第29話


 私たちの影も見えなくなった頃、小さくこぼす。その声を最後に、辺りは静寂に包まれ、薄闇がその場を支配した。


 どうしようもなくいたたまれなくなり、美里は声をかける。



『だ、大丈夫だよ』



 美里は自分でも、なにが大丈夫なのか分からなかった。



『あんたって、ほ、ほら……! 顔はいいしさ! まあそれも主任と五分くらいだけど!』



 美里は上手く慰められなかったそーな。

 やがて、チビ朔はちょいちょい、と指だけを動かして美里を呼んだ。


 きっと大きな声が出せないのだろうと思い、美里は園児と目線を合わせる保育士さんのように屈んだ。



『俺、なにも知らない……俺はあんたと会わなかったし、あいつのピンチも知らない……。俺は、あったかいベッドの中で、すやすや眠ってる……』



…………………………………………………………………………。



『…………これはあんたが見た夢。私はなにも知らない』



 長い沈黙のあとで、なんとか同調する。チビ朔はコクコクと小さく頷いた。



『俺は、なにも知らない……ぐっすり、お布団の中で眠ってる……』


『うん……それじゃ……帰ろっか?』



 なるべく優しく尋ねる。チビ朔はプレゼントの紙袋を胸に抱えて大人しく立ち上がり、何度か壁に激突しながら会社を出た。



『あ、あの……ありがとね……?』




 別れ際、美里はそう言ったが、チビ朔には聞こえていないようだった。やつはふらふらと覚束ない足取りで、夜の街を歩いていく。


 街灯に照らされる、その後ろ姿が―――……



「惨めだったわあ……」



 遠い目をして、美里は長く息を吐き出した。



「……もしかしてこれは、美里に内緒話をしてはいけないっていう教訓話なの……?」


「知らせたほうがいいでしょー。なんの役にも立たなかったけど、あんたのために立ち上がった小さき男がいたということを」



 チビ朔……ますます不憫だなあ。



「それよりもさ、いいの?」



 やはりブロッコリーを摘みながら、美里はほどよくメイクの施された目を、ちらりとこちらへ向けた。



「なにが?」


「主任、病気なんでしょ? 彼女としては、看病くらい行ったほうがいいんじゃないかなあ~」


「そ、そうかもだけど……」



 主任一人でいるだろうから、やっぱり看病は必要だと思うけど。風邪のときって精神的にも心細くなるものだし、高熱の身体じゃ食料の調達も難しいからなあ。



「でもなんだかな~顔を合わせづらいんだよね。ちょっとだけ主任に恋愛感情抱きつつあるからさ」


「あんたって自己分析はできてるのよね」


「そうなの。柊さん事件で、主任への恋心が15%くらいに跳ね上がっちゃったから」


「……それ跳ね上がったの?」


「元がマイナスだから」


「なるほど」



 昼休みが終わり、オフィスに戻りながら、私は一人で寝込んでいる主任の姿を想像してみた。薄暗い中、熱にうなされている大きな男の姿が頭に浮かぶ。


 ……よし。帰りに寄ってみるか。

 



 つづく!


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