第18話



 意を決して顔を上げる。主任はチビ朔ではなく、真っ直ぐな目で私を見据えていた。怒ってるわけでもなく、困っているわけでもなく、精悍な顔つきで。


 その顔を見てしまったら、なんと言えばいいのか分からなくってしまって、一気に狼狽してしまって、私は口ごもる。


「あの、えと……その……」


 そのとき、主任はかすかに微笑んだ。


 微笑んだ……というのか、こみ上げて来る愉快な気持ちに耐え切れず、ほんの少しだけ表に漏らしてしまった、という感じだった。


 ん? なにその表情……。


 それから、私は主任の後ろにある、もはや見慣れたものを見つけた。


 あれ~……? なんでそんなとこに例のピンヒールが、綺麗に並べて置いてあるのかなあ? なんか……読めてきた。


「このロープってさあ、あんたが使ってんの? プレイの一環として」


 チビ朔はぺしぺしと、ロープで主任の胸辺りを叩く。


 主任はまだ着替えておらず、スーツの背広を脱いだ格好をしていた。いつもより少しだけ髪のセットが崩れて、前髪が束になって顔に掛かっている。



「俺がしてやろうか? 縛ってやるよ、ほら」


 けけけ、と笑いながら、調子に乗ったチビ朔は主任の腕を掴む。


 ……―――ただ、掴んだだけだった。

 にも関わらず、主任は腕を捩じ上げられたような格好になり(どうやったかは分からないが、巧みにチビ朔が腕を捩じ上げたように見えるようにして)、苦痛に顔を歪めた。



「くっ! やめろ!」


 当然まったく力を入れていないチビ朔は、ぽかんとして目が点になる。


 ……なんでかなあ。嫌な予感しかしないよ。



「ま、まあ。じゃあ縛……」


「や、やめろ!! くっ! くそっ!」


 チビ朔がなんとか気を取り直してロープを巻きつけようとしたところ、ロープのほうが勝手に主任へと巻きついていく。


 なにを言っているか分からないと思うが、私にもさっぱり分からん。


 これもどんな手品を使ったかは不明だが、チビ朔に抵抗するように動き回る主任の身体が、くるくるとロープを巻き取っていき、なぜだかYシャツのボタンが弾け、ロープの端はするりとチビ朔の手から落ちていき、最終的には床に両膝をついてギチギチに拘束された主任の姿が出来上がっていた。



「はあ……はあ……くッ!」


「……」


「……」



 こやつ……―――今、どうやって縛った……?



(な、なに……? 今なにが起こったの!?)


(し、しらないしらない……! 俺なんにもやってない!)


(生きてたよ! ロープが生きてたよ!)


(ああ、魂が宿っておられるよ!)



 私とチビ朔は顔を見合わせ、パクパクと口を動かしてテレパシーで会話する。この時、私たちの心はしっかりと一つに固まっていた。



(チビ朔なんとかしてよ! あのロープ自分じゃほどけそうもないじゃん!)


(や、やだよ、俺がロープ様に祟られちゃうだろ! 巻き付かれちゃうよ!)


(ロープに触らないようにすればいいじゃないの!)


(無茶いうなよ!)



 テレパシーで素早く話し合った結果、とりあえずロープには触らないよう、チビ朔が声をかけてみることに決まった。



「ぁ、あのさ、俺もいきなりでちょっと悪かったよ」



 チビ朔は相手を刺激せぬよう、笑顔で主任の前に屈みこんだ。



「だからさ、なんていうの? あんたもとりあえずそのロープほどいてさ、冷静に話し合おうぜ? な?」


 ぽん……―――。と、ロープには当たらないよう、肩に手を乗せただけだった。



「ぐうっ!」


 主任は後ろへと吹っ飛び、そこにあったダイニングの椅子を背中で倒しながら荒々しく着地する。


 がしゃんどすん!

 激しい轟音が家中に響いていく。壊れた椅子の中から、主任は「はあはあ」言って這い出してくる。肩の部分のシャツが、なぜかダイレクトに裂けている。


 チビ朔はまたもや目を点にして、自分の右手を見下ろした。それから振り返る。



 こやつ……―――、どうやって飛んだ……?



(と、飛んだよ! あいつ勝手に吹っ飛んだよ!)


(椅子壊れたよ! あんたが力入れすぎたんじゃないの!? そう言ってよ!)


(ないない! 俺女の子のおっぱいに触るくらい優しく触れたよ! ちょーソフトタッチだよ!)


(なんで服まで破れてんの!?)


(知んない知んない! なんで触れてもないのに口から血ィ流れてんの!?)


(きょわいよきょわいよ!)


(きっとそのうち勝手に死ぬんだよ! そんで俺たち殺人犯になるんだよ!)



 私たちは狼狽して口を空まわりさせるばかりだった。そんな私に、ずるずると這い出してきた瀕死の主任が叫んだ。



「さあ! 詩絵子様今です! ピンヒールで僕にトドメをッ!!」


「……」


「……」



 おかしいじゃん……!

 その流れはとんでもなくおかしいじゃん! せめて知らない男が彼女を奪いに来たっていう設定は守り通そうよ!


 チビ朔を見たときの不気味な笑みは、やっぱり私が仕込んだプレイの一環だと解釈したんだよね? でも、仮にこれがプレイだったとしてもだ。


 あんた一人で成り立ってるじゃん……。ロープも自分で縛れるじゃん……。あんたちょう出来る子じゃん……。人の手をかりる必要はどこにもないよ。だからパネルかなにかを相手にやっておくれよ。



「あー……なんか今日、すげーいい天気だよなあ」


 チビ朔は唐突に言った。彼の目は遠くを見ていた。


 チビさくぅ……。現実から目を逸らしたいその気持ち、痛いほど分かるけど。



「よ、夜だよ?」


「いやさ、七夕ってあるじゃん? 織姫と彦星が一年の中で唯一会うことを許されてるって伝説のさ」


「……」



 ……チビ朔? 何言い出してんの……? あんた一体どこ見てんのよ。逃げちゃダメだよ。



「でも七夕の日って、だいたい曇りか雨でさ、ぜんぜん空見えねーじゃん? 俺は男として、彦星の野郎に一言いってやりたいね。惚れた女なら、さらってでも愛を貫け、ってな…………。ま、そういうわけだからさ」


 そういうわけだからさ……?



「天気のいいうちにお空見とくわ。じゃ」



 くるり。チビ朔は踵を返す。



「ちょ、ちょっと……」


 オネガイ……オイテカナイデ……コノシトキョワイノ……。私はふらふらとチビ朔の後を追う。ドアを閉める前に、私は主任を振り返って言った。



「あ、あの主任……そのロープ、自分で縛ったんだから、自分ではずせます、よね……? 主任がもし風邪をこじらせて肺炎になっても、私は責任とれません。えと……あの……失礼します……ほんと、恨まないでくださいね……ほんと、なんか……すみませんでした……」



 パタン。

 ―――こうして、私は主任の家を後にした。



『引っ越そうかなぁ……』と小さく呟くチビ朔の後ろ姿が、なんだかとても寂しかった。巻き込んじゃって悪かったな……。


 そして今日も、やつからのメールはやってきた。


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