第96話 カリブの波間 ⑦フェルナンド
アロンソの弟フェルナンドが営む花屋はカリブに臨むビーチの入口にあって、それなりに繁盛している。顧客はホテルに泊まる旅行者や、C市の住人たち。人びとは日々の歓楽に彩りを添えるため、寂しさを紛らすため、喜びをたしかな形にあらわすため、カリブの波間に花を求めた。
つましくも平和な半生をフェルナンドが送ることができたのは、兄と妻のおかげといえるだろう。
兄を手伝い『自警団』の草創期を支えたフェルナンドは、兄の強い希望もあって、高校時代から長く交際をつづけてきた娘との結婚を機に裏稼業から足を洗った。一生を独身で過ごしたアロンソと異なり、子にも孫にも恵まれたフェルナンドは、半世紀前の激動が夢だったようにいまは平穏のなかに自足している。
ところがそんな楽隠居のフェルナンドが今でも、海を波立たせるスコールを見る度、胸の鼓動が早くなり不安に
その日フェルナンドの店を訪れたのは、麻の白シャツを粋に着こんだ男。遠い海上に星が姿をあらわしはじめる黄昏どき、めずらしく店にはほかに客がいなかった。
フェルナンドは扉に背を向け、ひとりで花の束を解いているところだった。いつも遊びに来ている七歳の孫娘はちょうど夕食のために奥に下がっていた。扉につけた鈴が夕刻に相応しくない涼しい音を鳴らすのにも、一瞬振り向いただけでフェルナンドは作業をつづけた。
「女にプレゼントか? 今夜落とそうってんなら薔薇だな、やっぱり。奇を
背を向けたまま深紅の薔薇を束ねた一角を指して言うフェルナンドに、白シャツ――イシドロは黙って近づいた。
フアン襲撃の黒幕がフェルナンドだと突き止めるのに、三日とかからなかった。エリベルトもフアンも、最初からそうと薄々感づいていたのかもしれない。エリベルトの話す報告を、フアンは最後までは聞かなかった。
ひと声も発しない客に、フェルナンドは話し続ける。
「年寄りの忠告は聞くもんだぜ。べつに、薔薇が売れ残ったから押しつけよってんじゃねえ。薔薇は特別なんだよ、若え男にはわかんねえだろうがな」
音もさせず側まで寄って、フェルナンドの真後ろに立ったイシドロが、はじめて声を出した。
「女を泣かせに来たんじゃねえんだ」
間近から聞こえてきた声に、素早くフェルナンドが振り返った。すぐ目の前に立っていた男に目を
「じゃあ、男を泣かすってのか?」
「お前の趣味か? なんなら活きのいいのを宛てがってやるぜ?」
イシドロは冷淡に笑った。
「フアンの
しわがれた声で返すフェルナンドに、
「そのフアンからの伝言だ」と声を一段低くしてイシドロが言う。「店をたたんで、B市へ行け。首都の連中とは話をつけた。B市であんたは安全だ」
「殺しにきたんじゃねえのか……奴らしくもねえ」低く呟いたあと、「だが飲めねえな。兄貴を殺されて、仕返しもしねえうちに尻尾巻いて逃げろってか? 相手のお情けに縋って? けっ、ふざけんじゃねえ」
気色ばむフェルナンドには、どこかやんちゃだった青年時代の面影がある。
「おれに当たるな。フアンから
「……兄貴は、あんな死に方をする人間じゃなかった。おれなんかより、よっぽど長生きする筈だった」
「だろうな」イシドロは無感動に答える。脇のホルスターをいじりながら。
「フアンには報いを受けさせる。おれの命を賭けてもな」
「ふん。ともかく、フアンの言葉は伝えたぜ」
そう言ったあと、胸のポケットから束になった写真をとり出して、そのうちの一枚を机の上に置いた。映っていたのは、フェルナンドとその妻だ。
「で、こっからはフアンじゃなく、フアンの戦友五人からの伝言だ」
残る写真を黙って机に一枚ずつ並べていくうち、フェルナンドの顔から不敵な光が消えた。並べられたのは息子や孫たちの写真、それに彼らの家、通う学校、乗っている車――イシドロの手から繰り出される写真はまだ尽きない。
「今回だけは大目に見てやる。フアンが止めたからな。だがフアンに万一のことがあったら、こいつら全員、クリスマスは迎えさせねえ」
写真を見つめたまま黙るフェルナンドへ、言葉をつづけた。
「五人でそう誓ったんだ。フアンに手を出すなら、おれたち全員殺すつもりで来い。ひとりでも
「本気か? ……まだ
「フアンなら止めるだろうがな。生憎おれたちは、フアンほどやさしくねえ。ま、よぉく考えといてくれ」
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