3-4:うねりは未だ密やかに
――シゼリア山脈の虚無区化。それは皇国としても問題視され、前回の遠征の目的にその確認が含まれるほどだった。結果としては、シゼリア山脈の虚無区化は確かであり、原因は相変わらず不明である――という、なんの手掛かりにもならない確認をしただけだったが。
「虚無区で怪しい人影を見たという噂も聞いたことがあるな」
「ああ、あれなぁ。野次馬にしたって趣味が悪いってなもんだ。俺ぁおっかなくて虚無区になんか近付けねぇよ」
――どうやら店主は虚無区については知らないらしい。それをライナルトへの返答で確認し、三人はそっと目を見合わせる。そして、再びライナルトが店主に笑いかけた。
「いやはや、興味深い旅の話を有難う。このストールを頂いても?」
「ああ、毎度あり!」
機嫌よく笑った店主は手早く商品を包み、ライナルトに手渡す。それを受け取って、代わりに金貨を手渡し、三人は露店から離れた。
「……民間人からの狼月の評判はそう悪くはないようだな」
普段の、慣れた口調に戻ったソラが呟く。ええとライナルトは応えて、購入した商品を鞄に入れた。
「それが真に義賊的な集団であるのか、それとも外面が良いだけか……は、わかりませんが。討伐せよとの勅命ですが、狼月が消えることによる影響は調べるべきでしょうね」
「ああ」
そんな会話の横で、アグリが「あれ」と間抜けた声を上げる。そちらに目を向けると、アグリは遠く、市場を抜けた広間の方を見ていた。
「なんだかあっちが賑やかですね。なんか……演説? かな、してるみたい」
アグリは耳も良い少年だ。聡く聞き付けて、ソラに「行ってみますか?」と首を傾げる。
「そうだな。何か情報が得られるかもしれない」
頷きで返して、ソラは広場の方へと足を向けた。
「人間が引き起こした大災厄から千年。マキネスに渦巻く歪みは計り知れない! 災骸、虚無区、ラヴィニア砂大国で起こった月蝕事件は決して他人事ではない。機械仕掛けの神は世界を救うことなどないのだ!」
数人の男が、広間の中央で高らかに声を張り上げる。彼等は皆一様に灰色のローブを纏い、顔には灰色の特徴的な仮面をつけていた。その仮面には頭の辺りに角のような四本の尖りがあり、額部分に奇妙な模様が刻印されている。菱形を囲むような二本の円――その模様の意味はソラには分からない。
広間を行き交う人々は男達に怪訝な目を向けたり、視線すら向けなかったり、好奇に口角を上げて囁きあっていたりと、概ね好意的な様子ではなかった。だが男達はそのような視線に堪えた様子も無く、言葉を繰り返している。
「この世界に必要なのは終焉である! この歪みを正すには最早全てを押し流すしか道は無い。我等が審判者、ツイヤ様が【洪水様】を呼び起こし、世界を浄化することで我々は永遠の救いを得るだろう! 今こそ機械精霊の支配から目を覚まし、我等
「……うわー」
アグリが顔を顰め、そっとライナルトの背後にしがみついた。そんな様子にライナルトは苦笑して、己が纏っていた上着の中にアグリを招き入れる。
「……宗教団体、終船。ベキュラスにまで進出していたのだな」
ソラはそう、感嘆すら含めて呟いた。
終船――そう自らを名乗る宗教団体については、ソラの耳にも噂程度に入っていた。彼等は教祖――団体内では審判者と呼ばれているらしい――であるツイヤという男を筆頭に、洪水様と呼ばれる彼等独自の神と思われる存在を信仰しているようだ。宗教方針は男達が演説している通りである。曰く、機械精霊は世界を歪ませる偽神であり、この世界は滅ぶべきであると。そうする事でこの世界は救われるというのが、彼等の主張だ。
そういった機械精霊反対派や終末論者は終船に始まったことではない。機械精霊の恩寵を悪しきものとして、恩寵を受けた道具や機械を遠ざけ非文明的な生活をする者や、果てには分核が祀られる町村から離れて野宿のような生活を送る者も、ごく少数ながら存在している。そういった者が災骸に襲われたり、または災骸に変性してしまったりして、騎士団が対処したケースもソラは経験していた。
しかし、終船ほど団体的に、そして周囲への働きかけもするほど活発な例はなかった。まだ過激派と言えるほど攻撃性がある訳では無いが――と、ソラは少し顔を顰める。終船のような機械精霊反対派や終末論者にとって、太陽の機械精霊を擁する皇国騎士団や騎士団長は異教徒や邪神に等しい。ライナルトが眉を下げて、ソラの耳元へと身を屈めた。
「思想は国民の自由ではありますが……終船については、警戒しておく必要があるかもしれませんね」
「そうだな。……人々の生活や命を脅かすようであれば、対処しなければならないだろう」
それにしても、と。ソラは演説に夢中になっている男達を眺め、首を傾げる。彼等のつけている、奇妙な仮面。あれを、どこかで見た気がした。多分それは終船の名を知るよりもずっと昔に。
だが、どこで見たかは思い出せなかった。引っ掛かりを覚えつつ、ソラはそっと踵を返し、広間に背を向ける。
太陽が沈みかけ、空を赤く染める頃。そこからが、ベキュラスの裏側の始まりだ。
人のざわめき、笑い声、怒号。煩いほど鳴り響くアップテンポのピアノ演奏。そんなBGMの中、ジャララ、と金属同士がぶつかる音が鳴る。
「あー、負けだ負け! 強えじゃねぇか兄ちゃん」
カジノのとあるひとつの台。そう唸って、男は舌打ち混じりに己のカードをぶちまけた。対するもう一人――ルークレイドは表情も変えることなく、「どうも」と応える。
「それでは、約束だ」
「わーってるよ、クソ。金より話を求めるたァ、兄ちゃんも通だな」
ルークレイドが相対する男は、ベキュラスでも知る人ぞ知る腕利きの情報屋だった。煙草の煙を最後に吐き出してから、男はその先を灰皿に押し付ける。
「狼月だって? 無謀な事をするもんだ。兄ちゃんどこぞの軍人か何かかい」
「ベキュラスの情報屋は客の事情を深掘りするのか?」
「ちょっとした世間話だ、特定しようなんざ命知らずなこたぁしねぇよ」
「それよりも、無謀とは」
ルークレイドの問いに、男はもう一本新たな煙草を取り出して咥える。
「言葉通りさ。狼月はマキネス中に幅を利かせる巨大マフィアだが、あちこちで狼月の名を背負ってスラムだ辺境だを牛耳ってる奴等と中枢じゃあ随分距離がある。実質狼月の構成員と呼べるのは、少数精鋭の幹部共くらいだ」
男が頭を振って、煙を吐いた。少しの沈黙が走る。
「狼月の名を掲げて土地を牛耳る奴等の殆どはその土地に元々住んでた奴等だ。元の地主に重税ぶんどられてた村人、国に放置されてた浮浪者――そいつらが狼月に力だ金だきっかけだ、の支援を受けて自治を始めたのが正確な形なのさ」
「……狼月の構成員が土地に入り支配しているのではなく、土地の支配権を得た住民が狼月に傾倒している、ということか」
成程確かに、厄介だ。そう、ルークレイドは眉を寄せる。ある意味、国が狼月に奪われているのは土地だけではなく、国民を含むということだ。解放運動とも取れる狼月の活動は民の支持を集めるだろう。ルークレイド個人としても、重税を課す貴族の暴走や救済されない貧困者は看過したいものではない。だが、国が御すべき土地で、住民が、非公認の組織の名のもとに国から離れていくということは、国に所属する者として認めがたいことであった。
「物資だ何だと、奴等は狼月を支援してる。いわば恩人だからな。狼月の真の構成員は少数精鋭だっつったが――土地とのコンタクトを取ってるのは主に二人。主に女共を取り纏めてんのが
狼月の影響は広いが、掴むべき尻尾は余りにも狭いらしい。話しながら男が手渡してきた煙草の一本を受け取り、ルークレイドは黙ってその先に火を付けた。
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