「今日は会社やすみ、ます……」

第43話




 それは真夜中の地平線よりも果てしない沈黙だった。私はベッドから主任を見つめ、硬直したままだ。


 なにか、言わないと。そう思った。けれどどのような言葉も頭に浮かんでくれなかったずいぶん長く黙り込んだあとで、口を開いたのは主任だった。



「台所……」


「……は、はい」



 主任は力なく買い物袋を持ち上げ、台所の方をだらりと指さした。



「台所、お借りしますね」


「は、はあ……」



 主任は台所へ入っていく。その背中が見えなくなってから、私はチビ朔を振り返った。



「どうしよどうしよどうしよやばいやばいやばいやばい」


「お、落ち着けよ」


「落ち着け? この状況で落ち着け? そもそも全部あんたのせいじゃない! あんたがもう諦めるって言うから恥ずかしいのこらえてやっとの思いで言ったのにさあ! 全然一回じゃないし触るし約束破りじゃん! チビ朔! このチビ朔がッ!」


「やめろ、『チビ朔』を正式な悪口みたいに言うな」




 首を絞めてがくがく揺する。チビ朔はちょっとけほけほ言って苦しそうに頭を前後に振った。そのあとで私は頭を抱え、ベッドへ突っ伏した。



「あ~~~~だめだ! いくらあんたを責めても、これ絶対私にも非があるよ! 家に入れちゃってるもん! なんか……なんかないかな? 私にまったく悪いところはなくて、全面的にあんただけが極悪非道の悪者に聞こえるような、そんな都合のいい言い訳ないかな!?」


「すげー。全力で保身に走るな」



 なにか、なにかないか……。


 よし。いったん状況を整理してみよう。



①まず、私は風邪をひいて寝込んでいた。そこにとつぜん変態さんが訪問してきて、この究極のピンチをチビ朔が助けてくれる。


②でも実は、チビ朔も風邪をひいていた。おそらく病原菌の元は、共に主任だろう。


③看病されたいがためにキツイ体を引きずってやってきたチビ朔は、私を助け、それから 今井のおばちゃんにつかまり、私たちが双子の兄妹であると、とっさに嘘をついた。


④ここで訪ねてきた兄を追い返すのはきっと不自然だし、そもそもそんなところに気が回らないくらい、私の思考は『はやくベッドで寝たい』に埋め尽くされていた。


⑤私とチビ朔は当たり前のように部屋に入り、ベッドへなだれ込んだ。そこでスキスキ言わされる羽目になる。



 あれ? こうして整理して考えてみると、私ってあんまり悪くないんじゃない? なんて言うの? 不可抗力?


 いやでも、⑤の段階でチビ朔に『好き』って言っちゃったのはどうだろう……。やっぱダメ……かなぁ。


 そもそも①で訪ねてきた変態さんが悪いんじゃない? あいつさえいなければ、もう少し話は変わっていたし、チビ朔を追い返しやすかった。


 いや待て待て。もっと辿っていくと、②でチビ朔が風邪ひいてんのが悪いんじゃん?


 風邪ひいてなかったら、たぶんわざわざうちまで来なかっただろうし。うちに来るっていう発想を、風邪が与えてしまったということだ。


 ん? じゃあもっと遡って考えると、風邪をうつした主任が悪いってことに……。



「―――ってええ!! これ最低の発想!!」



 私はベッドに顔をうずめた。



「ね……ね、ね、ね。チビ朔、どうしよ」



 顔を上げて、助けを求める。チビ朔はスピー……スピー……と、規則正しいリズムの寝息を吐いて、気持ちよさそうに眠っていた。


 ……ほおー。そうきたか。


 静かにヤツの鼻をつまみ、隙間なく口をふさぐ。


 少しそうしていると、チビ朔は飛び起きて、溺れていた人のように大口を開けて酸素を吸い込んだ。



「はあはあはあはあ……。うわ……今ホルマリン漬けにされる夢みたぜ」



 辺りを見回してここが現実だと確認し、チビ朔は一息ついて額の汗をぬぐった。



「うおりゃあ!!」


「うげっ!!」


 安心したところで、拳をその腹に沈ませる。チビ朔は腹を抱えて呻いた。



「お前……寝起きはきつい……」


「なに寝てやがんのよこの状況で!! どういう神経してんのよあんたは!!」


「いや、お前も声でかい」



 言われてハッとする。慌てて台所のほうを見たが、そこから主任が出てくる様子はなかった。


 私はすぐにチビ朔の胸ぐらをつかみあげ、声を抑えて怒鳴った。



「あんたねえ。だいたいあんたがうちに来るからこんなことになってんのよ。彼氏持ちの家に突然訪問は、世間の常識として御法度でしょうがあ~」


「お、わ……。なんか、いつもに増してキレてるじゃん……?」


「当たり前でしょ! スキスキ言わせやがってえ~!」



 誘導されて言った私も悪いんだけどさあ!



「ていうかさ、なんであいつ何も言わねーの?」



 じとっとした目で台所を一瞥し、チビ朔は気に食わないという顔をした。



「な、なにか言われた方が怖いじゃん!」


「俺様を相手にしてないってことじゃん、これは。放っておいて大丈夫って思われてんだ。俺はそんな安全な男じゃねーぞ」



 思わず、胸倉をつかんでいた手が落ちる。


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