第24話



「ふふん、あんたには一番こたえるでしょ」



 そもそも、こういうイビリをする前に気づかないのだろうか? 報復を恐れて泣き寝入りするとでも思っているのだろうか?



「今なら、まだ言わないであげてもいいけど?」



 私は余裕の態度で持ちかける。絶対言うけどね! 言っちゃうけどね!

 ここで柊さんは、なにかが抜け落ちたように肩を落とし、それからバッグに手を忍ばせた。



「……これはしたくなかったんだけど」



 チキチキチキ。軽い音を鳴らしながら、カッターの刃が伸びる。


 え……ちょい待ち……。



「全てが主任にばれるくらいなら……なんとしてでもあなたを止めるわ……ナントシテデモ」



 一歩、一歩、意識のない足取りで、彼女はこちらに進んでくる。



「ひ、柊さん……?」


「もうおしまいよ、私の人生、もうおしまいよ。あんたも道連れにしてやるわ」



 こちらを見下ろす彼女の目は、瞳孔が開ききっており、狂気に満ちていた。その目は一瞬にして、私を恐怖の奈落へと引きずりこんでいく。


 やばいよ……こういう人って、ホントにいるんだ……。片思いに人生の全てを賭けちゃって、壊れるくらいなら、いっそもろともって……こういう思い込みが一番怖いんだって。


 どうでもいいことが、物凄いスピードで頭の中を横切っていく。



「いや……あはは、嘘……嘘ですよ! 主任に言ったりするわけないじゃないですかあ!」



 私はなんとか、その場しのぎの空笑いを漏らす。しかし彼女の耳には届いていないようだった。



「ちょっとよ? ちょっと……顔に傷をつけるだけ。私だってね、殺したいわけじゃないのよでもあなたが悪いのよ、だから……ね……? 動かないでね……? 手元が狂って心臓に刺さっちゃったら大変だもの。大変だもの……ふふふ」



 鼻先に向けられたカッターが下りていき、左胸の前でぴたりと止まる。



「そう……ここはダメなのよ、ここは……」



 つん、と、心臓の位置を見定めたように、カッターの先端が左胸に当てられる。


「ひ、柊さん……」、私を抑えているお供が、小さく抑制の声をかける。彼女たちも、今は下手に刺激してはいけないと理解しているようだった。


 私はもうパニックだった。もうどのようなことも考えられなかった。ただ何かを否定して、首だけが勝手に左右に揺れる。


 いつのまにか、取り巻きの手は離れていた。でも私は動くことが出来ずに、金縛りにあったみたいに硬直していた。


 カッターの先端が、顔の前まで迫ってきて、私は固く目を閉じた。


 誰か誰か誰か……誰でもいいから、助けて―――。




 とても、静かだった。

 その扉はほとんど音を立てずに開き、緊迫した空気を押し流し、新しい風を吹かせた。



「しゅ、主任……」



 たぶん、取り巻きのどちらかの声だった。私は顔を上げる。ああ。ほんとだ。主任だ。


 なんだかひどく淡白に、私は呆然とその姿を見つめた。いつものスーツ姿で、でも髪はいつものようにセットされておらず、どこか無防備な印象を受ける。


 すとん、と膝の力が抜けて、私はその場に座り込んだ。



「なんだこれは」



 冷静な低い声で言って、主任は倉庫内の様子を見回し、最後に柊さんが持っているカッターに目を向けた。



「しゅ、主任これは……!」



 柊さんは慌ててカッターを体の後ろに隠し、何事か弁明をしようとした。しかし主任は呆れた顔で首を振り、短く言った。



「柊……お前にはがっかりだ」



 がっかりだ、がっかりだ……がっかりだ……がっかりだ…………。


 その言葉はきっと、柊さんの頭の中で強力なエコーを響かせて繰り返され、巨大な岩をぶつけられたような衝撃をもたらしたことだろう。


 彼女はムンクの叫びのように顔を長くして、両頬を抑えた。



「しゅ、主任……! これには事情がありまして……私は」


「もういい。オフィスの荷物をまとめて帰れ。明日から出社しなくていい」



 主任はふらりと扉に寄りかかり、軽くこめかみを押さえた。


 あ……。そうか……。主任、熱あるんだっけ。



「そんな……」



 柊さんは全ての力を失ったように、カッターを持つ腕をだらりと下げた。しかしそれも束の間で、彼女は最後の力を振り絞ってカッターを両手で握りしめ、刃先を主任へと向けた。



「ひ、柊さん!」


「もう本当におしまいよ……私の人生、もう終わりなのよ……!」



 柊さんはわなわなと震える両手でカッターを持ち、主任へ向かった。


 あ、だめ……。


 私は柊さんへと腕を伸ばした。でも、立ち上がることが出来なかった。彼女は真っ直ぐに主任へと向かっていき―――私はなにもできないまま、柊さんの後姿を見ていた。


 主任が、腕を振り切る。

 その手の甲に跳ね飛ばされ、カッターは一直線に空を切って壁にぶち当たり、最後にはカツン…とちっぽけな音を立てて床に落ちた。


 その音を最後に、倉庫内は異様な静けさに包まれる。誰もが身動きが出来ず硬直する中、カッターの刃よりもよっぽど鋭い目で柊さんを見据え、主任は「行け」、と短く告げる。


 今度こそ柊さんを筆頭に、取り巻きもバタバタと倉庫を後にした。私は呆然としたまま彼女たちの後ろ姿を見送り、それから主任へと目を向けた。


 走り去る足音が聞こえなくなると、主任は扉に寄りかかったまま、ずるずると座り込んだ。


 そして、ずるずると流れるように土下座した。

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