第39話



 気づくと全身を冷たい汗が流れていた。三分ほどその状況が続いたころだろうか。唐突に音がやんだ。そっと覗き穴に目をあてる。男の姿はもうなかった。



 でも家知られちゃったし、また来るかも……。あいつ、一人暮らしの家を見つけては、ああやって訪問してんのかな。あとで警察に届けとこう。



 完全に音がやんでちょっとしてから、よせばいいのに私はカギとチェーンを開けて、静かにドアを開いた。



 こういうとき、きちんと危険が去ったのか、自分の目で確認したくなるものじゃない?



 そー……っとドアに隙間を開く。そこから冷たい風が滑り込み、ドアの向こうから生えたように、力強い手が、私の手をつかんだ。



 私は『わっ』と口を開き、けれども声は出ないまま硬直する。



「お嬢ちゃん……はあはあ、パンツ見せて……うへへ」



 ひい! 要求がグレードアップしてる!!


 なんとかドアを閉じようとしたけれど、男は圧倒的な力でぐいぐいドアを開き、中へ入り込もうとする。



 どうしよどうしよどうしよ……部屋に入られたら終わりだ。



 私は力いっぱいにドアノブを引く。男はドアを開こうとする。そういう引き合いが続き、前後に動いていたドアは、次第に隙間を広げいき、男はとうとうその半身をドアの間に挟むようにして入ってきた。



「こ、こないで」



 男はハアハア言いながら、私の手をドアノブから引きはがし、その体で私を中へとおしこめた。


 ちょっと忘れていたけど、熱でふらふらの身体はあっさり倒れて尻もちをつく。そうして男はついに玄関へ入り、その後ろでドアが閉まり、完全に男と二人きりの密室が出来上がる―――



 というところで、ドアが再び外から開いた。



「よお清水ー」



 いつもの晴れやかな笑顔で現れたのは、まさかまさかのチビ朔だった。これには男も驚き、チビ朔を振り返って硬直する。



「えーなになに? 誰? 清水の知り合い? 親戚のおじさんとか?」



 この場にそぐわない、のんきな様子でチビ朔はたずねる。私は床に座ったまま、勢いよく首を横に振った。



「えーマジかよ」



 そう言うチビ朔をおしどけ、男は無言で部屋を飛びだした。チビ朔がその後を追う。



 私はぽかんとしたけれど、ややあってハイハイでドアを開け、そこから首を伸ばして様子を見てみた。


 廊下の奥で、チビ朔が男に追いつきその肩をつかむ。男はチビ朔へ殴りかかる。チビ朔はそれをするりとかわして背中へ回り、そこへ鋭い蹴りを突き刺した。


 廊下から男の姿は消え、階段を転げ落ちていく激しい音だけが聞こえた。私は思わず目を閉じた。


 静かになってから目を開け、チビ朔の元へ向かう。首を伸ばしておそるおそる階段を覗き込んでみると、男がうつぶせで倒れていた。



 チビ朔は「チッ」と舌を打つ。



「ふざけんじゃねーぞ変態が」



 男は急いで立ち上がり、こちらを振り返りながら、もつれた足で走り去っていく。



「もう来るなよー!」とチビ朔は叫んだ。それから私に笑顔を向けて、その冷たい手でぐりぐりと頬をつまんだ。



「大丈夫かお前ー? ていうかなにあいつ? 不審者?」



「……たぶん」


「そっかそっか。俺がきて良かったな」



 ぺしぺしと頬を叩かれ、はらはらと涙が流れ落ちた。チビ朔はぎょっとする。



「え、どうした、そんな怖かったの?」


「……怖か、った……」



 いきなり安心してしまって、嗚咽がこみ上げてくる。それを何とかこらえながら、絞り出すように答えた。私が泣いてしまうと、チビ朔も切ないように眉をしかめた。そしてまた舌を打った。



「ッヤロー。やっぱあいつ仕留めて来るわ。二度とこねーように警察に突き出してやる」


「え、いかないでよ」



 慌てて腕を引く。チビ朔は止まり、あっけにとられた顔で振り返る。



「お、おう、そっか。今ひとりは怖いよな。まあそんなに言うなら一緒に居てやってもいいけど」


「うん。そうして」



 腕をつかむ力を込める。チビ朔は目を白黒させた。



「な、なんだよ。やけに素直じゃんか。ついに惚れちゃったか?」


「……かっこいい」


「え」



「あんたって、実はかっこよかったんだね。ほんとかっこいい。ありがとう。恩人だよ」


「え、ええ?」



 反応に困るというように、彼はちょっとおろおろして顔を赤くする。



「めちゃかっこいいよ。なんてお礼言えばいいか分からない。ありがとう。ちょーかっこいい」


「や、やめろよバカ」


「惚れはしないけど」


「なんだよそれ!!」


「感謝はしてるから、ほんと。ところでなにしに来たの?」



 チビ朔は「あ、そうそう」と、ポケットから冷えピタを出して私に持たせた。


 冷えピタ……もしかして、私が風邪ひいたのに気づいて……? すごい!



「チビ朔! あんたって」


「じゃ、あと頼むわ」



 という言葉を残し、チビ朔はふらりと寄りかかってくる。よくわからず私は放心したが、状況を知らせるようにチビ朔の熱が伝わってきた。



「え! あつッ! あんたも風邪なの!?」



 ていうか看病されにきたわけ!? わざわざ!? バカ!



「ぜってーあいつにうつされたんだよ~看病して~」



 肩にもたれかかり、だるそうな声を出す。



「なんで私が! 私だって風邪なのよ!」


「え……マジ?」


「大マジ」


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