第72話 州警察 ⑧女刑事

「女連れで来いって言ったの、これか」

 フアンは合点がいってひとり頷く。「坊やのことで」と交渉を持ちかけたとき、しばらく電話口の向こうで考えたルイスは、

「お互いパートナーを連れて行こう。目晦めくらましにな。店は任せる」

 そう言って電話を切ったのだった。

 切れた電話を眺めながらフアンは、意外な申し出を、たしかに奇異に感じてはいたのだ。目立たないよう用心に女連れを偽装するのはいい。だが個人プレイが身上のルイスは、これまでフアンと会うのに相棒を連れてきたことはなかった。密会の場にフアンが手下を配して自分を害するなどとは頭の片隅に思い浮かべることさえなかった。



 ……さっきからマカレーナは、やわらかい豆腐を箸でうまく持ち上げることができずに、細かく崩れてしまった欠片を集めてせっせと口に運んでいる。

 ルイスとクロエが白い目で見る視線に気づいて、

「……これ」とスプーンを渡すフアン。「無理して箸使わなくていいから」


 マカレーナは目の前に差し出されたスプーンを少しのあいだ無感動に見下ろし――やがて箸をおいてスプーンで豆腐をすくった。するとあっけなくふた口ほどで皿の上の豆腐は片づいた。


 ずっと話に入ってこないで食べてばかりのマカレーナを、クロエは初めて気づいたようにいっと見つめた。

「こちら、どなた? 紹介してもらってないけど」

「ああ、こいつは――」

 フアンが隣に目をやると、今度はマカレーナは芋の甘煮に苦戦していた。つかもうとするたびに転げて逃げる芋に箸をあきらめフォークを手にとろうか迷っていたマカレーナは、顔を上げて間の抜けた笑顔をクロエに向けた。

「――マカレーナ。うちのファーストレディーだ」

 紹介しながらフアンは、場の空気を壊す隙だらけの顔しやがって、と顔には出さずに苦笑いした。



「ファーストレディー?」

 怪訝な顔で聞き返すクロエ。フアンの愛人にまつわる噂の数々を、エリート刑事はまだ知らなかった。


「いつあたしが、ファーストレディーになったのよ?」

 フアンの耳許に囁いて脇腹をつねると、クロエへ向けては色気たっぷりの笑顔を見せ、初めてマカレーナが口を開いた。

「あたしと同席するのは嫌なんでしょ。わかるわあ、あんた、あたしたちとは別の世界に住んでるんだもんねえ」

 普段のマカレーナには似ず、語尾を甘ったるく伸ばして。

「刑事なんてやってたら、下界のこと少しはわかったのかしら? でも、あんたはきれいなままなんでしょうねえ。えらいわあ」


「きれいだろうさ、きっと。お前たちのように腐りきることは、私にはできないな」挑発にクロエは挑発で返す。「……ずいぶん見てきたよ。お前たちが垂れ流すドラッグのおかげで堕ちてく女たちも、くだらない犯罪で命を落とす男たちも。こんな屑どもから、」

 と憎々しげな眸でフアンをにらみ、またマカレーナへ視線を戻して言った。

「市民を守るのが、私の仕事だ」

「それと、あたしのような毒婦からもね?」

 そう言ってすずしく笑うマカレーナに怯むことなく、

「お前がそう言わせたいなら……そうだ」とクロエは吐き捨てる。

「うふん。えらいわ、よく言えたわね」


 婉然とマカレーナはクロエの首筋へ手を伸ばした。潤んだ唇をすこし開いて、うっとりした表情で首から顎にかけなめらかにすべらせる。そのしなやかな指、白磁の腕の向こうに照り映える唇の紅、冷たい碧の眸。女の精髄をあつめたようなマカレーナの姿から、クロエは嫌悪とも嫉妬ともつかない思いで目が離せなかった。

「でもあんたが守ろうとしてる連中はあんたより、あたしの方を仲間だと思ってる」

 クリスタルの盃を手に、まなじりの赤く染まった眸でクロエを見る。その眸は意地悪に笑みを湛えて、魔性の磁力をもつかのようにクロエを捕らえた。

「救いたいなんて思ってるうちは、あんたはあたしたちの仲間にはなれないよ。あたしたちと一緒になって、どぶの中に頭のてっぺんまで浸からないとねえ」

 顔を赤くしたクロエがなにか言いだす前にルイスが押さえた。クロエは不満げな顔で公安課長をにらむが、ルイスはかるく無視した。

「今日はそんな話しに呼んだんじゃねえんだろ? 本筋に戻ろうぜ」

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