5-4:伸ばした手が至るもの

 ヒュ、と、浅く息が漏れる。吹き荒ぶ風が、アリシェルの体に打ち付けられて、体温を奪っていく。

 切り立った崖の先。アリシェルの首をその鋼の腕で締め上げながら、垓は彼女を冷たく見上げていた。靴型霊技器は留め具を壊されて脱げ落ちて、遠くに転がっている。通信機は壊され、視界共有コンタクトレンズは押さえつけられた時に両目から取り外されて握り潰されたのだ。最早アリシェルの状況は通信室に届かず、通信室からどれほど叫んでもアリシェルに届かない。

「俺の勝ちだ、小姐姐お嬢さん。地の底に落ちて首を変な方向に曲げたくなけりゃ、俺達の質問に答えてもらおうか。騎士団お前らに命令を出した奴について、この国の聖技祭について、災骸化について知っていること、全て」

 垓が吐いた息は、低い気温が白く染める。

「――まあ、この程度の状況で口を割るような女なら、楽だっただろうがよ」

 アリシェルは息苦しさに浅く白い息を吐きながら、口角を笑みに歪めた。

「問うのなら、私の質問にもお慈悲を下さいませ。どうせ、聞く者は、私だけなのですから」

 垓が目を眇めた。ややその鋼の腕に力が篭もり、アリシェルの細い首に圧がかかる。気道が更に狭くなって、アリシェルの眉がまた寄った。ただ、笑みは崩さないままで。

「……私も、狼月ラァンュエを追う勅命が出された時、疑問でしたの。いえ……一年前の、月蝕事件。ラヴィニア砂王国が、月の機械精霊とその契約者の行方を無くし、滅びたと聞いた時から。

私、――」

 ぴく、と垓の肩が僅かに揺れる。それに気付きながら、アリシェルはそれでも言葉を続けた。

「機械精霊の契約者の名前は、全世界に広められるのが普通ですわ。貴方達がソラ様の名前を知っていたように……、それも、当然のこと。隠す必要などないのですもの。機械精霊に選ばれ、災骸を完全に滅することの出来る人間を有しているということは、国にとって、他国に知らしめればそれだけで発言権を強めることの出来る、アドバンテージになる。

ですけれど……五十年前。ラヴィニア砂王国が刻国クゥーグゥオを滅ぼして吸収した時から、ぱったりと、月の機械精霊の契約者の名前は更新されなくなった」

 は、と、浅く吐かれた息が、白く空に溶ける。

 ラヴィニア砂王国が刻国を滅ぼした時、刻国の王族は皆殺しにされた。それはマキネス中に知られたニュースだ。その殺戮は、恐らくは、月の機械精霊の契約者を砂王国内に得るためだったのだろう。太陽の機械精霊の契約者が皇国の王族を中心に現れるように、月の機械精霊の契約者は刻国の王族を中心に現れるというのは、周知の事実だった。

 当然、五十年前当時の契約者も殺された。確か、刻国の王弟だったとアリシェルも教えられている。そして、その後――ラヴィニア砂王国の特定人物に月の機械精霊の本核が宿ったという報は、無かった。四十年ほど前には、砂王国内で契約者を得るために妙な実験や研究が行われているなどという真偽の定かでない噂が面白おかしく流れたらしいが、アリシェルが産まれた頃には月の機械精霊の契約者などは最早伝説上の存在で、月の機械精霊はただ祀られながら眠り続ける不動の神となっていた――そのように扱われていたのだ。

 歴史の事実を思い返しながら、アリシェルは息を吐く。

「――だけれども、確かに、狼月に月の機械精霊の契約者が居るのだとすれば、それは――」

闭嘴黙れ

 刻国の言葉を、切り放つように呟いて、垓の手に力が篭もる。アリシェルの首が軋んで、呻き声が上がった。その力を緩めないまま、垓は冷たく見上げる。

「余所者が、刻国の民俺達を語るな」

「――ッ、」

 そのまま締め上げ首を折るつもりではないかと思うほどの力に、アリシェルは顔を歪め、藻掻く。だが霊技器である鋼の腕はそんな力では離せない。ただでさえ生まれつき力の入らないアリシェルの手で、引き剥がすことなど不可能だった。それを、アリシェルは思考よりも先に体で理解していた。

 だから――咄嗟に、己の霊技器がもう無いとしても、普段付けている足で抵抗しようと、蹴り上げたのだ。

 垓にも、やはり冷静さが欠けていたのだろう。彼女の靴型霊技器を壊したのは彼自身でありながら、迫る足にハッと身を離した。

 離した、のだ。霊技器に対抗するには霊技器、彼の霊技器である右腕で彼女の足を弾こうとして――当然、その腕で先程掴んでいた、アリシェルの首は離される。

 ここは崖の先。下は、絶壁。突如与えられた浮遊感に、アリシェルは咄嗟に手を伸ばす。だが、剣さえ握れないその手が、崖の先を掴み身を留めることはできなかった。

「あ」

 手が、崖から外れる。目を見開いた垓が伸ばした手は届かず、アリシェルの身は投げ出される。下は目測二百メートル。凡そ、叩きつけられて助かる高さではないだろう。

「(あっけないわね)」

 崖を掴みきれなかった掌が視界に映る。生まれつき、力を込めることが出来なかった手。どれだけ鍛錬しても箸より重いものを握れない、弱い手。父に何度も言われていた。お前は騎士にはなれないと。無意味な鍛錬をする時間があるなら、花嫁修業のひとつでもしていろと――靴型霊技器の発明はアリシェルにとって天啓だった。足技があれば、そこらの男よりよっぽど戦える。騎士として十二分の働きができる。そう信じてきたし、鍛錬してきたし、実績を上げてきた。それでも、いざという時に、力の入らない手はこうして命を取りこぼすのだ。

“アリシェルは強い”

 そんな声が、ふと脳裏を過る。何度叩きのめしても向かってくる幼馴染み。組手で一度もアリシェルに勝てないくせに、アリシェルのような障害が無いから騎士になれる、妬ましい男――そう、妬ましさを確かに覚えていたのだ、かつては。

“――君は強い、誰よりも。世界で一番君に叩きのめされた男が保証する”

 叩きのめされた男だなんて、ただただ格好悪くて情けない称号を声高に誇って。

 そんな彼が馬鹿らしくて、マー君に保証される必要なんか無くてよと、鼻で笑ったことを覚えている。

 どうしてそんなこと、今思い出しているのだろう。


「――アリシェル!!」

 記憶よりも掠れ、低くなって、大人になった声が響いた。



 大斧を放り投げ、駆け出したマクスウェルはカリムの身を通り過ぎて駆けていった。カリムは大地に打ち付けられるも、それだけだ。斧の背で叩きつけられるでもなく、その腕で押さえつけられるでもなく、未だ自由な身で、ゆっくりと起き上がる。体は軋むが、まだ動けた。

 ぴくりと、ラルスの耳が動く。その目がパチリと開き、カリムよりは機敏に起き上がった。そもそも、転んで頭を打って少し気絶していただけで、ダメージはカリムよりずっと軽いのだ。

「……何故だ」

 カリムは一人、呟いた。――いや、正確には、こちらへ歩みよる男に向けて。

「何故だ。あのまま私達を叩き付ければ、終わった。私達は敗北したはずだった。チャンスだった、だろう。

私達はまだ戦えるぞ。ラルスも起きた。貴様らは振り出しだ。……何故機会を放り投げた」

 矢継ぎ早に言葉をぶつけられ、男――リズーは溜息をつく。爆風のせいかやや服は綻んでいるも、やはり障壁霊技器で身を守ったのか、さほどダメージは無いようだった。

「アホか」

 挑発に直ぐに乗るような、少なくともカリムよりは単純そうなリズーにそう告げられるのは些か不本意だった。顔を顰めたカリムだが、リズーは頭をかいて口を開く。

「言っただろ、俺達は騎士団だって。俺達は戦うために戦ってんじゃねぇ、守るために戦ってんだよ」

 一部例外は居るけどな、と付け加えて、リズーは少し笑う。

あいつマクスウェル仲間の命アリシェルちゃんより敵の撃破を優先させるような奴なら、それこそぶん殴ってやったよ」



 アリシェルの体に、衝撃が走る。

 だが、それは想定していたよりずっと軽い衝撃だった。霊技器によって張られた弾性を持つ障壁はを受け止めて、一度弾ませる。再度の着地では、もう体は浮かなかった。

「……マー君?」

「――ッ間に合って、良かった」

 アリシェルを姫抱きに受け止めて、障壁で足場を作って。座り込んだマクスウェルは、そう情けなく笑う。

「何、してるの。マー君、確かカリムとラルスと交戦中だったんでしょう? なんでここに居るのよ」

「……千載一遇のチャンスを投げ出してきてしまった。済まない。私はまだ、アリシェルと結婚できるような男には足らないようだ」

 苦笑して、マクスウェルは上を見上げる。絶壁の中腹――崖の先から、地上まで、丁度半分の位置に障壁は張られ、二人はその上に受け止められていた。マクスウェルに倣ってアリシェルも上を見上げる。

「それに比べて、君の役目は完璧だ。やっぱり、アリシェルは強いな」

 ――崖の上。垓に向かって切りかかる、ヘアバンドで上げた黒髪がある。その向こうに、きっとライナルトやオズワルドも居るのだろう。アリシェルの役目は初めから、援軍が来るまで、垓の行方を捉え続けることだったのだ。それが無事果たされたことを、崖上の白い制服が示していた。

 マクスウェルが笑う。きっとその言葉に他意はないのだろう。鈍感で真面目で勉強はできても女心の機敏に疎いこの幼馴染みが、アリシェルの心など知るわけが無いのだ。

「……マー君に保証される必要なんかないわよ、ばか」

 泣きそうになってしまったことが悔しくて、アリシェルはマクスウェルの胸元に顔を埋める。途端に慌て出す幼馴染みの顔は茹で蛸になっているのだろうと想像して、少しだけ溜飲が下がった。

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