Report33: 貧民街での遭遇

「ゾフィ、ここは?」

「ここはタイのスラム街さ」


 俺達は今、夜のスラム街を訪れていた。ここに、サーマートが潜んでいる可能性があるというのだ。

 昨今著しい経済成長を見せる、この活気の良いバンコクにも裏の顔はある。富裕層がランチに費やす金ですら一日に稼げない貧困層が、ここクロントイには集まっていた。

 錆びたトタン、襤褸切れ、朽ちた木材。表は高級住宅なのに、裏通りに入ったら別世界のようだった。

 俺達の身なりが似つかわしくないのか、住人達はジロジロとこちらを見ていた。


『こちらゾフィ、異常なし』

『了解。こちらは不発だった。頼んだぞ』


 ゾフィがメガミに連絡を入れる。また今回もイヤホンを通じて、俺は二人の通信を聞いていた。

 目下、チームは二つに分かれている。ゾフィと俺、メガミとロジーで分かれた。

 メガミからの応答の様子だと、あちらはサーマートと遭遇しなかったらしい。《ブラックドッグ》の方はどうだろうか。潜伏先を四箇所まで絞ったから、俺達のポイントを含め、残るは三箇所。果たして……。

 正直、会いたくはない。戦闘や殺傷に長けている相手であり、鉢合わせた場合、俺なんかは容易く殺されてしまうだろう。

 逃げ足と持久力には自信があるのだが……。

 だからこそ、「ラッシュ!」というゾフィの緊迫した声を聞いた時、とても嫌な予感がした。


『俺だ。標的を発見、……やるだけやってみる』

『私だ。了解、無茶はするなよ』


 朽ち果てそうな軒並みが続いていて、ぽつりぽつりと家の灯りが点いている。ただし日没が近く、天気も良くない為、視界はあまり良くなかった。

 何か買い物を終えたのか、袋をぶら下げて歩く男をゾフィが顎でしゃくって示した。


「頬に傷、間違いねぇ。……ラッシュ、悟られるなよ」

「分かってるって」


 ゾフィの物言いに、俺の挙動が不審なのかと思ったが、そうではない。そもそも俺達の服装が場違いなのだ。貧民然とした格好をしていないから、警戒されてしまう虞があった。

 俺は今一度気を引き締めると、精一杯、観光客のフリをする。お誂え向きな事に、クロントイには市場がある。それを見に来た体を装えばいいのだ。

 さっきまで、そう思っていた。


「こんばんは、こんな時間に観光ですか?」

「……えぇ、まぁ。でも、この時間は閉まっている店も多いですね」


 人ごみに紛れ、サーマート本人が向こうから接触を図ってきたのだ。思わずびくりとしそうになるが、持ち前の肝の太さで誤魔化した。

 近くで見ると、身長は俺よりも高く、服の上からでも分かるくらい、全身を鍛え上げているのが分かった。私服であるのか、シャツに、カーゴパンツ姿であった。

 ゾフィは何処に行ったのか。見当たらない。しかし、キョロキョロすれば不審に思われるので、やめた。


「タイ語、随分とお上手ですね……本当に観光ですか?」

「まぁ、観光半分、ビジネス半分って所ですかね」


 茶化すような素振りで、サーマートが話しかけてくる。こちらを探っているのだろうか。俺は無難な答えでもって、受け答えていく。


「ほう、それは……《リセッターズ》という便利屋ビジネスの事ですか?」


 まずい、と思った。どうやら、俺の事を知っているらしかった。なんて言葉を返そうか、と考える。だがその矢先、サーマートが懐から銃を取り出すのを見てしまった。

 俺を消すつもりなのだろう。血の気が引いていった。しかし、俺もタダでやられるつもりはない。即座に回避行動へと移る。

 俺は身を翻すと、一目散に走り出した。そしてゾフィ、と叫ぶ。その傍らサーマートを顧みると、追ってくる気配は無い。……逃げ出したのだろうか。


 考えてみたらスワンナプーム空港で一度、《ルンギンナーム》とは対峙している。しかも、《リセッターズ》に身を置いて、それなりに時間も経つ。

 ましてや、俺は日本人だ。顔が割れている可能性は高い。浅はかだったのか。いやしかし、まさかあちらから接触してくるとは思いもしなかった。まんまと出し抜かれたと言っていい。


「待ちやがれッ!」


 ゾフィの怒声が聞こえてきた。立ち止まって声がした方角を見やると、サーマートを追っているようだった。どうやら相手は逃げたらしい。

 俺が慌ててゾフィの下へと急ぎ、狭いスラム街を走り抜けると、いよいよ銃声が聞こえてきた。一発。撃ったのはゾフィだ。しかし命中はしていない様子。

 人もそこそこ溢れている往来を、入り組んだ道を、蛇のようにするりとサーマートは進んでいく。


 遅れて、俺はようやくゾフィと合流を果たした。眼前には港湾が広がっている。だが、水面は静かで、誰かが飛び込んだ様子は無い。

……どうやら逃げられてしまったようだ。

 この頃になると、野次馬も相当集まって来ていた。

 その割りに、あまり大事にはなっていないのが不思議ではある。スラム街ではこの程度、吃驚に値しないという事なのだろうか。


「クソ! 撒かれた!」


 息切れしながら、ゾフィは地団太を踏んだ。

 人ごみもあった。しかし何より、土地勘が利くのだろう。先に見つけられたのは僥倖だったが、相手のほうが一枚上手だった。


「……顔が割れていた」

「何だって?」

「あいつ、俺が《リセッターズ』の人間だって、知ってた」


 俺達はその後すぐにメガミ、及び《ブラックドッグ》に連絡した。サーマートを取り逃がした事。そして奴が俺の事や《リセッターズ》を知っていた事を。

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