1-9:遺棄の朝
「今日はお父さん用事があるから、ルークのお家で寝るんだぞ」
母は幼い頃に亡くなって、父――ソルドレイクがそう、ルークレイドの家に幼い姉妹を預けることは珍しいことではなかった。機械精霊の契約者、そして騎士団長としての仕事に追われ、共に寝るどころか夕食の用意もできない夜に子供達が寂しくないようにとの配慮だったのだろう。ルークレイドはソルドレイクが幼少期から何かと世話を焼いていた男で、縁が深く、ソラとラァにとっては幼い頃からよく面倒を見てくれる兄のような存在だった。
だからその日もいつもと同じなのだろうと思って、七年前も、ソラとラァは何ら疑うことは無かった。仕事ではなく用事と言ったことだって、些末な違いだと思っていたのだ。ルークレイドや彼の養親と夕飯を囲み、寝支度を整えられて、ラァと並んでベッドで寝かしつけられた――その夜までは。
変化は突然だった。
カチン、と高く音が鳴った。それは、多分ソラにしか聞こえなかった音なのだろう。体が熱くて、痛くて、隣のベッドで眠っていたルークレイドに助けを求めた。いつもの、どくどくと響く己の心音が、聞こえなかった。
「いたい、あつい、るーく、からだのなかにとけいがある」
そんなことを、必死に喚いていた気がする。飛び起きたルークレイドは慌てふためいて、訳が分からないながらに、ソラの症状を緩和させようと背を摩ったり、病院を、と通信機を探していた。
その手に、縋るようにしがみついて、ソラは「とうさん」と繰り返した。
――何か、分かっていた訳では無い。ソラにとっても、己の身に何が起きているのか検討もつかず、混乱と恐怖に陥っていた。だが、父を探さねばならないと、直感的に思った。今、自分が、父に会わねばならないと。
ルークレイドは、痛くて熱くて怖いからこそ、父を求めていると思ったのだろう。「体の中に時計がある」なんて訳の分からない症状も、ソルドレイクなら何か分かるかもしれないとも考えたかもしれない。
「辛いな、大丈夫だソラリス、ソラ、すぐに団長の所に行こう」
彼はそう抱き締めて、妹の異変に泣き出したラァの手を繋いで、ソラを抱えて家まで走った。
――そうして。
その光景が、今も焼き付いている。慣れ親しんだ、こじんまりとした赤いレンガの己の家を囲む、不気味な黒い軍服達。目を見開いたルークレイドと、黒い軍服の一人が、何故ここにだとか、今来たばかりでだとか、騎士団長から連絡を受けてだとか、何か話していた気がする。ソラは、ルークレイドの腕を押しのけて、無理矢理降りて、己の家の中に飛び込んだ。心臓がカチコチと煩く鳴り響いていた、その感覚を、嫌に鮮明に覚えている。
父は。
父の自室で、ぶら下がっていた。
遅れて入ってきたルークレイドが、何か言って、ソラに手を伸ばした。きっと目を塞ごうとしたのだろう。もう遅くとも、幼い子に己が父の死体など見せてはならぬと。それは、ソラにとっては推測だ。ルークレイドの行動すらも、今のソラはあまり覚えていない。あの時、ソラの心は空っぽだった。ただ、カチコチと、心音が響いていた。
――次に、ソラが覚えている光景は、父の死体が消えた部屋と、呆然とソラを抱き締めるルークレイドと、少し離れて見ている黒い軍服だ。
間のことは、記憶がぼやけている。だが、己の手に、父が振るっていた光の剣――太陽の機械精霊の精霊器が握られていた。それで、己の父を喰らったことは、何故か分かっていた。
「ソレイラージュ騎士団長殿――いえ、ソルドレイク・ラグルス殿は、我々弔花を呼び寄せた上で、自害をなされました」
黒い軍服の一人が、そう言った。左側の、耳の後ろの一房だけを鎖骨までの長さの三つ編みにした、腰ほどの長い黒髪。今より若い彼は、あの時も、瞳も歯も見せない薄笑いを浮かべていた。
「それにしても――彼は、娘だけは遠ざけたかったのでしょうに、」
何からか。
それはきっと、自身の死に様だけではなかった。
「皮肉なものだ」
彼の――タカミの瞳を見たのは、あの時が最初で最後だ。どんな色をしていたかは、忘れてしまった。
ただそれは、静かに、次の契約者となったソラを見下ろしていた。
目を開く。
広がるのは、皇国城の自室の景色だ。あの後寝落ちたラァを神殿内に運び、ここに戻ってきて眠りについた。
窓から差し込む光は淡い。時刻はまだ早朝なのだろう。だが夢見のせいか、再び目を閉じる気にはなれなくて、ソラはベッドを抜け出て机に向かった。
城の自室は広い。皇族の籍を捨て平民に混じって暮らしていた父に育てられたソラは、この広さはあまり好きではなかった。機械精霊の本核を父から受け継ぎ契約者となった七年前にソラとラァは皇族に戻されたが、飛行艇の団長室は質素に作られているのもあって未だにこの広さには慣れる気がしない。そもそも、皇族に戻したのも国の管理下に置くためであって――従弟は懐いてくれてはいるが――伯父である国王からは蔑まれているのだから、親しみを持てというのは難しい話だろう。ソラも、ラァも、ただ国の礎として、檻に閉じ込められているだけなのだ。
机の左側、二段目の引き出し。そこに、父の遺書はしまわれている。あの日、父の執務机に置かれていたものだった。それは握り潰された跡を色濃く残し、汗か、涙か、震えた文字は滲んでいる。
“俺はきっと、化け物になってしまったのだ。”
遺書には、そう、綴られている。
“おかしくなってしまった。戦争から三年、あの日々を今更に思い出して、今更、そうだと気付いた。”
“気付けないほど、俺はおかしくなっていた。あんなことをしておいて、何故あんなことをしたのかが分からない。この力のせいなのか。心臓のせいなのか。災骸を喰らい続けた代償なのか。俺はもう、きっとまともじゃあないんだろう。”
“次に俺が喰らうのは誰だ。民か。部下か。最愛の娘達か。どれも嫌だ。俺はきっと必要も無いのに、大切なものを殺してしまう。”
“だからその前に、俺を殺そう。”
“ユーフェンには感謝している。精霊種は多くの心を癒すだろう。多くの悲劇を防ぐだろう。そして、俺が死んでも、災骸を増やさずに済むだろう。”
“どうか精霊種が俺の背を押したなどとは思わないで欲しい。”
“願わくば次に機械精霊に選ばれるのは、俺よりも強い心であるように。浅ましくも願うなら、娘達ではないように。”
“愚かな俺をどうか”
“許”
――それで、ぐしゃぐしゃになって、遺書は終わりだ。許してくれ、とも、許さないでくれ、とも、きっと書けなかったのだろう。
父に何があったのかは分からない。機械精霊という力に蝕まれて狂ったのだと誰かが言った。歴代の機械精霊の契約者に発狂した者など居なかったと誰かが言った。何も、答えなど出なかった。
ただ、父の願いは虚しく、機械精霊はソラを選んだ。その才能を見出され、ラァは神依りの巫女となった。
遺書を抱き締めて、ソラはベッドに寝転がる。シーツが乱れるのも構わずに、丸まって、目を伏せた。
「ねぇ父さん、私もいつか、おかしくなって死んじゃうのかな」
答えは無い。ソラの胸元から光の龍が抜け出して、その金の瞳を横たわる少女に向けていた。
――コンコンと、ノック音が響く。時刻は本来の起床時刻に至っていた。応えれば、扉が開いて数人の女中が入ってくる。朝の挨拶と共に、朝食の用意を――そして、一人の女中が一歩前に歩み寄った。
「ソレイラージュ皇子。支度を終え次第、国王陛下の元へいらっしゃるようにと仰せつかっております」
「……分かった」
赤い髪を括る。飾りは必要ない。
ここに居るのはソレイラージュの名を受け継いだ皇子だった。
ソラリスという少女は、この国には必要ない。
弱音も、痛みも、父と姉の元に置いて行く。それが、七年間でソラが身につけた、歩み続けるための術だった。
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