第94話 カリブの波間 ⑤蜜月

 このところ、マカレーナはどれだけ迫られても客とベッドを共にすることはなくなっている。肝心のところではぐらかすマカレーナにますます男たちは躍起になって女王のご機嫌とりに励んだ。

「いいカモね。何人たぶらかすんだか」

 アンドレイアが笑うと、マカレーナも屈託なく笑う。

「やーね、人聞きのわるい。あたしは知んないわよ。あっちが勝手に貢いでるんだもーん」


 ホールから客を追い出したあとマカレーナは自室に戻り、やがて朝を迎えるとダニエリたちが学校へ行く。そのあと陽が高くなってガブリエルが大学へ向かうまでの束の間が、マカレーナの至福のときになった。

 子供たちの騒がしい声が階段を下りていってしばらくすると、マカレーナの部屋の扉がノックされるのだ。鍵をかけていないのにいつも自分からは扉を開けないガブリエルのために、マカレーナはドアまで飛んで行った。

 二度目に結ばれたあとしばらくはまたガブリエルを突き放していたマカレーナは、やがて取り繕うのをやめ正直になって、店がはねたあと「朝になったら来なさいよ」と囁いて帰るのが常になっていた。自制をなくしたような振る舞いにも、幸いふたりの仲に気づいている者はまだ少ない。


「すこしは控えろよ」

 ガブリエルが大学へ行ったあと、隣室からカタリナがやってきて言った。覗きこんだ寝室には、男の残り香がまだベッドに匂っている。

「毎朝じゃあ、そのうちみんな気づくぜ。ほかはともかく、ダニーに知られたくはねえだろ?」

「そうね」マカレーナはうわの空で返した。

「そんな夢中になるなんて、らしくねえ」

「自分でもおどろいてるわ」上気した頬から女の香りが色濃く匂った。「こんなの初めて。たぶんこれって、あたしの初恋なんだわ」



 カタリナに注意されても、マカレーナは天から下されたような幸福に酔って、手放すことができなかった。

 ガブリエルが労わって髪を撫でるのに、ずっと身をまかせたかった。シャワーを浴びると裸でガブリエルの胸に飛びこみ、そのままベッドで横になるのが幸せだった。


 白いシーツのなかガブリエルにぴったり体を寄りそわせて、マカレーナは囁いた。

「あんたのおかげで、そのうちあたし、身を滅ぼしちゃうわ。お客さんみんなに逃げられてさ」

「きみが倒れたら、おれが支えるよ」

「貧乏なくせになに言ってんの」

「大学出たら、働くよ。ふたり暮らすぐらいなんとかなるさ」

「お生憎。あたし貧乏生活はきらいだわ」

 夜のつかれが抜けきらない朝のまどろみのなかで、こんな他愛ない会話が心を洗った。互いに求めるでもなく、ただ子供同士みたいに抱き合っていればマカレーナは満たされた。

 そのうちガブリエルの体温と息づかいと匂いにつつまれて、短い眠りに落ちていくのだった。



  ***



「あの坊や、やっぱり気に入ったのか?」

 唇を合わせる前に見せたマカレーナの表情を見咎めて、フアンが言った。マカレーナが一瞬ためらった気がしたのだ。

「ガビのこと? まあね。それがどうかした?」

「本気か? ダニーが泣くぜ?」

 かるく流そうとしていたマカレーナが、フアンの言葉にふり返った。だが焦ることなく、息を整え自信をもって答えた。

「ダニーには気づかせないわ」


「おれが気づいたのに?」と目の奥を覗きこむフアンに、

「だって、あんたアレクサンドラから聞いただけでしょ」

「…………鋭いじゃねえか」

「ふふん。なんだってお見通し」フアンの鼻をつついて。


「それにしても、ガビかよ」フアンはマカレーナの手をうるさそうに払う。「意外……でもねえか。そんな気がしてたよ、初めて奴を見たときから」

「そう?」

 おどけて見せたあと、目を伏せた。腰に下ろした両手をぎゅっと握って力をこめた。自分でも意外なほど、胸の奥から素直に言葉が出てきた。

「あたしはぜんぜん気づかなかったわ。胸がぐちゃぐちゃになったって、ぜんぶ気の迷いなんだって思ってた。いまだって、気の迷いならいいのにって思ってんの。ばかね」


 黙ってフアンはマカレーナの背のファスナーを下ろした。

「いやよ」マカレーナは身を離そうとした。「そんな気分になれないわ」

「おれは気分なんだよ」

 これまで心の奥底に封印していた熾火おきびが急に炎を上げたような生な感情に衝き動かされて、マカレーナを狂おしく抱きしめた。抗われてもかまわず、身にまといついたドレスを乱暴に下までおろすと、しまいにはドレスはまるまって床に転がった。

 六年分の愛をすべて詰めこみ凝縮したように情熱的に貫かれながらマカレーナは、ひと声も洩らさずフアンを睨んだ。哀しみと憐れみとに彩られた、燃えるような眸。




「気が済んだ? これであたしはお払い箱ね」長い交わりからようやく解放されたマカレーナが、フアンに背を向けたまま言った。「アレクサンドラはいい子よ。それに、あんたに夢中だわ」

 ドレスに両足を通し、形を整え、フアンに向き直った。さっきまでの激しい感情はどこかへ消えて、いまはさっぱりした表情で。

 対してフアンは、射るような眸で見返した。

「お払い箱? なんのことだ?」

「カルテルのボスが二股かけられてるなんて、かっこがつかないでしょ? さっさとあたしなんか袖にしちゃった方が、名が上がるってもんよ」

「ふん……。お前が、そんなわからない女とは思わなかった。それとも、ばかなふりをしているのか?」荒々しくマカレーナの顎を引き上げるとくちづけた。「格好なんざどうでもいい。おれがお前を、そこらの女と同じように扱うと思ってンのか?」

 マカレーナの肩を押しベッドに投げ捨てると、背を向けフアンは言った。

「おれがお前を捨てるときは、お前を殺すときだ」


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