1-2:帰路

 【世界】には、数多くの界が存在すると云う。神が擁するという神界、異形のものどもが住まう地獄界、麗しきものどもが住まう天国界――古き伝承で語られる、真か否かも証明する手立てのない世界の有り様だ。そのうち人間が支配する世界はいくつも存在し、それら小界は人間界として纏めて数えられているのだという。これらの界は一様に、神の恩寵を受けている。

 このマキネスも、数ある人間界のひとつに過ぎない。そして同様の神の恩寵を――授かっていたと、ヴィスリジア皇国では伝わっている。

 それを失ったのは千年前。もう神の恩寵があった時代を知る人間などどこにも居ないほど、昔の話だ。


 少年の、まだ小さく上下する胸に刃先を向ける。骨が邪魔をしないよう、一瞬で終わらせられるよう狙いを定めた。

 すとん。まだ未成熟な体は柔い。貫いた心臓からとぷんと赤々しい血が湧き上がって、むわりと臭いが立ち込めた、気がする。災骸を切り裂いた身では、鼻も馬鹿になっていて、臭いに顔を顰めることは無かった。

 柔らかい、肉。災骸は通常の刃では傷付けるのも難しい程堅い甲殻を持っている。だが、その甲殻一枚を超えてしまえば、その下にあるのは、にんげんと同じそれだ。それを貫くのも、もう随分と手馴れてしまった。

「――機械精霊、リュオネス。彼の者を、安らかにマキネスへ還し給え」

 文言を唱えると共に、光の剣は二叉に裂けて白竜の形を成す。

 光の竜が、少年の体を呑み込んだ。同時に剣だった竜は光の粒に霧散して、剣の持ち主の心臓へと戻っていく。

 壊された甲板の上に見えるものは、赤と藍の立ち姿と、瓦礫、そして床を汚す血だけになった。

「ソラ様ー! ルーク副団長!」

 遠くからそう呼ばれて、赤髪を揺らして振り返る。ソレイラージュ、その名は呼ぶには長く、そこから派生した愛称だ。皇子を愛称で呼ぶ事の無礼を咎める者は騎士団にはいない。

「どうした、アグリ」

 ルーク、もといルークレイドが声に応えた。声の主――騎士団の見習い整備士であるアグリが、余程慌てて来たのだろう、小さな体を大きく上下させて息を吐く。そして、勢いよく顔を上げて叫んだ。

「この艇! 燃料室が災骸による多大な損傷を受けています! 更には商品と思しき火薬が揺れで点火してて――わぁっ!?」

 言い終えるとほぼ同時、爆発音が響いた。艇が大きく揺れ、崩れかけたソラの体をルークレイドが咄嗟に抱き留める。

「アグリ!」

 顔を上げ、まだ十六の誕生日を迎えたばかりの見習い整備士を探す。姿勢を低くして甲板にしがみついている姿を見つけて、ソラは一先ず安堵の息をついた。だが落ち着いてはいられない。アグリが引きつった顔で、しかししっかりとソラを見上げ叫んだ。

「ソラ様! この艇はもうもちません! 早くソル・ヴィリアに戻ってください!」

「分かった――ルークレイド!」

「はっ」

 ソラの声に頷いて、ルークレイドは未だ立ち上がれずにいるアグリの元へと駆ける。その体を抱き上げて艇に戻る背を追って、ソラもまた駆けだした。

 一瞬、背後を振り返る。甲板を汚す血だけがかつて少年が生きていた証拠だ。それもまた、二発目の爆風に掻き消され、見えなくなった。



 騎士団所有の飛行艇――ソル・ヴィリアに全員が無事に戻り、そう時間は経たないうちに、レスティアの商船は煙を上げて墜ちていく。操縦士の一人、ジラフが、無精髭を掻いて唸った。

「――無事、旧セラル村虚無区に墜落します」

 下を見れば、村や町の明かりが遠くに見える。そんな中で――光の無い森や川でもなく――ぽかんと空いた穴がある。穴、その中は、夜の闇だけの理由ではなく、真黒に染まって何も見えない。その方へ、商船は堕ちていく。

 ――穴は、実際にはドーム状に盛り上がった【黒】である。商船が、その頂点に触れた、のだろう。その、飛行艇としては小型ながら十人ほどの人間を乗せて窮屈でない物体が、瞬時に消え失せた。

「……申し訳ありません、団長」

「謝るな。命じたのは私だ。良くやってくれた」

 頭を下げたジラフに、ソラは端的ながらも労りの言葉をかける。

 ――虚無区。それもまた、神に見捨てられたこのマキネスの歪みだった。その【黒】は、かつての土地を覆い、飲み込んで、失わせた。さらにはそれに触れたものすら消し去られてしまう。先程、【黒】に飲まれるように無くなった商船のように。

「……墜落先が虚無区であれば、更なる被害は避けられる」

 それは同時に、あの奇妙な商船を調べることも、もう出来なくなったということだった。言葉を落として、ソラは深く息を吐く。

「ヴィスリジア皇国は近い。皆、持ち場に戻ってくれ」

 団員達は敬礼をして、それぞれ歩き出す。それを眺めるソラに、男、ルークレイドが一歩歩み寄った。ソラは振り向かず、口を開く。

「どう思う、ルークレイド」

「今回の災骸ですか?」

 確認の言葉に頷いて、赤い瞳を僅かに伏せた。

 ――マキネスでは、生命体が死した時、その魂と骸は一定時間後に災骸という怪物として変性する。それはかつてマキネスを見捨てた神による呪い、あるいは怒りだと伝わるが、実際のところは誰も知らない。神の恩寵があったことすら、もう知る人間はいないのだから。

 災骸化は、魂を破壊し粒子としてマキネスに還すことで防ぐことが出来る。そのための手段のひとつが、弔いの儀式と呼ばれる行為だった。

 死ねば災骸化することが分かっているのだから、マキネスの人々は弔いの儀式の準備を欠かさない。故に、暫く、正確に言えば十年前に弔いの儀式が可能となってから、災骸化するのは弔いの儀式が追いつかない――管理されていない野生動物か、稀に、親族もおらず孤独死した人間位のものだった。

「……今回の災骸は、奇妙です」

 ルークレイドが言う。

「まず、死の近い者を商売に連れていくとは考え難い。となると突然死したということになりますが、旅人でも弔いの儀式の用意はしているものです。死んでから災骸化するまで、通常一日はかかる。いくら突然亡くなったと言っても儀式を行うくらいの時間はあるはず――ですが、災骸化したということは――」

「突然死し、間も無く災骸化した」

 ソラが言葉を継いで、頷いたルークレイドの顔を見上げた。神妙な彼の顔を見て、そうして、視線を下げて息を吐く。

「……近年、異常が続いている。突然の災骸化――遠く、ラヴィニア砂王国の話は聞いていたが、ヴィスリジアの近辺でも起こるとは……兎に角、先程のことは国王陛下に伝えねばなるまい」

 ソラの赤い瞳が飛行艇の船首に向いた。その先では、ヴィスリジア皇国の白璧の城が、昇り始めた朝日に照らされている。

「……太陽。太陽王、か」

 ぽつり、静かに言葉を落とす。夜の闇に慣れた目は、朝焼けでも少し眩しい。


「皇子、国に着くまでには眉間の皺は無くしておいてくださいね」

 眩しさに目を眇めて――自然と眉間に皺が寄っていたらしい。ルークレイドのやや悪戯っぽい言葉で、そんなことに気がついた。

「上の者の表情で、下の緊張は解けるものです。笑顔は、人の上に立つ者の嗜みですよ」

「……貴方は昔から厳しいな」

 僅かに笑う。昔から、ルークレイドには色々なことを教わったものだった。剣の握り方、扱い方、立ち振る舞い、国の歴史、外の国のこと――そして、教えてくれていたのは、もう一人。

「だが、嗜みならば努めよう」

 思い出して、目を伏せる。全て、遠い過去の事だった。

「……陛下への報告を終えたらすぐに向かえるよう、神殿に行く手配を整えましょう。ラァシス様もきっとお待ちでしょうから」

 ルークレイドの言葉に、そうだなと頷く。長く国を空け、彼女は拗ねているかもしれない。

「甘い菓子と土産物も持って行こう。ラァはへそを曲げると長いのでな」

 そう、膨れっ面の双子の姉を想像して、微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る