3-9:同刻、皇城にて

 ヴィスリジア城の純白の廊下を、やはり白の軍服を身に着けた男が往く。男はレンド・マーティスといい、ヴィスリジア皇子であり第一王位継承者であるカトラルド・アーシア・ヴィスリジアの護衛兼世話係としての任を与えられている軍人である。彼の職務はカトラルドの身辺を警護し、身の回りの手助けをし、業務を補助することだ。だから今日も彼は彼の主であるカトラルドの部屋へと向かっていた――いつもとは異なる、一枚の手紙を携えて。

「カトラ様、レンドでございます」

「! どうぞ!」

 目的の扉の前に立ち、ノックをすれば可愛らしい少年の声が帰ってくる。いつものことながらも和みつつ、レンドは扉を開いて一礼した。カトラルドはレンドへ振り向いて、彼の持つ手紙を視界にとらえると輝かんばかりの笑顔を見せる。

「レンド! そのお手紙、もしかしてソラ兄様の!?」

「……はい。シャルル宰相より、カトラ様へお渡しするよう受け取ってまいりました」

 答えれば、カトラルドはますます顔を輝かせて跳ねるように座っていた椅子から飛び降り、レンドから手紙を受け取った。早速封を切り、確かにソラ兄様――もとい彼の従兄皇子であるソレイラージュ・ラグナス・ヴィスリジアの筆記が紡がれていることを確認して心底嬉しそうに顔を綻ばせる。

「ソラ兄様のお手紙だ!」

「カトラ様がそれほどお喜びになられていると知れば、ソレイラージュ皇子殿下にとっても何よりでございましょう」

 こうにも喜ぶカトラルドを見ているのは、少々複雑な心持ちではある。カトラルドを赤子の頃から知り、守ってきたレンドにとって、カトラルドはまさしく仕えるべき王であり弟のようでも息子のようでもある、目に入れても痛くないほど大切な存在だ。不敬を承知で言うならば、そんなカトラルドが七年前に突然皇族に籍を戻し皇子となった従兄に対しここまで懐いているところを見ると少々……いやかなり……複雑だ。だが、そんな態度は出さないことが優秀な臣下というものである。レンドはあくまでにっこりと、喜んで手紙を読み始めるカトラを見守っていた。

「ソラ兄様、ベキュラスに行ったんだって! ベキュラスは夜も雷の明かりがともって眩しいと聞くけれど、本当なんだあ。いいなあ、僕も行ってみたい! ベキュラスの市場は皇都とはまた違った雰囲気なんだろうなあ、いいなあ」

「カトラ様も、もう少し大きくなれば次期国王として国を巡る機会もきっとありましょう」

「うん、それまでにしっかりと勉学に励んで国について学んでいかなければ!」

 輝く笑顔で未来を語るカトラルドの姿は眩しい。やはりこの方こそが未来の王に相応しいと確信を深めながら、レンドは優しく、夢を語る小さな皇子に微笑みかけた。

「そうだ、ソラ兄様にお返事を書かないと! 宛先をどうしよう、きっともうベキュラスは発っているはずだから……リスベールにお願いすれば届けてもらえるかな?」

「そうですね。私からもシャルル宰相に言付けを行いましょう」

 無邪気に喜び、何を書こうかと楽し気に思案するカトラルドは実に微笑ましい。レンドとしてもそんな姿をずっと見ていたいと、そう思う。

 ――しかし、レンドは優秀な臣下だ。彼の職務は、カトラルドの業務を補助することだった。

「……カトラ様。そろそろ、のお時間です。どうぞ、お返事はその後で」

 その言葉に、カトラルドは一度動きを止め、やがて顔色を暗くする。だが、ゆっくりと手紙を机に置き、「分かってる」と眉を下げた。

「大丈夫、行けるよ。……準備をお願い、レンド」



 普段の衣服よりも装飾が多く華美な衣装を身に纏い、カトラルドは廊下を進む。向かうはヴィスリジア皇城の奥、【聖者の塔】と呼ばれるその場所に――守られるように住まう一人の女性に、カトラルドは定期的に会いに行く。それが面会と言われる、カトラルドに課せられた義務の一つだった。

 女性の名はシルヴィア・セリーシェ・ヴィスリジア。前代の神依りの巫女であり――国王グランチェストの妻、そしてカトラルドの母にあたるひとだった。

「――失礼、します」

 レンドが同行できるのはその部屋の前だけだ。塔で働く女官に案内され、硬い面持ちでカトラルドは一人、その部屋に足を踏み入れる。真っ白な内装は、しゃらしゃらと数多の飾りで美しく設えられて、部屋の持ち主への愛が詰まっていた。部屋の中央、白く透けた天蓋の向こうで、ベッドに座るそのひとが振り向く気配がする。しゃらりと、軽い音を立てて彼女はベッドを覆うヴェールを開く。

 長い赤い髪は緩くウェーブを描き、深い青の瞳は嬉しそうに弧を描く。年齢は今年で三十二を迎えるはずだが、未だその風貌は若々しく、二十代と言われても納得してしまいそうになる。彼女は本当に、本当に嬉しそうに微笑んで、その鈴のような声を弾ませた。

「グラーチェ、グラーチェ! きてくれて、とってもうれしいわ」

 グラーチェグランチェスト。そう、父を呼ぶ母の前で、カトラルドは眉を下げ、「ああ」とだけ――若き父の真似をして、応えた。


 神依りの巫女だったシルヴィアは、機械精霊の声を聞きすぎて心を壊したのだという。


 元より、あまり素養の高い人ではなかったらしい。むしろ彼女の双子の妹であり、ソルドレイクの妻――即ちソラとラァの母にあたるリリアという女性の方が、機械精霊の声を聞くために高い素質を持っていた。だが体の弱かったリリアにその責を負わせることを望まず、ソルドレイクとシルヴィア自身の意向により、シルヴィアが神依りの巫女となった。そして、その身に過ぎた声を聞き続け、やがて彼女は気を狂わせた。彼女の心の時は幼少期にまで退行し、知能は著しく低下して、意思疎通さえままならなくなってしまった。

 グランチェスト、ソルドレイクの兄弟と、シルヴィア、リリアの双子は幼馴染みだったという。カトラルドが物心ついたときには、既に母は壊れていたと記憶している。それ故に、カトラルドは母から自身の名を呼ばれたことはなかった。父グランチェストは、幼少の頃はカトラルドによく似た姿をしていたのだそうだ。厳しい印象しかない父のことは、嫌っているわけではないが、自身と似ているともカトラルドには思えなかった。だが、幼き頃の記憶に捕らわれたシルヴィアには、カトラルドの姿はグランチェストに見えるらしい。

「グラーチェ、きょうも、いろんなおはなしを、きかせてほしいわ」

「……勿論だよ、シルヴィー」

 だから――グランチェストとして、シルヴィアに会いに行き、その心を慰めること。それが、カトラルドに与えられた義務だった。グランチェスト本人がこの塔へとやって来ているかどうかは、カトラルドは知らない。だが、来ていたとしても、シルヴィアには分からないのかもしれなかった。ベッド脇の椅子に腰かけたカトラルドに、シルヴィアは幸せそうに、うふふとその顔を綻ばせる。

 話は、カトラルドの日々のことを、シルヴィアの理解と解離しないよう人物を置きかえたり脚色したりしながら、している。実際にはどんな話をしたとしても次の面会時まで覚えているかは怪しいのだが、カトラルドはそれでも、母に使の話をすることはしなかった。シルヴィアはいつも相槌を打ちながら、楽しそうにそれを聞いている。そうしている姿は、年相応の『母親』にも見えるのだから――残酷な、ことなのだろうと、カトラルドは思う。

「――そうだ。グラーチェ、ソルとはなかなおり、したかしら?」

 シルヴィアは、一回の面会の時に、決まって一度はその話をする。ソル、とはカトラルドの叔父にあたるソルドレイク・ラグルスのことだが、グランチェストがソルドレイクを嫌っていたという噂は、カトラルドも耳にしている。だからどうしても、そう問われれば、「いいや」と答えるほかない。すると、やはり決まってシルヴィアは言うのだ。

「だいじょうぶ、よ。ふたりは、きょうだいなんだから、きっと、なかなおりできるわ」

 その言葉に答える術を、カトラルドは持たない。シルヴィアは優しく笑って、カトラルドを抱きしめた。

「たいようと、つきが。もとはひとつの、おなじものであったように――あなたたちは、ちゃんと、おくでつながっているのだから」

 そう、シルヴィアは、にこにことカトラルドの頭を撫でてみせた。

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