3-7:月明かりのダンスホール
旧広場の石舞台に立つ、一人の男。見知らぬ男だった。少なくとも騎士団の人間ではなく――ソラの立場としては、今、この姿を見られてしまうのは好ましくない。しかし、なぜだかその男から身を隠そうとは思えなくて、むしろ、ソラは一歩、歩み寄ってしまう。
男がこちらを振り返る。
顔の右側に引かれた二本の線は刺青だろうか。黒い前髪の隙間から覗く瞳は、高く輝く月のような、青灰色をしていた。左目は眼帯で覆い隠されていて、それがなんだか、少し勿体ない。そう思ってしまうほど、美しい瞳だった。
心臓が、カチン、と、大きく高鳴る。その音はソラの耳に大きく響いて、そうして、理解した。
――きっと、ずっと。ベキュラスに足を踏み入れたその時から。この心臓は、彼を探していた。
「……こんな、夜に。何を?」
そう問うたのは、騎士団長としての義務ではなく。ただの、少女の好奇心だった。男は少し考えるように空を見て、それから首を傾げてこちらを見やる。
「仕事でベキュラスに来ていた。それが終わって、月が綺麗で。……心臓が落ち着かなかったから、散歩をしていた」
「そ、っか。……そう、」
同じことを言うんだ、と。なんだかおかしくなってしまう。歩いて、歩いて。ソラは石舞台に一歩乗り上げた。男は退きもせずにこちらを見ている。表情は変わらず、その感情を読み取ることは難しい。それでいて、ソラは恐怖も不気味さも感じなかった。
きっと、何の取り繕いもないんだと、分かった。目の前の男はありのままそこに居て、それは表情などよりもずっと真っ直ぐに男の魂の形を魅せていた。その青灰の瞳の前では、ソラの魂も一切の嘘が消えていく心地がして、安堵すら覚える。とん、とん、と。先程よりも軽やかに、ソラは石舞台の上、男の方へと歩を進めた。
「私もだ」
「そうか」
笑ったソラに、男はそうとだけ答えた。彼が、ソラに一歩歩み寄る。また一歩、一歩。そうしている間に、もう男は目の前だった。成人はしているようだが、ルークレイドよりは若いように見える。体格は良いようで、鍛えている騎士団の面々に引けを取らないほど、服の上からも均整の取れた引き締まった体をしているとわかった。二人はそうして、月明かりの下、二人だけの台座の真ん中に立っていた。
「……ダンスホールみたいだ」
ぽつりと、考えたことをそのまま呟いた。ソラは皇子という立場として、数は少ないものの公的な場に出ることはある。煌びやかなホールと鳴り響く音楽、そういった場所は、気疲ればかりが溜まってあまり好きではない。だけれども今この場所のように、月だけが照らすような明かりで、どこまでも静かなダンスホールならば――好きになれるかもしれなかった。
男は首を傾げて、目線を上にやり、もう一度ソラを見下ろして。そうして――片手を、差し伸べる。男の手は大きくて、剣を使うのだろうか、指に多くタコが出来ていた。ソラは静かに、その手に己の手を乗せた。なぜか、迷いすら感じなかった。ぼこぼことした感触が、手に伝わる。
「実は、ダンスの作法は知らない」
そうしていたら男がそんなことを言ったから、思わず噴き出してしまった。男はといえば不快になった様子もなく、相変わらず変わらない表情で、ソラを見下ろしている。くつくつと、なかなか収まらない笑いを喉で噛み殺して、ソラは顔を上げた。
「私も実は、男側の作法しか知らないんだ」
「そうか」
きっと不自然であろう言葉なのに、男はその一言だけで飲み込んでしまった。またおかしくなって、笑う。
くるりと、手と手を反転させて。どちらともなく、ステップを踏む。頭一つ分以上大きな相手をエスコートするのは初めてだった。少しおぼつかない足運び、不格好な背丈。音楽はない。だけど、今まで踊った中で、一番心が軽やかだった。
「名前は」
踊りの最中、顔が近付いたその時に、男が問うた。男の黒髪がソラの額にかかる。少し、迷って。ソラは口を開く。
「ソラリス」
「ソラリスか」
ソラリス。もう一度反復して、男は目を細める。それは、もしかすると彼の笑顔なのかもしれなかった。
「良い名だ」
俺は、好きだ。そう、ソラの髪を飾る花を撫で、男は変わらず純粋な魂で、言った。
くるり、ステップを踏んで、二人の位置がひっくり返る。男の手を引いて、ソラは彼を見上げて目を見つめる。
「貴方は」
「俺か」
男も少し考えて、口を開いた。
「シャオ、だ。本名はきっと、発音が難しい」
だから、そう呼べばいい、と。男は続けて、ととん、と、ソラのリードに合わせてステップを踏む。
「シャオ……」
先程の男のように、もう一度、シャオ、と呼んでみる。なんだか楽しくて、シャオ、と繰り返した。シャオは「うん」とだけ答えて、不快そうでもなかった。1、2、3。ターンとステップ、また三拍子のリズム。二人の位置はくるくると入れ替わり、回って、たかたん、と石舞台に軽く靴音が鳴る。暫く二人はそうやって、二人きりの、子供じみた無垢なダンスを続けていた。
このダンスホールに音楽はない。
――だから、ダンスの終わりを決めるものなど二人以外に有り得ない。いつまで、そうしていたか。やがて二人は互いになんの示し合わしもせずに、そっと、その身を離した。心臓がカチコチと鳴っている。シャオとまだ触れていたいと脈を打つ。
太陽の機械精霊がシャオの心臓に惹かれている。
きっと、それは彼も同じだ。踊りのステップで身を寄せ合って、ソラは彼の心臓の音を聞いた。それでも、この場所に居るのは、少女ソラリスでありたかった。
「今夜はきっと、よく眠れる。有難う」
「ああ」
俺もだ。シャオがまた、目を細めてみせた。未だ触れ合っていた手を、そっと離す。伝わっていた体温は風にあっさりと吹き消されて、ヴィスリジア皇国の冷たい空気が二人の間に滑り込む。
「……また、近いうちに、会おう。シャオ」
そうなると、確信していた。機械精霊が共鳴するように、その未来を予期していた。その時にはソラリスではいられないのだろうとも、知っていた。
「ああ」
シャオが、変わらない答えを返した。ソラは一歩後退し、踵を返す。飛行艇へと進む歩に迷いは産まず、振り返ることもなく。未だ名残惜し気にカチコチと鳴く
飛行艇ソル・ヴィリアに戻って、同じように光の龍の助けを借りて窓から部屋に戻ってくる。幸い、ソラの不在は誰にも気付かれてはいなかったようだった。時計を見れば、どうやら散歩していた時間は四半刻にも満たなかったようだ。服を脱ぎ、飾りを外して、白いシーツに潜り込む。心臓の音は随分と落ち着いていて、ソラはそう時間をかけることもなく、その意識を夢に沈めた。
*
男は進む。歩き、歩いて、夜闇に紛れ小さく潜む小屋に至った。ベキュラスを囲う壁の外、その先の森に小さく取り残されたその小屋は、かつては林業を営む男が使っていたらしい。持ち主はとうに拠点を変えたか職を変えたか、打ち捨てられたその小屋は、一時の宿には丁度良かった。
「戻ったか、
小屋の傍で馬の世話を見ていた
「ったく、眠れねえから散歩ってなあ……一応俺達はお尋ね者だって分かってんのかお前は。誰にも会わなかっただろうな?」
「会った」
「ああ゛!?」
またもやあっさりと答えた宵に流石に声を荒げるが、宵の顔を見て、すぐに垓は深い溜息と共に肩を落とす。
だから、この男がボスなのだ。この男の判断は、時に絶対的だ。特に――直感は、外さない。
「……お前が問題ないと判断すんなら従うさ、クソ」
諦めを込めて、垓は息を吐く。うん、と、また宵は答えた。垓がもう一度吐き出した溜息は鬱憤晴らしだ。
「ともかく、眠れそうなら寝とけよ。朝一で移動すんぞ」
「分かった。……ところで、垓」
「なんだよ」
宵の青灰の瞳が垓を射抜く。
「【
「……ラムラスに聞け」
構えて損した、と、垓は眉間を抑えた。
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