命の水がー!」


「飲みすぎ。お前ちょっと飲みすぎだって。もう寝ろ。そんでちょっと落ち着け」


「やだやだ! 今寝たら怖い夢みそう! なにかに追いかけられそう!」



 毛布にくるまり、詩絵子はとたんにソファーの端に丸まりました。


 その挙動は、ひじょうに愛くるしいように思いました。胸をつつかれたようにキュンとなって、朔はすぐにその肩へ腕を回します。



「お前めっちゃ可愛い。襲っちゃうぞ」


「はあ!? え……いや、たしかにそんな話だったけど!」


「ま、金は別としてさ。この間のつづきー」


「わっ……」



 押し倒してやりますと、詩絵子は小さく悲鳴を上げて、倒されたままにこちらを見上げます。


 ちょっと怯えているような、助けを求めているような潤んだ瞳は、すみやかに朔の心をさらってまいりました。


 狩猟本能というのか。それは心のどこかが沸き立つような、抑えのきかない欲求を働かせます。


 彼女の腕はすっかり抑え、その体はどのようにも自分の自由にできてしまいそうでした。このような状況に、朔は内心慌てます。心が騒ぎだし、落ち着かなくなりました。



 うっわー……俺、めっちゃドキドキして……って、童貞かよ! いいのかなー。やっちゃっていいのかなー。いや、たぶん今更やめらんないけど。


 詩絵子を見下ろし、朔は薄く笑いました。



「前みたいに抵抗すんなよ?」



 そのまま顔を下ろすと、二人のシルエットは重なりました。しかし詩絵子は眉をしかめ、顔を横に向けてよけています。それから、か細く呟きました。



「ごめんなさい……」


「……なにが」


「あんなこと言ったけど、やっぱ無理だ。ローン組んで返済するよ」


「だーかーらー金はいいんだって。こんな時に金の話すんなよ」



 詩絵子は絞り出すように声を出します。



「だってなんか……ごめん……怖い……」



 潤んだ弱い声。その言葉はまるで鈍器をぶつけられたような衝撃で、朔を正気へ帰らせました。


 怖い……俺が……怖い……。


 ぷつん。



「くっそーー! なんだよ! あったまきた! こうなったら金で買ってやるーー! いくら積めばいいんだよ!?」


「あ、あんたなに言って……」


「ごっそり大金用意してやるよ! いくらあれば俺のもんになるんだよ!? 心もセットで!」



 詩絵子は困ったように、顔を横に向けたままです。少しの間があって、彼女は控えめに言いました。



「い……」


「い?」


「一億かなー……」



………………………………………………………………………………………………………………。



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