第八章 女神は墜ちる

終わりの季節

Report70: タイの冬事情

 この日は一段と寒かった。自宅(というかホテル)を出た俺は、アウターを一枚だけ羽織りながらヤワラートの事務所へとやって来た。

 時刻は午前九時。いつも通りだ。毎日、この時間にリセッターズはここへ集まる。


「おう、ラッシュ! ……どうした? 風邪でも引いたか?」


 先に到着していたゾフィが俺に声を掛けた。上着を着て、その上から俺が体をさすっていたから、気になったんだろう。


「いや、少し寒かったからさ」


 タイも日に日に気温が下がっている。特別今日は寒いと感じた。

 ましてや、ついこの間はカオヤイ公園であんな酷い目に遭ったのだ。心神耗弱といっていい。

 もしかして、本当に風邪でも引いたのだろうか。

 ……いや、ありえるぞ。川に落ちた。それに、サイコパスから逃げ回って汗だくになってボロボロになってるし。そもそも山岳部は気温が低かったから、風邪を条件は整っているな。


「ほらよ」

「ああ、ありがとう」


 ゾフィが俺に、コーヒーの入ったマグカップを手渡してきた。

 珍しいな。気を遣わせたかもしれない。俺は礼を述べ、一口すすった。


 この白ブチ眼鏡をかけた筋肉質の男は、風邪とは無縁のようだ。改めて観察してみると、ゾフィはタンクトップに迷彩柄のワークパンツを着用しているだけだった。思えば、俺が初めて会った日から、彼が長袖を着ている所を見た事がない。

 俺が元々住んでいたのは東京だが、冬は平年で気温が十度以下、更に下がる時はマイナス数度くらいが多かった。

 確かに、日本の冬と比べれば寒くないけど。

 しかし暑さに慣れてしまうと、どうやら気温が少し下がっただけでも人間というのは冷えを感じてしまうらしい。


「タイってこれ以上寒くなるのかな」

「北部に行けばもう少し寒くなるが、まぁ、例年並みって所だな」


 俺がぼやくと、美玉の女性が言葉を返した。声がした方を振り返れば、金色の髪にガーネットの瞳、服は白いシャツにインディゴのパンツ。その上から黒のジャケットを羽織った女性。……メガミだ。

 彼女もゾフィと同じく、いつも通りと言えよう。椅子に腰掛けて、新聞に目を通していた。


「おはよう、ラッシュ」

「おはようございます!」


 彼女はこちらを一瞥すると、また新聞へと視線を戻すのだった。

 大した事ではないのだが、最近、名前で呼んでくれる機会が増えた気がする。以前はちゃんとした挨拶もなく、出勤すると同時に流れで仕事を開始する事が多々あったのだけど、信頼された証拠だろうか。それは素直に喜ばしい。

 俺は渡されたコーヒーを机に置く。


 ……やっぱり寒くない? 皆寒くないのかな。

 事務所のエアコンを見てみるが、電源は入っていなかった。


「もう少ししたらエアコンを付ける時期ですかね?」

「ブフッ!」


 俺が発言すると何故か、ゾフィが吹き出した。何事かとメガミを見やるのだが、彼女もまたクスリと笑っている。

 何だかバカにされたようで、俺はやや不満げに尋ねてみる。


「な、なんだよ……?」

「ラッシュ、お前、ちゃんとリモコンを見なかったのか?」


 ゾフィはリモコンをひょいと掴むと、俺に投げ渡してきた。

 俺はそれを手に取り、小さな液晶やボタンを見てみる。


「別に何とも……? ああ、そういう事……」


 そして、ようやく意味を理解した。

 暖房機能がないのだ。あるのは冷房のみ。この時期になるまで全く気付かなかった。


「タイは暖かいから基本的に、暖を取らないんだ」


 俺がガッカリしているとメガミが解説をしてくれた。


「まぁ、お前が泊まっているホテルにはガスストーブがある筈だがな」


 相変わらず目線は新聞のまま、メガミは続けた。

 成る程ね。じゃあ、自室に居る時は問題ないかな。……って事は、事務所に居る時は寒さ対策をしておかなければならないのか。

 ホカロンとか売っているのだろうか。いや、まずは冬服か。


「最近じゃあ、暖房付きのエアコンも出回っているみたいだがよ」


 ゾフィが補足する。どうやら日本と同様のエアコンも販売されているらしい。

 事務所に付ける予定は……無いだろうな。今まで必要なかったからこのエアコンなんだろうし。全員、寒さに強そうだし。

 ゾフィは一言「風邪を引くなよ?」と俺に忠告すると、事務所を出て行ってしまった。どうやらすぐに仕事に取り掛かるらしい。

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