「スキっつってんだろ!?」
第38話
ピピピピッ…ピピピピッ…。
軽い電子音が、体温の計測を完了したと告げる。重い腕を上げて、熱い脇から体温計を引き抜く。
「39.3度……ヤバ……」
私も風邪をひいた。
「くそ~……きついだるいきつい~~~ぜったい主任のせいだあ~~~」
愚痴を吐き出すみたいに、思い切りティッシュで鼻をかむ。頭がくらくらして、私はまたベッドへ倒れこんだ。
どうしよう。この調子じゃ病院にもいけない。
「ああもう……看病なんて慣れないことするために、あの風邪菌だらけの家に泊まっちゃったから」
あの日、私は看病をしているうちに、そのまま主任のベッドの横で眠ってしまっていた。起きたときにはきちんとベッドに居たけど。
『おう清水。おっぱよ~』
リビングへ行くと、まだチビ朔が居座っていた。
やつは我が家のようにダイニングの椅子に腰を下ろし、ゲームをしながら主任の用意した朝食を食っていた。
主任はキッチンでコーヒーを淹れながら、私を見て『おはようございます』とすっかり元気な様子で言った。違和感だらけの光景に、私は頭をかくポーズで固まる。
『この卵すげーうまいぞ。なんか普通のと違うの。お前も食う?』
チビ朔は立ち上がり、スクランブルエッグを箸でつまんで差し出してくる。私は大口を開けて、その手をがぶりと噛んだ。
『いってぇ!』、チビ朔は飛び上がる。そしてチビ朔と一緒に飛び上がった卵を、私は手のひらでキャッチした。
『お前、狂犬かよ!?』
『あんたには常識ってもんがないの!? なに家主のように振る舞ってんのよ! おかしいでしょ! この違和感に気づきなさいよボケえ!!』
『これは看病のためじゃん! 必死に看病しているうちに寝てしまったっていう良い話のやつじゃん!』
『あんたがしてたのはゲームでしょ! そんで疲れて寝たんでしょ! 夜中に私が毛布かけてやったんだから!』
『まあまあ、詩絵子様。汐崎朔くんも看病を手伝ってくれたようですから』
キッチンから出てくると、主任は『そうそう』と今思いついたように箸でスクランブルエッグをつまんだ。
『彼の言う通り、これ美味しいですよ? どうぞ一口食べてください』
にこにこ期待しながら、主任はすすめてくる。私は普通にいただいた。
『ほんとだ。美味しいですね』
主任は驚愕し、その場に箸を落とす。
『食べた……普通に食べた……汐崎朔くんの手は噛んだのに……』
『そりゃそうでしょ』
『あのな、噛まれたら痛いんだぞ? 見ろよ、歯型になってる』
チビ朔は自分の手を見せる。それを見て、主任はさらに落ち込んだ。
『歯型……かわいい……ほしい……』
『欲しい言われても』
そのような朝を迎え、主任の風邪はすっかり回復し、会社にも出勤した。
「やばい……これ死ぬ」
なのに、今度は私だ。
風邪って本当に最悪だ。重力が狂ったみたいに体が重く、寒いのに熱くて汗が流れ、熱は脳のあらゆる機能を奪い去っている。
昔の人は風邪が原因でけっこう亡くなってたって聞くし、ちゃんと病院で薬もらってこないと。
ていうか主任、あのときこんなにきつかったんだ。この状態で長ネギなんて巻かれたら殴っちゃうわ。あの人ほんとうに気が長いんだな~。
時計は朝方の4時を指していた。病院が開く時間には、この体調もちょっとはマシになってるといいんだけど。
そうだそうだ、今日は会社もいけそうにないから、主任に連絡しないと。こういうとき上司が彼氏っていいよね! 気楽に連絡できるよ~。
それはもう一眠りしようと思い、瞼を下ろしたときだった。ピンポン。軽快にチャイムが鳴った。
ありえない……。いやほんとにありえない……。こんな時間に、しかもこんなときに訪問なんて……。
誰? 思い当たる人が二人もいるよ。どうせ主任かチビ朔でしょ? あ、でも看病だったら嬉しいや。大歓迎だよ。
看病を期待して、重い体を引きずりベッドから這い出していく。
「はあい」
ふらふらと頭をぶつけながら、玄関のドアを開く。ドアの向こうには、息をはあはあしてマスクをつけた男が立っていた。
見たことのない男だ。中年くらいの歳で、服装はよれよれでどこかばっちい。
誰この人?
「おじさん誰?」
熱でぼんやりしていたものだから、あまり状況を理解できないままに尋ねた。
「はあはあ……お嬢ちゃん、パンツ何色? うへ」
男は三日月のように目を細めて笑った。すみやかにドアを閉じ、カギをかけてチェーンをする。
「……」
……え? 誰?
なに? パンツ? パンツの色聞いてんの?
しばし、ドアの前に立ち尽くす。どれだけ考えても、会ったことのない人だ。初対面でパンツの色を聞くって、もしかして変態さん?
ピンポン。
チャイムが鳴る。その音にやっと意識が明瞭になり、変態が我が家を訪ねにきている、という現状を理解した。
気づいてしまうと怖くなる。どうしよう……たぶん、ちょっとおかしな人だ。このドア一枚を挟んだむこうに、おかしな人がいる。
その事実は、熱のこもった身体の芯に、冷たい氷を滑らせたような恐怖を招き入れた。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。連続して、やかましいチャイムが響き渡る。私は棒のように立ち尽くし、ドアを見つめるばかりだ。
なんなのよ~はやくどっか行ってよ~!!!
けれどもチャイムの音は、間もなくして荒々しいノックに変わった。
ドン!ドンドンドン!
扉の前で爆発が起きているような恐ろしさだった。私はしゃがみこんで耳をふさいだ。
なによこいつー! ギャグみたいに登場したくせに、めっちゃ怖いじゃん!!
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