1-3:帰城

 歌声が響いている。黒髪を揺らし、双子の姉が歌っている。木漏れ日が差し込む森の中で、軽やかにステップを踏んで。

「黒蛇は囁いた、力を、力を」

 それは、ヴィスリジア皇国に伝わる童謡だった。

 ――かつて、マキネスは数多の人間界の一つとして、神の恩寵を受けていた。人々はそれを知らず、それでも、慎ましく幸福に。

 だが、『黒蛇』。

 そうとだけ伝わる、マキネスを堕としたその存在。それはマキネスにとある禁術を伝えたと云う。マキネスの人間達はその力に魅入られた。

「あわれ、おろか、人は力に溺れゆく」

 ――奇跡を起こす莫大な力を、人間が得てしまった。人間は力に狂った。その結末は目に見えている。

「遂に起こるは大災厄、人が起こした大災厄。太陽がマキネス守り抜くも、ああ、神はとうとうお怒りを。マキネスは見捨てられ、洪水は解き放たれようと目を開く」

 ――歌声は軽やかだ。

 これは、童謡である。長年語り継がれる御伽噺である。御伽噺は、往々にして、幸福に終わるものだった。口を、開いた。


「立ち上がるは太陽王、災厄防ぎし太陽は、神の前に冀う――」


 姉が、己の声に被さったそれに振り向く。彼女の瞳は、お揃いの赤色だ。瞳が笑んで、小さな口が動いた。

 ――起きたのね、だろうか。名前を呼んでいるのかもしれない。何故だか、それはいつも、思い出せないのだ。



「ソラ様」

 心地よく低い男の声に目を開く。目に映る光景は何でもない、見慣れたソル・ヴィリア内の自室だ。皇都に着く前に災骸の血を落とすべくシャワーを浴びて、少しだけ休憩をとソファに腰掛け――そのまま転寝してしまっていたらしい。

「休憩は結構ですが、髪は乾かしてからでなければ風邪を召されます」

 男、ルークレイドが苦笑して、用意したであろうタオルでソラの頭を覆う。冷えた水滴が柔らかい布に吸収されていって、奪われた体温が戻ってくる。

「――皇都に到着致しました。出迎えに皇国軍の者達が。どうぞ下船のご準備を」

「……ああ」

 タオルをルークレイドの手から受け取って、立ち上がる。窓を開きっぱなしで眠ってしまったらしい。遠く、子供の声が聞こえた。帰還した皇国騎士団への歓声か、巨大な飛行艇ソル・ヴィリアへの歓声か。図りかねるが、彼らは楽しげに歌っている。

 歌声だ。それは、ヴィスリジア皇国の童謡。千年前、人間が起こした過ち――大災厄からマキネスを守り、マキネスを滅ぼそうとした神を説得した男を讃える歌。通りで懐かしい夢を見るはずだと、ソラは薄く笑う。


 ――【太陽王】。大災厄を鎮めた彼はまた、滅びは免れたものの神の恩寵を失ったこのマキネスに、機械仕掛けの神を数多くもたらした。

 機械精霊。それが、機械仕掛けの神の名だ。マキネスは、機械精霊の恩寵の元に成り立っている。

 ――それぞれに属性を持つ機械精霊達は、その【本核】を与えることを契約と成し、人々に数多の恩寵を与える。それは或いは生命を産み、或いは守り、或いは――古の神の怒りと謳われる【災骸】を退ける力を与えた。

 マキネスに放たれた機械精霊の多くは土地と契約を交わした。土地に本核を与え、マキネス中に分核を埋め込んで恩寵を振り撒いた。ソル・ヴィリアを含め――飛行艇もまた、風の機械精霊の恩寵によって成り立つ代物だ。巨大な船は空を飛び、人間達は守られている。

 ――だが、太陽王がそう呼ばれる所以はそこではない。彼は、機械精霊のうちの一つ、【太陽の機械精霊】をヴィスリジア皇国に与え、姫と結ばれて国王となった。正真正銘のヴィスリジア皇国の古の王である。

 機械精霊が人間と契約を交わし、人間の心臓に本核を埋め込む時、その人間は災骸を殺す力を得る。


 窓を閉めた。子供の歌声は聞こえなくなる。ソラは己の胸に手を当てて、目を閉じた。己の心臓は、カチコチと、機械的な音を鳴らしている。やがて、赤い瞳を開き、衣服を整え扉へと歩き出した。

 太陽の機械精霊は、人間に宿っている。



「聖騎士団並びにソレイラージュ・ラグナス・ヴィスリジア皇子、御帰還――!」

 一人の軍人が高らかに声を上げると、船着場周辺に集まっていた人々の歓声が上がる。騎士団員を引き連れ、ソラが下船口から伸びた階段へ足を踏み出せば、その声はさらに高まった。

「ソレイラージュ皇子!」

「お帰りなさいませ! 太陽の御子!」

「皇国騎士団万歳ー!」

 軍人に接近を制限されてやや遠くから声を上げる民に、軽く手を振って返す。いつもの賑わいだと、もう対応にも慣れた。

 民を抑える者の他、跪く軍人達が二列に並んでいる。その間を騎士団員達が歩いていく。ソラが目の前を通り過ぎ、その後ろ姿を、数人の軍人が目で追った。

「……チッ、良いよなヒーローの皇国騎士団様は、俺達軍人は嫌われ者だってのに」

「あんな子供……太陽の機械精霊に選ばれたってだけだろう……騎士団長になったのも……」

「化け物じゃないか……」

 ――皇国騎士団の列後方で、アグリがぎっと目を鋭くさせて、唸る。その頭を、隣に並ぶ初老の女が叩いた。

「いちいち目くじら立ててんじゃないよアグリ。いつもの事さね」

「……でも師匠!」

「ソラ様が何も言わないなら、アタシ達に噛み付く権利はないんだよ」

 そう、皇国騎士団属整備士グロリーは吐き捨てる。ぐっと、アグリは歯を食いしばって俯いた。騎士団の列は王城の正門へと近付いていた。

 ――歓声が止む。

「無事の御帰還を心より喜び申し上げます、殿下」

 ヴィスリジア皇国に属する者の制服は、基本的に白を基調にしている。騎士団も、皇国軍もだ。だが、一つだけ例外がある。

 声に足を止めたソラの前に、男が立つ。黒い軍服を身に纏い、黒い軍帽を目深く被った、黒髪の男。前髪は短く左側を後ろに撫でつけ、後髪は腰まで長く伸ばし――左の一房だけ、胸ほどの長さにして三つ編みに垂らしている。瞳は、見えない。糸目なのか笑みなのか不明だが、ソラはこの男が細めた目を開くところを滅多に見た事がなかった。顔の右側の大部分は火傷に覆われ、右耳は無く、右目は皮膚が癒着している。

 白い軍服の中にある黒は、異質に見えた。その制服を纏うのはただ一つ。ヴィスリジア皇国軍裏部隊【弔花】に所属する者達だけだ。そして、目の前の男が纏う左肩の黒い外套が、彼がそのトップであることの証明だった。

「……タカミ」

 名を呼ばれ、目の前の男――タカミは笑みを深める。歓声は無くなっていた。この男が現れたことに気がついた民達が、怯えをその顔に宿して逃げるように去ったからである。白い制服の軍人達さえもまた、顔を顰めて一歩下がる。だがそんなことを気にもかけない様子で、男は笑っていた。ソラの前で一礼して、口を開く。

「お帰りなさいませ、殿下。国王陛下より、報告に参るようにとの言伝を預かっております。

それから殿下不在の間――、災骸が溜まっておりますので。後程、浄化を」

「……分かった」

「嗚呼、勿論、急かしは致しません。どうぞごゆっくり、お疲れを癒してからでも」

 再び歩き出そうとしたソラの前に一歩踏み出して、タカミは身を屈める。その唇が、ソラの耳元でわらった。


「御無理は宜しくありませんので――貴女は、か弱くていらっしゃるのですから」


 ソラの目は、ついと上を向く。相変わらずタカミは笑んだまま、会釈をして通り過ぎていった。

「――っあいつぅ……!」

 ぐぅ、とアグリが歯噛みしてタカミの後ろ姿を睨む。

「やっぱ僕、皇国軍もタカミも嫌いです……っ」

「……そう言うな。我々皇国騎士団が皇都を空けている間、国を守っているのは彼等なのだ」

 アグリの小さな恨み言に返したのはソラだった。アグリがぱっと顔を上げる。しかし、既にソラは歩き始めていて、アグリから表情を確認することは出来なかった。

「整備士はソル・ヴィリアの点検を。操縦士には追って次の空路を伝える。各々傷と疲れを癒し、状態を整え、出動を待つように。

……私は国王陛下に謁見する。ルークレイド、手配を頼む」

「はっ」

 淡々と指示を伝え、正門に足を踏み入れる。

 白く高く聳える王城を前に、ソラは僅かに双眼を伏せた。

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