第30話 影
「あ、ナリ。ちょっとまって」
部品図の修正が終わってチェックして図面を担当に持っていこうとした時、冬莉に呼び止められた。
冬莉はメモ紙に簡単に立体図を描いて見せた。
「たぶんさっきの修正だけだと漏れた液全部カバーできないからこっちの方がいいと思う。
冬莉がそう言うのでとりあえずその図面を見ながら基準を確認する。
部品の中でも配管図の事は説明したけど、他にも板金という特殊な手法の図面がある。
板を切断したり、折り曲げたりするだけの加工部品。
決して「板金7万円コース」は関係ない。
で、折り曲げるときに切り込みを入れないといけないとか板の厚みによって折り曲げられる限界がある。
それを確認しないといけない。
問題なさそうなので「じゃ、これで部品図おこしてくれない?」と冬莉に頼む。
「いいよ。ちょっと待っててね」
その間に俺も検討図の書き直しをしていた。
それが今回の最大のミスだった。
冬莉が部品図の作成を終わって俺が確認するとあとは提出するだけ。
図番登録等は済ませているので問題ないはずだった。
「じゃ、今夜は冷えるから鍋がいいかな」
「うーん、任せるよ」
「なんでもいいなんて回答は夫に求めていないよ」
「じゃあ、例のあれでいいよ」
「本当に肉好きだね」
冬莉も作るの楽で助かると言って帰っていった。
白菜と豚バラのミルフィーユ。
残った汁で雑炊にしてもおいしい鍋。
たまに友達を呼んで鍋パーティをする日もあるけど、休日限定。
冬莉が帰ったあと担当に図面を提出して帰るだけ……だと思っていた。
しかし思わぬ返事が返ってきた。
「一回お前殴ってもいいか?」
え?
「なんで俺が言ったとおりの図面じゃないんだ?」
そう聞かれたので冬莉に言われた通りの説明をした。
部品は”パン”と呼ばれるもの。
配管の接合部などから漏れるかもしれない流体を受け止める受け皿。
それを他の部品のカバーにするために使用するもの。
当然他の部品に染みるようなことはあってはならない。
そう説明した。
「なんでそれを先に相談しなかった?」
良い悪いは担当が判断する。
なのに俺の独断で勝手に形状を変更した。
その結果どうなる?
部品図の作成に余計な工数を取られた。
これで元に戻すとなったらさらに工数が必要になる。
ただでさえ工数が残ってないのに無駄なことをするな!
しかし俺にも言い分がある。
いつも言われた通りの修正をして持っていくと……。
「言われた通りの事しかできないなら他にいくらでも代わりがいるんだよ!」
文句の一つも言いたいけど過去に散々やらかして社長からもきつく言われている。
俺と担当はそれだけの関係じゃない。
雇われ者と雇用主。
文句なんて言える立場じゃない。
「本当に規格通りの形状なんだろうな!」
「大丈夫です」
「問題あったらお前が責任とれよ」
そう言って俺は解放された。
あとの雑用をして家に帰る。
自分の余計な一言が俺に迷惑をかけた。
冬莉にそんな風に心配かけたくないから黙っていた。
もうすぐこの仕事も終わる。
終わったら半年後には式を挙げるつもりだ。
「ねえ、聞いてる?」
「え?」
「やっぱり聞いてなかった。最近ぼーっとしてる事多いけど大丈夫?」
「ごめん、ちょっと疲れてるみたいで……、で、どうしたの?」
「ナリはどっちがお望みなのかなって」
何のことかはなんとなく察しがついた。
冬莉の両親に挨拶に行った時だった。
「……僕はかまわないんだけど冬莉大丈夫なのかい?」
「何が?」
「今は家の中ではちゃんと服を着てるの?」
「冬夜さん悪い癖ですよ。そうやって娘を困らせるの」
「ナリの前で言わなくてもいいでしょ!」
冬莉は実家だと家の中では裸に近い状態で過ごしていたらしい。
その上洗濯や風呂に入る事すら嫌がる。
「うちではそんなことないですよ」
汚れてもない作業着をちゃんと定期的に選択してくれたりアイロンがけしてくれる。
とても両親が言うような冬莉を俺は見たことがない。
「……宮成さんが言うなら少し安心しました」
母親がそう言ってほほ笑んでいた。
で、冬莉は裸族のほうがいいか服を着ていた方がいいか悪戯っぽく聞いていたらしい。
「考えてみろよ。俺の友達にそんな冬莉みせられないぞ」
「確かにあの人たちに見られるのは嫌だね。で、何を考えていたの?」
「ぼーっとしていただけだよ」
「本当に?」
今日は冬莉の追及がすごいからどうしたのかと聞いてみた。
「この前遅くなったことあったでしょ?」
「うん」
「あの日ナリのスマホ通じないから同僚に電話かけてみたの」
そしたらいなかったことがあった。
まさかもう浮気?
プロポーズしたばかりでそれはないだろ。
「……一人で海を見たくてね」
それで佐賀関に行ってた。
「夜なのに」
「うん、なんとなくなんだ……」
「……どうせだからもう一つ聞くね」
「まだあるの?」
本当に心配しているようなので素直に聞いてみた。
すると冬莉は俺のポケットを指さした。
「いつもスマホを持っているのはなぜ?」
「……いつ電話がかかって来るか怖くて」
「誰から?」
「会社から」
何かヘマをしていつ呼び出されてもいいように。
「……休日に買い物してた時ずっと気にしていたのも?」
冬莉は俺の事をよく見ているようだ。
「うん。ごめん、心配かけたね」
「今も心配してる」
え?
「ナリは気づいてないかもしれないけど、最近ナリ寝てないでしょ?」
いつまでもベッドに入ってこない俺が気になって目を覚ましたらゲームをしている俺を見つけたらしい。
明日も仕事があるのに大丈夫なのか?
その割には居眠りしている様子もないので気になっていたそうだ。
ちゃんと素直に話した方がいいな。
「怖いんだ」
「……結婚が?」
「いや、朝が来るのが」
夜が終わればまた朝が来て仕事に行くことになる。
休日が終わればまた仕事の日々が始まる。
そのことに恐怖を覚えていた。
怒られても最近動じなくなった。
それはよくないことかもしれないけど、上手い事感情が動かない。
ゲームでもしてれば楽しいかなと思っていたけどそれもない。
疲れるも感じなくなった。
そんな俺の話を冬莉は静かに聞きながらスマホを触っていた。
そして冬莉はスマホの操作を終え俺に一言言った。
「明日朝一で予約取るから病院行こう?」
「別にどこも悪くないよ」
「そんなのわからない。気になったから調べたけどナリの症状って典型的だよ」
え?
その後も冬莉がいくつか質問をしてきた。
どれも症状にあてはまるらしい。
素人判断でしかないから冬莉の行きつけの総合病院があるからそこに行こうと言う。
「でも仕事を休めない」
「私も一緒に行くから、お願い」
「例えそうだったとしても冬莉を残して死ぬなんて事はしないから」
「そういう問題じゃない!」
そんな風に冬莉の事を背負っている俺だから問題なんだ。
冬莉の人生を預かるという責任を負ってしまうのがこの病気の問題。
冬莉の事を大事にしてくれるのならお願いだから一緒に病院に行って。
冬莉がいつにもまして本気で俺を説得するから俺も行くことにした。
「明日の朝私が連絡するから」
「自分でするよ」
「だめ、ちゃんと説明する」
今日はもう休もうと冬莉が無理矢理ベッドに寝かせる。
背中から冬莉が抱きついて「ごめんね」と言った。
「冬莉が謝る事じゃないよ。自分が情けない」
「そうじゃないの、気づくヒントはあったの」
「どういうこと?」
すると冬莉が説明した。
冬莉とは定期的に夜に愛を確かめ合っていた。
だけど最近それがなかった。
単に疲れてるだけだろうと思ったらそうじゃない。
そういう気分になれないのがこの病気の特徴。
俺をちゃんと見ていたつもりになっていたのに異変に気付かなかったのは冬莉のせいだと、冬莉は自分を責める。
「そんな顔をさせる為に頑張ったんじゃないよ」
「ナリは頑張りすぎだよ」
「でも、参ったなぁ」
「どうしたの?」
冬莉が聞いてくるので説明した。
石井先輩が「俺鬱かも……」ってぼやいていた時に「そういう人はまず大丈夫ですよ」と答えたことがあった。
その俺がまさかね……。
「自覚症状がないのが厄介だからナリの言う通りだと思う」
うつは甘え。
そんな思考を持った人が実際の人を苦しめて追い込んでいく。
翌朝冬莉が会社と病院に電話をして西松病院に向かった。
冬莉も同伴で診察を受ける。
冬莉の予想通りだった。
一週間くらい薬を飲んでそれでだめなら休職を勧められた。
翌日会社に出るとさっそく石井先輩に説明を求められる。
病院に言われたことを伝えると社長に相談したらしい。
その結果を告げられた。
「お願いですから明日中に今の仕事の引継ぎをして、明後日から休んで欲しい」
それが社長の決断だった。
引継ぎのための資料を作って、石井先輩の立会いの下引継ぎをして荷物をまとめてナンコツ支社を去る。
「また元気な顔を見せてくれ」
担当の人がそう言っていた。
そんな日が来ることはないことは分かっていたのだろう。
俺は社長に挨拶をして長い休暇に入ることになった。
だけどこれはまだほんの些細な始まりでしかなかった。
この後、ただ俺と冬莉を苦しめることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます