第93話 カリブの波間 ④ナサニエル

「なんで裏切った?」

 レナートの声が倉庫の隅々に吸い込まれていった。


 ここはフアンが港近くに借りている倉庫のひとつ。男がひとり、頭のうえから黒い布をかぶって、椅子に座らされていた。まわりを囲むのはパブロ、レナート、レオンにルカ。うしろにはフアンが控えている。彼らのいる一角だけ灯りの点いた倉庫は、うんざりするような熱帯夜だというのにどこか寒々しい。


「裏切った? そんなつもりはないぜ。ただ、エリベルトの野郎が……」

 言いかけて、覆面の下でナサニエルは唇を噛んだ。

 エリベルトに劣ると思っていない自分が、いつも二番手になるのが面白くなかった。奴をちょっとへこませてやればそれでよかった。

 エリベルトが中心になってここまで運んだ『MB』との交渉が、警察の襲撃で破談になれば奴の面目は丸つぶれ。それだけだったのだ、ナサニエルにとっては。


「お前のそういうガキみてえなところが……」

 パブロが言いかけてやめる。済んだことだ。いまさら責めても仕方ないと、レナートの目が言っていた。



 黙ったパブロの代わりにナサニエルが喋りだす。

「フアン……チャンスをくれよ、もう一度。二度としねえよこんなこと。ばかなことしたって、おれも分かってんだ。ほんとだぜ。ただ、おれは……。なあ、チャンスをくれよ。おれはもっと役に立って見せる。フアンの役に立ちてえんだ。なあ、黙ってねえで、なんか言ってくれよフアン」

 目隠しされどこにいるかわからないフアンに向かって喋りつづけるナサニエルの傍らで、レナートがフアンを見た。フアンは口を真一文字に結んだまま覆面を見下ろしている。


「もうエリベルトとケンカもしねえよ。パブロの言うこともちゃんと聞くって。なあ、おれがわるかったよ。だから、なんか言ってくれよ。そこにいるんだろ、フアン?」

 ナサニエルはまだ自分を見舞った運命を信じないように話しつづける。フアンは煙草をくわえ――ライターの石を擦る音、微かなオイルの匂い、やがて嗅ぎ慣れた煙草の匂いがナサニエルにも届いた。


 運命といえば、ナサニエルが『旅団』に加わったことこそ運命のいたずらと呼ぶべきかもしれない。


 ナサニエルとの出会いは七年前。フアンがC市に戻ってほどなく、新興の『旅団』は恐いものなど知らぬように街で暴れまわっていた。

 まだ堅気で小さな貿易会社に勤めていたナサニエルがたまたま、『旅団』と『自警団』との銃撃戦に遭遇したのだった。

 双方から飛んでくる銃弾から逃げ惑ううち浜辺に打ち寄せられるように、ナサニエルはフアンが身を隠す部屋に飛びこんだ。

「なんだ、てめえは?」

 壁の向こうへ注意深く目を向ける男が、こちらへは目もくれずついでのように訊いた。銃弾がむちゃくちゃに飛び交っていた。

 シャツの襟から覗く刺青のアナコンダ。男の頬を舐める、ふたつに割れた赤い舌。見るからに危ない空気をまとった男に、ナサニエルは恐怖よりも憧れを感じた。


 敵側の銃声が途絶えた瞬間、男が飛び出そうとするのをうしろから叫んで呼び止めたのは、ナサニエルの直感だ。

「行かない方がいい。罠だ」

「あぁ⁉」

 出鼻を挫かれ不愉快な表情でふり返ったフアンに、前方を指して言った。

「あそこ、敵が隠れてる。飛び出したらきっと蜂の巣だ」

 ナサニエルの指摘に、フアンはあらためて周囲を見まわした。

「……ほお」ナサニエルの言をれて、すぐに別ルートを開くよう隣の男へ指示した。それから悠然と煙草をとり出し、「ところで、お前だれだ?」とフアンは問うた。


「就職希望なんだ」自分でも思いがけずにナサニエルは口走っていた。

 働きながら六年通った大学の卒業資格をようやくに得て、よりよい転職先を探していた矢先のことだった。だが停戦成って間もないこの国で、そうそう良い働き口が見つかるわけもない。未来を切り拓く道がどこもかしこも通行止めになっている現実に嫌気がさしていたナサニエルには、新興カルテルを率いる風雲児との出会いは、不意に開かれた新しい可能性への扉だと思えたのだ。

「あんたの下で働かせてくれ。役に立って見せるぜ」


「できるのかぁ? この世界、甘くはねえぜ?」

 フアンはナサニエルをじろっと一瞥して、煙草に火を点けた。

 話をする間に銃撃戦は終わっていて、結局その後ナサニエルは『旅団』に加わった。思えばこのときも同じオイルと煙の匂いがしていた。


 きっとあのときナサニエルの今日の運命は決していたのだ。フアンはその運命を憐れんだ。

「ナサニエル」今夜初めての声をかける。

「お前には、おれたちの世界に足を突っ込む資格はなかったんだ。……あのとき、お前を蹴っ飛ばしてやりゃよかったな。だから、これはおれの間違いでもある。赦せ」

「フアン、見捨てないでくれよ。おれはあんたを裏切ってなんかねえ。おれがあんたを裏切るもんか……わかるだろ? あんたの側で、ずっとやっていきたいんだよ。なあフアン、なあって」

 縋るような声を、どこにいるか分からないフアンへ向ける。


「おれたちの掟はわかってるな、ナサニエル。泣き言はもういい。てめえのしたことにちゃんと向き合え」

 冷静に、感情を落として、レナートが言う。答えようとしたナサニエルを遮ってフアンがまた口を開いた。

「ナサニエル」

 ふるえる肩に手を置いて。

「お前はこれから死ぬ。心配すんな、痛みなんか一瞬だ。それに、お前を海に棄てたりはしねえよ。ちゃんと墓に入れて、弔ってやる。途中で道に迷わなけりゃ、たぶん神の前に行けるだろうよ。寂しかねえさ、だれもがいつか行く場所だ。いずれまた会おうぜ」

「フアン……」

 言いたいことが山ほどあるのに、喉につかえて出て来ない。口を動かそうとして言葉の出ないナサニエルを見下ろしてフアンは、

「神に懺悔したいなら、さっさとしてしまえ。懺悔することがないなら――お別れだ」

 最後にこう言うと、あとは口を噤んだ。


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