第7話


 向井主任は、どこの貴族の使いかと言いたくなるような恭しさで私をタクシーに促し、自分は助手席に座った。タクシーに乗る場合、助手席は一番立場の低い人の席だ。運転手の話し相手や道案内をしなければならないから、という理由らしい。


「お客さん、後ろに座らないのかい?」


「後ろは上座だ」


 運転手のおっちゃんが、ミラー越しにちらりと私を見る。

 明らかに部屋着のジャージ姿の私と、ぱりっと皺一つよっていないスーツ姿の主任を見比べ、なんとも不思議そうに首を傾げる。


 このジャージのちびが上座? とかなんとか思われてるのかも。なんだかいたたまれない。意味もなく袖口を伸ばして手を隠す。なぜか固まったご飯粒が袖にくっついていた。くう……、どこまで庶民なんだ私は。


 せめて着替えてくれば良かった。今井のおばちゃんの妨害さえなければ……。そもそも主任が後ろは上座だ、なんていかにも自分より大物が座っている風のことを言うからいけないんだ。


 そりゃあ運転手のおっちゃんも後ろをみるよなあ。そしてなんだこの貧相なチビはと蔑むよなあ。


 この惨めな気持ちは全て主任のせいだ。考えている内にそういう結論に至り、水分という水分を失ったカラカラの米粒を助手席の主任へ投げた。米粒は軽やかに弧を描き……すぽっ……と、主任のワックスで固められた髪の隙間に入っていった。


 小さなガッツポーズ。


 ははーっ、ざまーみろ!

 お風呂に入ったときに気がついて、いつから米粒つけて歩いてたんだろうって落ち込んでしまえ!


 タクシーが停まったのは、一際高いセンセーショナルなマンションの前だった。昨日も来たけど、最初に見たときは一目で高級だと分かる外観にびっくりした。いずれはここに住めるのかしら、ってうきうきもした。しかしそれも、はるか遠い過去……。今は変態の要塞にしか見えない。


 主任がタグキーを機械にかざすと、正面のガラス戸が開く。エレベーターもタグキーをかざさなければ開かない上に、決められた階にしか停まらない仕組みになっている。さらに玄関のドアは暗証番号を入力しなければ部屋にも入れないというセキュリティーの厳重さだ。


 泥棒は最初からこんなところに盗みに入ろうとは思わないだろう。


 豪勢なエントランスの背景が、主任にはよく似合う。私はエレベーターに乗りこんでからも、主任の横顔をまじまじと見つめていた。やっぱり、主任だ。その凛々しい風貌は、異論の余地なく、厳しくて頼れるみんなの向井主任だ。


 背は高い。180は超えている。体格もそれなりによく、スーツがよく似合う。固められた髪も、パソコンを睨むように眉間に皺を寄せる仕草も、大好きだったのだけど。


 土下座して踏んで下さいだもんなあ……。


 部屋に先に入るように促すので、そろそろと中に入る。まるでモデルルームのように生活感のない部屋だが、異質なものがひとつ、これみよがしにフローリングに並べられている。


 真っ赤なピンヒールだ。


 昨日持ち帰ったはずの、私の足のサイズの小さなピンヒールが、リビングの床にセッティングされていた。


 主任を振り返る。主任は笑いをこらえたような顔で一つ咳払いをし、背広を脱いでハンガーにかけた。どうやらこのピンヒールを、誰の部屋にでもある極普通のものとして扱いたいらしい。



 もしくは私がそれを履いて『踏ませろ!』というのを待っている。差し出されれば喜んで履くとでも思っているのか? それよりも、また買ってきたんだろうか?


 ピンヒールの横を通り抜け、私はソファーに腰を下ろす。主任は肩をがっくり落とす。


「まあ、夜はまだ長い…。放置プレイ……望むところです」


「……主任は、本物の主任なんですか?」


 自分でも訳の分からない質問だと思った。しかし主任はとくに驚いた様子もなく、カウンター式のキッチンに立ち、コーヒーを淹れ始める。


「そうですよ? なにか不思議でしょうか?」


 不思議だらけなんだよ! 人格変わりすぎだろうが!

 と、思ったものの、主任は彼氏である前に上司だ。私の中では上司としての主任のイメージが断然でかい。だから思うがままにすぱんと突っ込むのは、無意識にセーブがかかる気がする。


「だって、会社ではもっとこう……厳しい感じじゃないですか」


 この質問に対して、主任はこんな風に答えた。 

 

「詩絵子様、人は擬態する生き物です。その場に応じて見合った人格をつくる。爬虫類がしがみついた木の枝と自らの身体を同じ色に変えるように、自分を守るため、人間にも必要な能力です」


「主任は、なにから自分を守っているんですか?」


「世間体」


 きっぱりそう言うと、トレーにコーヒーを乗せて運んできた。カップは一つしかない。ソファーの前のローテーブルに、優雅な所作でそれを置く。ミルクで白っぽくなったコーヒーを一口飲む。私の好きな甘ったるいコーヒーの味だ。


 いつの間にやら、オーディオから私の好きな曲が流れていた。気が付くと、ここは私の好きなものが揃った心地よい空間と化していた。


「……私の好みを、よく知っているんですね」


「僭越ながら、詩絵子様のことならなんでも存じております。勤務中にこっそりスナック菓子を摘んでいることも、会社用のパソコンでこっそりゲームをしていることも」


「!!」


 なぜそれを!


 主任は仕事終わりにも関わらず、ソファでくつろぐこともせず、今度は料理を始めた。


「あの、前から不思議だったんですけど」


「なんでしょう? この駄犬に答えられることであれば、命をかけてお答えいたします」


 そんなことに命を掛けられても……。とは思ったけど口にせず、私は問いかけた。


「なんで私なんですか? 主任と付き合いたいっていう人、いくらでもいるのに」


 主任の常に真っ直ぐ結ばれている口端が、ゆっくりと上がっていく。よくぞ聞いてくれました! そんな顔だ。


「詩絵子様、先日も申し上げたように、あなたは理想的なのです」


「理想的?」


「この駄犬もですね、自分の特異な性癖に最初は戸惑ったものです」



 特異な性癖? ドエムってこと?


「そうですね、俗っぽい言葉を使うなら、ドエムということです」


「!」


 心を読んだ!?


「しかしこの駄犬めにも、微少ながら好みというものがございます。僕は裸同然の格好で鞭を振り回すような、いかにも嘘くさい女王様になぶられたいのではございません。なぜかは分かりませんが、駄犬の求める女王様像は、少女なのです」



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