1-8:嵐の前

 さらさらと水が流れていく。今日は、肌寒く雲に覆われた日が多いヴィスリジア皇国には珍しい晴天だった。太陽の機械精霊と崇められる白い龍は、楽しげに水に飛び込んでは跳ね上がって飛び回る。

「前は、こういう森で、おとうさんとよくいっしょに遊んだね」

 木漏れ日が落ちる木陰。隣に座るラァが笑う。それから、わざとらしく頬を膨らませて見せた。

「でももうずーっと遊んでないわ。ソラってばすぐに遠くに出かけてしまって、私はここから出ちゃいけなくて。つまらないんだから」

 ずっと。

 その曖昧な言葉は、きっと、ラァとソラでは意味が違っている。ソラが太陽の機械精霊に選ばれてから、七年の月日。その時間は、ラァにはきっとわからないのだろう。

 【神依りの巫女】。機械精霊の声を聞き届けるその立場に選ばれた彼女は、幼少期から感受性が高く、人には見えぬものを見、聞こえぬものを聞く少女だった。それは機械精霊の声にも及び、その類まれなる――機械精霊に愛される――素質を永遠のものにするため、巫女となったその日に、特殊な術によって彼女の心と体は停められたのだった。反動で髪の色は抜け、瞳は白く透き通って――彼女は、八歳の時のかたちのまま、この白い檻の中に在り続けている。

 髪と、目の色は、それだけの理由では無かったのかもしれない。黒髪赤目、今は髪も目も白い彼女のかつての色は、伝承にて忌まれる【黒蛇】と同じ色をしていた。この国で忌まれる色を持ち、この国で崇められる機械精霊に愛された少女は、未だ己に起こったことを知らぬまま、無垢に笑う。

「どうしたの、ソラ。暗いかお。私、そんなにおこってないわ? ソラは帰ってきてくれるんだもの」

 時間を停められた彼女は、それでも、まるで自分の時間も戻ったように感じさせてしまう。双子の姉に起こったことは、悲劇と言って相違ない。それでも、どこか変わらぬ彼女の姿に安堵してしまう自分に、ソラは顔を顰めた。

 ソラの頬を、ラァが撫でる。

「悲しいことがあったのね、ソラ」

 安堵、してしまう。いつだって、彼女はソラの姉だった。

「……ラァ」

 その小さな掌に擦り寄る。手を、握るのはやめにした。

「ラァは、私が、怖くない?」

「怖い? どうして?」

 零した声に、ラァが瞳を瞬かせる。その白い瞳に映るソラの顔は、迷子の子供のようだった。

「……災骸は、生命の変性体だ」

 多分、ラァにはよく分からない言葉の羅列だろう。きょとんとした顔から視線を落として、ソラは紡いだ。

「かつて、いのちだったもの。野生動物であり――人間、だったもの。私はその骸を喰らって、喰らって、

……私のこの身は、血に塗れている」

 ラァの掌から離れて、顔を膝に填めた。膝を抱え込むように丸まったソラを、ラァは静かに見下ろしている。

 腕に押し付けた鼻に、染み付いた血の臭いが刺さった。いや、染み付いているのは腕ではなくて、鼻に――あるいは、身体中に、なのかもしれない。災骸の形は、元となった死骸に寄る。獣なら獣の、人間なら人間の形を――それを、上手く殺す動き方を、もう反射でやれるようになった。

「――怖い、と、感じる」

 それは、戦うことそのものに、であり。

 それは、骸を喰らうことに慣れてしまった己に、であり。

 それは――父の辿った道に、だった。

「父さんも、こんな風に、怖かったのかもしれない」

 だが、恐れは、進む足を挫くだろう。切っ先を惑わすだろう。かつて騎士団長を務め――機械精霊に選ばれた、父を思う。父は恐れを見せることは無かった。弱さを見せることは無かった。人に慕われ、愛され、人を愛し、守り、その剣が震えることは無かった。

 己は父より弱く、未熟で、ならばこそ、恐れを抱けばそれが剣に出るだろう。タカミの薄笑いを思い出す。だから、彼は、試したのだろう。

 ――お前は機械精霊に選ばれた者として、確かに己が心を喰らえるか、と。

「……きっと、私より、契約者に――騎士団長に相応しい人は居るんだ。タカミも、ルークも、騎士団に、私より相応しい人は沢山。……それでも」

 それでも、この心臓はカチコチと機械音を響かせる。ラァの髪が、さらりとソラの腕に触れた。

「それでも、ソラは行くのね」

「……選ばれてしまった。私しか居ないなら、私が、相応しくならないと」

 幼いころに亡くなった母の記憶が薄くとも、父と姉と、三人で、幸せに暮らせていれば良かった。その願いは最早遠く、己の肩にはヴィスリジア皇国の命が負わされていると、理解していた。

 ラァの、小さな体がソラを覆う。暖かな重みが、ソラの頭を抱き締めた。八歳のままの彼女は、それでも、全ての声を理解しているかのように微笑んでいる。

「ソラリス」

 機械精霊の契約者としてソレイラージュの名を与えられ――女であることと共に失った名を、彼女は呼んだ。

「ソラリス、何があっても、あなたは私の大切な妹よ」

 抱き締める、小さな重みに、ソラは目を伏せて身を預ける。血の臭いが染み付いた腕を、背に回すことは出来なかったけれど。

「どうか、忘れないで。ここに帰ってきてね」

 木漏れ日に照らされて、水の流れがさらさらと響く。

「約束よ」

 優しく髪を梳く指は、遠い記憶の母に似ている。

 二人の少女は暫しの安寧を、静かに寄り添っていた。



 日が落ちれば、ヴィスリジア皇国の皇都の気温は一気に落ちる。特に、場所のせいか、肌寒さを強く感じる気がする――そう、後頭部で一つに括り上げた銀髪を揺らし、ヴィスリジア皇国騎士団に戦闘班長として務めるライナルト・グランツは白い息を吐いた。

「ライナルト、さん?」

 声を掛けられて、振り向く。そこに立っていたのは騎士団の副団長であるルークレイドである。ライナルトは茶化すような笑みを浮かべ、わざとらしく敬礼を示した。

「これは、お疲れ様です副団長」

「……やめて下さい。今は仕事中でも無いのですから、俺にそんな言葉遣いは」

「はは、済まんな、ルークレイド」

 騎士団としては部下となってしまった先輩の軽口に、ルークレイドは溜息をつく。そして、ライナルトの前にある一つの墓標に目を向けた。

 視線に気付いて、ライナルトもまたそれを見る。懐かしむように細められた、ソラのものよりも落ち着いた赤い瞳が墓標に刻まれた名を辿った。

「ソレイラージュ団長……いいや、その名はもう継がれたのだから、ソルドレイク前団長と呼ぶべきか。

もう七年、早いものだな。私はもう、あの人の年齢を越してしまった」

 ――ソルドレイク・ラグルス。それはかつて太陽の機械精霊に選ばれ、【ソレイラージュ】の名を冠した男。前騎士団長であり、現騎士団長の父である男の墓標だった。

 ざあ、と風が鳴る。現国王の弟であり、皇家に連なる血筋でありながら、その束縛を嫌って皇族の姓を捨てた人だった。娘であったソラが太陽の機械精霊に選ばれたことで皇族に戻されても、ソルドレイクの墓はあくまで平民と同じ霊園に造られた。平民でも英雄なのだと、大きく飾られたこの墓は、彼の意向には沿わないかもしれないと思うと、ルークレイドは少し可笑しな気持ちになる。

 三十歳という若さにして、強く、優しく、おおらかな人だった。多くを導く人だった。皆が彼に憧れていたし、ルークレイドやライナルトもまた、彼のようになりたいと思っていた。


 ――七年前。彼は、娘二人をルークレイドの家に預けたその夜に、自宅で首を吊って自殺した。


「私はまだ、あの人が何故死を選んだのか分からずにいる」

 ライナルトが、ぽつりと言葉を落とした。

「強い人だった。太陽の機械精霊に選ばれた責は重かろうが……それだけで、幼い子を遺して逝くような人には、どうしても思えない。

……そんな考えが、あの人を死に追いやったのかもしれないが」

「それは……」

 何か言いかけたルークレイドを手で制し、ライナルトは眉を下げて微笑む。

「貴様はまた迷っているのだろうルークレイド。副団長に真に相応しいのかと……貴様がここに来るのはそういう時だ。だが私は、やはり貴様こそが、団長に寄り添う副団長として相応しいと信じている」

 翠の瞳が、真っ直ぐにライナルトを見る。ルークレイドは逸らさずに相手の目を見る男だった。ふ、と笑って、ライナルトは空を見上げた。宵闇が迫っている。雲はない。今日は満月だったはずだ。きっと星は、月の光に喰らい尽くされて見えなくなるだろう。

「次の遠征は、恐らく長い旅になる。どうにも、気になる噂も耳に入るからな」

「気になる噂……ですか」

「私も少し聞いた程度だが、また勅命として通達が下るだろう」

 ざああ、霊園に冷たく木枯らしが舞う。夜が来る。そうして再び太陽が皇国を照らせば、また、立ち上がって歩まねばならない。

 それが残酷なのか、救いであるのか、ルークレイドには分からなかった。

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