「駄犬の求める女王様像は」
第6話
家のチャイムが鳴り響いたのは、スマホに表示される時刻が22:23に切り替わった時だった。誰が来たのかは、予想がつく。今、そのメールを見ていたところだ。
『今夜、お迎えにあがります。』
そろりと起き上がり、忍び足で玄関へ向かう。そっと覗き穴から外を見たけど、案に相違して、誰もいなかった。
てっきり主任が迎えにきたと思ったけど、違ったんだろうか。私は静かにドアを開けて、隙間から外の様子を伺った。
そこには会社帰りの主任の姿があった。ワックスでつやつやと光る黒髪を見せて、跪いている。なるほど。この体勢だと覗き穴から見えない。
「お約束した通り、お迎」
ばたん。扉を閉める。
すかさず覗き穴を覗いてみたが、やっぱり主任の姿は見えない。跪いたまま待っている、ということだろう。
私はいったん部屋に引っ込み、ベッドに寝転がってスマホのゲームで遊び、お菓子を食べ、トイレへ行き、いつも通りに過ごした。その間、呼び鈴が再び鳴ることはなかった。
「主任、もう行ったかな」
覗き穴を見たが、主任の姿はみえない。
でも……いる。私には分かる。玄関のドアの向こうに、底知れない存在感がある。あの男は帰らない。私が扉を開けるまで待ち続ける覚悟だ。
「どうしよっかなあ……」
出て行くのはなんとも気が重かった。でも、いつまでも家の前に跪かれていては、近所の人に気味悪がられてしまう。私が閉め出したようにも見えるかもしれない。
私はしぶしぶ扉を開けた。
「約束どおり、お迎えに上がりました」
先程途中で切られた台詞を、もう一度やり直す。私は主任を中へ促した。
「あの、主任……。とりあえず入ってください。近所の人に変な目で見られちゃうし」
「詩絵子様の家にこの臭い足で上がるなど、めっそうもございません。家の前にタクシーを待たせてあるので、ご足労とは思いますが、どうぞそちらまで」
……足臭いの?
へりくだって言ってるだけかもしれないけど、そんなきっぱり臭いって宣言されるのやだなあ。
主任の家に行く気はなかった。しかし私が携帯にワンコール鳴らすまで、一晩中フローリングに這いつくばっていた男だ。しかもその体制のまま変態的な長文メールを寄越してくる男だ。
私が行くまでそこを動かないことは容易に予想がつく。
「ていうか、家教えてましたっけ」
怪訝と主任を見下ろす。私の家の場所は教えていないはずだ。
「浅はかな知恵と小癪な手段を用いまして、会社に保管されてある履歴書を拝見させていただきました」
ほんとに小癪だな! ていうかそれ犯罪だから!!
思わず頭を蹴り飛ばしたくなった。これがまたちょうどいい位置にあるもんだから……。でも、ぐっとこらえる。
この男は、蹴ると喜んでしまう。私は怒りを発散させるために蹴りたいのだ。決して喜ばせるためではない。
……あれ? なんか、ドエムって最強じゃない? 一般的な攻撃が効かない。効かないどころか、快感になるんだから。最強じゃないの?
「詩絵子ちゃん? 誰か来てるの?」
隣室の扉が控えめに、けれどどこか厚かましく少しだけ開いた。主任と私の姿を見て、前髪をカーラーで止めたおばさんが目と口を大きくあけた。ついでにドアも大きく開け放つ。
「あらあらあらあらあらまあ!!」
彼女は隣人の今井さん。独身のおばさんだ。カバのような顔をしている。
その歳で一人暮らしは寂しいのか、なにかとおせっかいをやいてくる。つい先日も、田舎から送られてきたらしいジャガイモをダンボールに詰めて大量に押し付けてきた。
「はじめまして、向井帝人と申します」
気が付くと主任は立ち上がっていて、今井さんにきりりとお辞儀をした。業務用の振る舞いに近い。いつもの主任だ。
今井さんは上から下まで主任を視線で舐めまわし、年甲斐もなく頬を赤らめた。
「ちょっと詩絵子ちゃん!! いい男じゃないのお~~! いやね、おばさんも聞いてたのよかっこいい彼氏がいるってね。でもねえ~まさかここまでカッコいいとは思わないじゃないおばさんもエスパーじゃないからさああははは!」
かなり舞い上がっているようだ。
「ほんとごめんなさいねえ、こんな格好でえ。おばさんもあと20若けりゃアタックしたのにねえ。いやね、突然男の人の声が聞こえたからね? これはもしや、とおばさんもビビビッときたわけよ。やっぱり彼氏さんがきてたのねえ」
身体が半分、外に出てくる。
「それにしても……もしかして喧嘩中だったの? 彼、向井さんだっけね、こんなところで立ち話だなんて。詩絵子ちゃんに閉めだれちゃったんでしょう? かわいそうに」
「いや、これはそういうわ」
「だめよ詩絵子ちゃん! こんないい人他に見つからないって! どうせろくでもない喧嘩なんでしょ? あーたちょっとわがままなところあるんだから! さっさと謝っちゃいなさいよ」
「今井のおばちゃん、ほんとにこれは喧嘩とかじゃ」
「うんうん、おばちゃんも分かるよその認めたくない気持ち。おばちゃんもわりとわがままだったからねえ。でも意地になったっていいことなんてひとっつもないんだから! ほら、彼も謝ったら許してくれるわよ、ね! ほら! 許してくれるって」
カーラーで前髪が鳥のとさかのようになったおばちゃんが、私を諌める。
なに? 私が謝らないといけないの? おばちゃんの巧み(としか思えない)な話術によって、私はそういう状況に立たされていた。
本当はここで主任にさくっと別れを告げて終わらせるつもりだったのだけど……今井のおばちゃん、部屋に引っ込みそうにないし……。主任は家に上がりそうにないし……。外ではタクシーが待っているし……。
「主任! 行きましょう!」
私はおばちゃんを後に残し、主任とマンションを出て、学生時代のジャージ上下のままタクシーに乗った。今井のおばちゃんは何か言ってたいたけど、全部ムシした。
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