トラウマティズム

 知らず知らずの内に、心の中の声が外に出てしまっていたらしい。ヨハンが間髪を入れずに応えたことには少々驚いたが。それにしても、彼は今、能力と言ったか。それは、どうやらヒカルの知る意味の能力とは、異質なものであるようだった。


「つまるところは、千里眼。大気中のマナを媒介として、遠く離れた場所を見ることができるのだが」


「ちょ、ちょっと待ってください。能力とかマナとか、何のことなんですか?」


 全く未知の言葉の羅列に、ヒカルは混乱した。しかし、どうやら彼の国ではこれは常識らしい。――しばらくの沈黙の後、ヨハンは口を開いた。


「東洋魔術は神秘主義とは、よく言ったものだな。自身の力に気づかないのも無理はないか……。まぁいい、本題とは関係ないからな」


「本題……。さっき言っていた、皇帝の道楽ですか?」


 ヨハンは首肯したが、その目が泳いでいるのをヒカルは見逃さなかった。これは、相当言い出しづらいことなのだろうな。と彼は勝手に想像した。こんな目をした大人がかけた言葉が、自分の過去を変えてしまったことを彼は忘れていない。


「そうだ。我が国の皇帝は能力者を集め……、もとい、国家戦略として招聘しているのだ。その調査の一貫で、お前を見つけたという訳だ」


「招聘……、それってつまり……」


「あぁ、お前をワルハラに招きたいのだが」



 予想はできていた答えだった。しかし、頭で考えるのと、実際に言われてみるのとでは、衝撃がまったく異なった。つまりこの男は、自分を迎え入れるつもりでここまで来たということだ。状況を飲み込むのに必死で、渋面を浮かべていたヒカルに、ヨハンがとりなすようにつけ加える。


「もちろん、ただでとはいわない。国賓としての待遇を保証するし、必要があれば何でも手配する。それに……、嫌ならば断ってもらっても構わない」


「受けると思っていたんですか?」


 吃りながら取り繕うヨハンに、鋭く切り返す。そんな重大なことをすぐに決められる訳もない。自分に家がなく、食うものに困っているような状況であれば、この誘いは天佑であるだろうが、幸い僅かの財産と住居は持っている。それに自分には、家を守っていかねばならない理由がある。


「…………だよなぁ、だから無理だと散々言ってきたのだが」


 苦笑しながらヨハンが呟く。どことなく嬉しそうなのは、彼が今までずっと、その皇帝なる人物に振り回されてきたからだろうか。大きく伸びをしたヨハンは、目尻を指でこねくり回しながら、まったく関係ない話をし始めた。


「ところで、お前。親はいないのか?」



 ――――ガシャン――――。


 飲み終わった茶碗の欠片が、流し台に散乱している。自分が落としたのか、それとも落とされたのか。


「……大丈夫か?」


 不意に肩口に伸びてきた腕を、反射的に振り払う。小さい声が漏れる。見ると、ヨハンが片手を押さえて、心配気な様子で立っていた。あぁ、あの腕は彼のものだったのか、と納得する。


「す、すいません、びっくりして……」


 眼鏡のズレに気づいたヨハンは、それを直しながら、いや、いいんだ。と小声で言った。


「こちらこそ、申し訳ないことをした。……手を、怪我しなかったか」


 手……。改めて自分の手を見てみる。食器の破片で切ったりしたところはなく、それを確認して胸を撫で下ろす。しかし、それにしても……。


「なんで、親がいないって。俺が一人で暮らしてるって分かったんですか」


 ヨハンはヒカルから目を反らして、窓の外を見ながら探るように言った。


「……この町に来た時から違和感はあった。壮年期の人間が極端に少なく、出歩いているのは子供と老人ばかり。窓の造りはめ殺しで、扉はやけに頑丈。住人を外に出さないか、或いは外敵を中に入れないためなのか……」


 そうだ。この町は少し変わっている。もっともこれらの変化も、ここ数年の出来事であるのだが。


「つまるところは、この町、あの失踪事件に巻き込まれたのではないのか?」


 失踪事件。ヒカルは、無言で肯う。


 忘れもしない十年前のある夜、この小さな港町で起きた事件。ヒカルの父母を始めとして、壮年期の人間が煙のように消えてしまった事件。人々の想像を超える恐怖が根強く残り、それ以来、物音一つしないような夜を過ごすことを住人たちに強いている忌まわしい事件……。


 失踪した人々は、誰一人として見つかっていない。裏を返せば、一人も死人が出ている訳ではない。もちろんヒカルは、今でも両親が生きていると信じている。――二人が帰ってくる日まで、この家を守るのが自分の役目であると、十年の間、ヒカルは考えてきたのであった。


「だから俺はこの家を離れることはできない」


 はっきりと言い切った。つかえがとれたような、肩が軽くなったような感覚、自分の決意を口に出したからであろうか。それとも、自分が家を離れたくない論理的な理由を提示できたからであろうか。どちらにせよ、自分の思いは白髪の青年に、はっきり届いたようだった。自分は、この家に残り、待ち続ける。



 その決意を揺らがせる言葉が、間を置かずに放たれた。


「なら、私も家に残りたかったものだな」

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終末のアラカルト @DaichiRin1914

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