1-11:迫る宵闇
「ソラ兄様」
解散の流れとなり、騎士団員が各々準備を整えるために広間から出ていき――ソラもまた広間を出ようとした時、そんな声が届いた。
廊下の向こうに、一人の少年が立っている。赤い、長く伸ばした横髪に王位継承者の証たる飾りを着け、その不安げに揺れる金の瞳は、少年の父と同じ色でありながら似つかない。
現国王グランチェストの一人息子であり、次期国王である、今年十一の誕生日を迎えたばかりのヴィスリジア皇子――カトラルド・アーシア・ヴィスリジアが、眉を下げてソラを見ていた。
「どうした、カトラ」
愛称を呼んで、ソラは小さな従弟に歩み寄る。カトラは俯いて、己の手を握りしめていた。
彼と知り合ったのは七年前、ソラとラァが父を喪い、戸籍上皇族に戻された時だ。グランチェストはソラを疎んでいるようだが、その息子であるカトラルドは幼さもあってソラとラァによく懐いた。従兄皇子として紹介されたソラを兄と慕う、ソラにとってはラァ以外で唯一とも言える皇族の中の癒しである。騎士団長には王位継承権は与えられないため歳下であるカトラに自動的に継承権が握られることなどは、ソラにとってはどうでもいいような、瑣末な事だった。
カトラの前に膝をつくと、俯いていた彼の顔が見えるようになる。その金の瞳は潤み、口をぐっと引き結んでいた。
「……ソラ兄様、もう出発なされるのですか」
もう一度ソラが声をかけようとしたところで、その前にカトラが呟くように言葉を落とす。
「僕、ソラ兄様が帰ってきたって聞いて……でも、帰ってすぐはお疲れだろうから日を置きなさいと……我慢、したんです。そしたら……、……ソラ兄様に、皇都の外のお話をお聞きしたかった……」
ず、と鼻をすする音がする。カトラの言い分を飲み込んで、ソラは眉を下げた。
グランチェストはソラが皇都に長く滞在することも、カトラと触れ合うことも好ましくは思っていないだろう。落ち込むカトラに、流石に彼の父親があえてソラを早く追い出そうとしているのだ、とは言えず、どう言ったものかと考えあぐねる。カトラの望みは叶えてやりたいが、今夜はきっと出立の準備で忙しい。
「カトラ様、ソラ様は大変な使命をお抱えなのですよ」
靴音。見れば、リスベールが苦笑して歩み寄っていた。カトラはといえば、口をへの字に曲げて「分かっています」と呟く。カトラは賢い少年である。だが、心までは納得出来ていない、というところなのだろう。
「そうだ。ソラ様、お時間がある時にでも、お手紙を書いて頂けますか? 僕が窓口になりましょう」
リスベールが微笑んだ。カトラはぱっと顔を上げて、「おてがみ」と繰り返す。
――ソラが遠征中、普通にカトラへと手紙を出せば、恐らくそれはカトラへと届く前にグランチェストや他の宰相に燃やされてしまうだろう。それを防ぎ、確かに届けようと、リスベールは提案しているのだとソラには分かった。
「お手紙! 僕、楽しみにしています! 僕もお返し……は、届けるのが難しいかもしれないけど、皇都の事とか、書きますね!」
「……ああ、約束だ。カトラの手紙も楽しみにしているよ」
今にも泣きそうな顔から一転、跳ねるように上機嫌になったカトラの頭を撫でてやる。えへへ、と嬉しそうに笑って、カトラはソラの手に擦り寄った。
「さぁ、カトラ様。ソラ様は準備を整えなければなりません。カトラ様もそろそろ御夕食のお時間でしょう? ほら、レンドが探していますよ」
「はい! ソラ兄様、お手紙、約束ですよ! ご無事で戻ってきて下さいね!」
元気よく返事をして、カトラはすっかり機嫌を直した軽やかな足取りで駆けていく。その先、カトラの護衛であり世話係である白軍服の男――レンドがカトラを見付け、ソラに会釈をしてから幼い皇子を連れて去っていった。それを見届け、ソラは息を吐く。
「感謝する、リスベール」
「いいえ、これくらいなんてことありませんよ」
リスベールは微笑んでその銀の瞳をソラに向け――眉を下げて、「国王陛下や他の宰相の皆様のことはどうしようもありませんし」と続けた。申し訳ない、と言うような表情に、ソラは首を横に振る。リスベールがその目を細めた。
「――ソラ様は、きっと良い指導者になられますよ」
そう、唐突にも思える言葉に、リスベールの顔を見上げる。彼は相変わらず、穏やかな笑みを浮かべていた。
「貴方は、僕が一番尊敬するお方によく似ていらっしゃるから」
そう言って、リスベールは「それでは」と一礼して歩いて行く。彼は彼で、忙しい立場だ。リスベールの尊敬する相手というのが誰なのかは気になったが、その背を呼び止める事はソラもしなかった。
廊下に夕暮れの赤が差し込んでいる。きっと明日は晴れるのだろう。
出立の準備をしようと、ソラもまた踵を返した。
赤い空は、ライランディア大陸の端、ロディニク村――だった場所にも同じように広がっている。
そこがロディニク村だったのは最早過去の話だ。今はただ、深淵のような黒にドーム状に覆われて、その中を確かめることは出来ない。だが恐らくは――虚無区の中などもう無いのだろうと、それを見た事がある人間ならば皆、何となくわかっていた。
「カリムぅ、やっぱ臭うぜ」
やけに裾の広いズボンとサイズの大きすぎる靴を履いた足が、近くの石を蹴り飛ばす。そうして言葉を落として、少年は振り向いた。歳は十五ほどだろう。鋭い、三白眼の黒い瞳と、獣のような鋭い犬歯が覗く口が、「な」と背後に声を重ねる。被っていたフードが落ちて、その赤紫の髪が顕になったそこに、有り得ないものが生えていた。
ぴこん、跳ねるその――狼の耳は、確かに少年から生えた身体の一部である。
「同じ臭いか?」
答えたのは同じ位の歳頃の、もう一人の少年だ。青みがかった緑の髪と、薄紫の瞳。その顔立ちは整って、可愛らしいと言っていいだろう。だが眉間には深く皺が寄り、愛らしさよりは近寄り難さを宿している。きっちりと着こなされたストライプのスーツもまた、その壁を厚くしていた。
狼耳の少年は、そんな近寄り難い雰囲気など感じない顔で、もう一人の少年――カリムの傍に飛んでくる。そのまま、自然な動作で抱き着いた。対するカリムもそれを当然のように受け止めて、抵抗や困惑の欠片も無い。
「だと思う。やっぱこの臭いがクロだ」
「……ボスに報告しなければならないな」
くっついたまま、少年二人は会話を続ける。カリムが狼耳の少年の頭を撫でた。
「良くやった、ラルス」
狼耳の少年――ラルスが、得意げに鼻を鳴らす。もっと撫でろとばかりに頭を手に擦り付けて、にかりと笑った。その笑顔は鋭い顔立ちを和らげて――カリムよりも年相応に、或いは少し幼く見える。
そんな笑顔に、カリムもまた頬を緩めた。眉間の皺は薄れ、本来の可愛らしい顔立ちが顕になる。
「なぁカリム、俺、腹減った! なんか食って帰ろうぜ」
「そうだな、ボスから資金は貰ってる。ちゃんとフードは被り直せよ」
「おう!」
少年二人は歩き出す。寄り添って――旧ロディニク村虚無区に背を向けて。途中で彼等を襲ってきたならず者の、気絶した顔を踏み付けて。
赤い空が、彼等を照らす。
「なぁラルス、私は夕暮れって嫌いなんだ。なにもかも焼き尽くして、燃え落とす、炎に似ていて」
カリムが呟くように言った。きょとんと目を丸くして見下ろすラルスが、しかし一瞬で笑顔に変わる。
「カリムが嫌いなものは、ワタシも嫌いだ」
昔、カリムの真似をして唱えた一人称で、ラルスは擦り寄った。ずっと一緒に居たから、ラルスはカリムの感情の機敏に鋭い。
それをカリムは恥とは思わない。ただ、愛おしさが増して、カリムはラルスの手を取ってしっかりと握り締めた。ラルスもなんら抵抗することはなく、その手を握り返す。
「早く夜が来るといいな」
「ああ。月が綺麗に見えたらもっといい」
「美味いもの買って、帰ろう」
「そうだな、帰ろう」
「私達の、
手を繋いだ少年二人は寄り添い、仲睦まじく歩いて――森の中へと、消えていった。
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