第86話 コカ畑 ⑩農具小屋

 月のまわりだけ藍色に染まった空を、その晩ずっと星が降りつづけていた。

 星が降るなかふたり並んで歩くうち、またマカレーナが歌い始めた。手は子供のようにつなぎっぱなしで、ときどきリズムに合わせて陽気に手を大きく振った。

「あんた踊れないの?」

 マカレーナに引っ張られるだけのガブリエルを焦れったそうに睨んで言った。歌を聴いて踊りださない人間など、男だろうと女だろうとカリブにはいない。

「疲れたみたい」

「言い訳しないの。ほんと愚図なんだから」

 それ以上責めずにマカレーナはダンスを止めた。鼻唄だけが膝丈のコカの樹々のうえを通り過ぎていく。歌の届いた先に、農具をしまってある小屋が見えた。



 なかを覗くと小屋のなかには収穫用の籠、シャベルや鍬が立てかけられて、床には畳んだブルーシート、棚にはいくつもロープがまるめて置かれ、肥料や薬品の入ったボトルが並び、とにかく乱雑にものが積み上がっていたが、人ふたりが入るには十分なスペースがあった。


「へんな虫とかいないでしょうね?」

 ガブリエルのうしろから、背中に手をついて顔を覗かせるマカレーナ。

「大丈夫だって。いたら潰してやるよ」

「いる前提じゃん。そんなとこ入るのやだ」

「虫なんか怖いの? きみにも怖いものあったんだ」

 笑顔を見せるガブリエルを、きッと睨んだ。

「いまからでも山を下りるわ。こんなとこにいらんない」

「警察に捕まるだけだよ。いいの、それで?」

 ううーと唸るマカレーナ。恨めしそうに農具小屋の隅の闇を睨む。

「虫だけはいや。あたしは朝まで外に立っとくわ」

「わがまま言わないの。さ、早く入って。見つからないうちに、ほら」


 マカレーナの手を引っ張り扉を閉めると小屋のなかは真っ暗闇になった。

「ちょっと、これじゃなんにも見えないわ」

 上ずった声をあげるマカレーナを、ガブリエルがあやす。

「がーまーん。そのうち目が慣れるから」

「ガビ、どこ? ちょっと手ぇ離さないでよ」

 暗闇のなかあわてて伸ばした手がガブリエルの胸を探り当てた。肌からじっとりと汗がにじんでいる。

「ちょっと、あんた熱いわよ。どっか悪いんじゃないの?」

「ああ、きっと歩きつづけだったからじゃねえかな。だからさっき疲れたって言ってんのに」

 冗談にしてしまう声が、かすれた。


「ちょっと、ほんとに大丈夫?」

 急に心細くなって暗闇のなかガブリエルの体をまさぐると、熱とふるえが、汗に混じって伝わってくる。


「たいしたことない、大丈夫」と言う声を無視して、手探りでシャツを脱がせた。

 いつの間にか冷たくなっていた体の汗を、脱がせたシャツで拭うと、ガブリエルはぶるっと体をふるわせた。

「寒いな」

「冗談言わないで」

 風が涼しい山の上とはいえ、歩き通した体はじんと熱をもって、熱帯の小屋のなかじっとしているだけで汗がにじむ。

 ガブリエルは返事せず、両手で自分の胸を抱いてふるえている。すこしずつ闇に慣れてきた目に映ったその顔の表情がどこか虚ろで、マカレーナを不安にさせた。

「どうしたってのよ。ついさっきまで元気だったくせにさ。同情ひこうってのならお生憎さま、あたし愚図には甘くないんだから」

 わざとおどけて言ってみせても、返事が返ってこない。善良な、力のない笑みを見せたあと、ガブリエルは瞼を落とした。

「ちょっとガビ。黙ってないで、なんか言いなさいよ」

 ゆっくり動かすガブリエルの口から、やはり声は洩れ出てこない。



 ガブリエルが眠りに落ちて五分ほど。表情はやわらいだように見えるが、息はますます熱く、体のふるえは止まらない。あたためてやろうにも、小屋のなかに布らしいものといえばブルーシートぐらいしか見当たらなかった。


 ――しかたない。


 マカレーナは声に出さず呟いた。ガブリエルを見下ろし、熱病を吐き出すように口を無防備に開けた寝顔を見つめ、しばらく息を整える。

 ふうっと息を吐くとドレスの肩紐をはずして、はだかになった上半身をガブリエルの冷たい体に重ねた。マカレーナの肌がかにガブリエルの肌と合わさると、ひんやりした感触に胸が跳ねた。ふたりの汗が混じりあって薄闇のなかに匂った。やがてガブリエルのからだに温もりが戻ってくるのが感じられた。

 さらに強くからだを押し当てると、ガブリエルの両手がマカレーナの背中に伸びて、ぎゅっとしがみついた。マカレーナは目の前の顔を見つめて、その額に手を伸べ、やさしく撫でた。すると苦しそうに結んでいた唇が綻んで、なやましい吐息がひとつ洩れた。

 マカレーナは聖母の慈愛と不安を湛えた顔を、そっとガブリエルの肩にあずけた。



 小屋の外では星が流れ、梟が野鼠を捕らえ、風がコカの葉を鳴らしたが、マカレーナはずっと動かないでいた。

 闇のなかにふたりの肌が仄かに浮かびあがっていた。小屋の壁の隙間から幽かに差す月明りがマカレーナの白い肌に落ちて、ひときわなまめかしく輝いていた。胸の鼓動が溶けあいひとつになって、どちらの心臓から発せられているのかもわからなくなった頃、森の奥から届いた鳥の高く啼く声に、罪を告発されたかのようにマカレーナはぴくっと起き上がった。


 建てつけの雑な小屋の、木の壁の隙間から洩れる光に、はだかの肌が白く浮き上がった。

「ガビ? すこしは楽になった?」

 その声が聞こえるのか、苦しげに眉を寄せて、また唇を結ぶ。

「大丈夫。なにも恐くないのよ」

 耳許に囁いて、唇を噛むのを愛撫するように指でなぞった。すると唇から力が抜けて、熱い吐息が指にかかった。

「いい子。熱なんて忘れて、眠るのよ」


 その間もずっとコカ畑には風が渡って、コカの葉のざわめきと、森じゅうの虫の声を小屋に届けた。夜の山の魔力に惑わされてマカレーナはうっかり耳のうしろの頸すじにくちづけた。髪を撫でると背にまわされたガブリエルの手がふたたびマカレーナをとらえて、くるむように抱きしめた。陶然となって身をまかせてしまうと、もうからだに力が入らなくなって、抱きよせられるままぴったり肌を重ねあわせた。海に抱かれるような安心感に身を委ねていいと、月と風とが囁いた。

 コカ畑の夜はマカレーナを酔わせて、誘惑に抗う力も次第と弱まっていった。

「ガビ……だめ」

 だめなの。

 意識が朦朧としているだろうガブリエルの耳許へ、マカレーナはもういちど囁いた。

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