四章 曼珠沙華。月の裏に触れ、厳冬を超え

綺麗にスーツを着こなした人、大きなキャリーケースを引くバンドマン。電話で異国の言葉を話す外国人。さまざまな人種が行き交う東京駅にて、人を待つ。

「おっせぇな、じいさん」 

予定より五分ほど遅れた時計の長針を捉えて一人呟く。

全く、なんで俺がわざわざ広島帰らんといかんのや。少しばかり毒づいて煙草でも吸いに先にホームに上がっていようかと僅かばかりの荷物を手に持ち改札に向かう時だった。

「すまん!待たせたな!」

人混みの中でもわかる特異な声が鼓膜を揺らす。全く、重役出勤甚だしいことで……。

自分のカバンより少し大きめのスーツケースを抱えて歩いて来るオーナー。二人してキャリアの付いていないスーツケースを抱える二人に僅かばかりの奇異な目線が注がれる。

「おせぇよ!ジジイ、てめぇが朝九時って言ったんじゃろうが」

「すまんすまん、寝坊しちまったよ」

俺の最大級の糾弾も、未だ酒の熱引かぬじぃさんには無意味である。恐らくまともに聞いてないだろうから。

俺の嫌味など全く聞いていないじいさんと連れ立って、少し鬱屈な、帰りたくはない気持ちを抱き抱えて東京駅の十四番線発、のぞみ二号車に意気揚々と乗るじぃさんの後を追うように足を踏み入れた。

日曜日の朝九時台ということもあってか、旅行客もビジネスマン達もまばらで、一本乗り過ごさずとも18Dと18Eの座席を確保できた。

「俺は煙草吸って来るわ、りんは?」

「うーん、俺はええわ」

席に着いたのも束の間、じいさんの付き合いに誘われたが、少し考えた後断った。そして肘を窓の出っ張りに押し付けて、つい数時間前の出来事を想起する。

酔って理性が無くなったがゆえの行為か、あるいは、お酒の力を借りたゆえの事なのか。前者の場合は単なるもらい事故。お互いの為に触れないのがセオリーだろう。しかし後者の場合なら、意図せず楓香さんを突き放した事になる。まぁ、考えても仕方ないし真意を知るなら本人に直接聞くしかないのだが。

(まぁ、聞けたら苦労せんわな……)

少し苦々しい表情で窓からホームを眺める。

停車駅を伝えるいつも通りの定番のアナウンスを聞き流して、心ここにあらずの心持ちでリクライニングに手をかけた時だった。

「そんで?昨日は振ったんか?楓香のこと」

悩んでいる事へ突き刺さる那須与一が放った鋭い矢の様な一言に表情まで失ってしまう。

「なんや、そうやったか。まぁ、お前は興味なさそうやもんな」

「別に!……そんなんじゃねぇ」

昨日の情事未遂を覗かれて居たのではと疑う程に的確な指摘をされ狼狽する。

「まぁええわ。お前が誰と乳こねくりあってようが俺には関係ないけぇな。ただ……沙華に気があるならやめとけ。どっちも幸せにはならん」

「別に、あいつにも興味ねぇよ。第一、それ犯罪だろうが」

なぜここで沙華を引き合いに出すのか、そして、やめておけと言うのかはわからないが、本当に興味はない。少し心配にはなってしまうが……。恋心より妹や弟を心配に思う心だろう。まぁ、兄弟が居たことはないので想像でしかない。

「別にお互い好きなら犯罪じゃねぇだろ、法の上では結婚できる歳だからな。親の了承があれば。けどまぁ、興味ないなら、ええわ」

「そうかよ……」

突然の鋭い斬撃のような言葉に手負わされたものの、何故か心が軽くなった気がする。あれだけ見抜かれた事によって開き直れたのかもしれない。

『まもなく品川〜、品川で……』

いつしか動き始めた新幹線の揺れと昨日の気疲れ、日頃の夜中の疲労も合わさって、俺は明るい日差しに鬱陶しさを感じながらも眠りに落ちたのだった。


『山陽新幹線をご利用いただきまして、ありがとうございます。次は広島〜、広島です』

いつも通りのアナウンスを聞いてハッと目を覚ます。

隣で後ろの人が座れないくらいに全力でリクライニングを倒して爆睡するじいさん。一瞬無視して博多まで直送しようかとも思ったが、渋々身体を揺すり起こす。

「おい!おきろ!クソジジイ!帰ってきたで!」

周りの人が少し引くくらいに揺すり上げ、声も張る。

しかし、全くこのジジイ起きないのだ。死んでいるのではないかと心配する程の深い眠り。寝つきのは悪い俺は、少し妬ましい思いが込み上げるが、今はそんなことを思っている暇はない。起こすのが先。

どこか懐かしく、あの時とは少し違う広告看板がビルの天辺に立ち並ぶ広島の街が見えてくる。新幹線の速度が落ちるのと反比例して、ジジイをさらに激しく揺すり上げる。

このジジイ、地震が来たら死ぬな。確実に。

「おい、営業始まるぞ、早く起きろ」

恐らく、この類の台詞でびくん、とならない人は居ないだろう。遅刻というものはいかに普通の生き方をしていない者にも平等に重い。いや、むしろ普通でないからこそ信頼がモノを言うからさらに重いのかも知れない。これで起きなければ、博多に行ってもらおうと思う。

「やべぇ!寝過ごした!」

とんでもない速さで身体を起こすオーナー。効果は覿面だったようだ。そして普段絶対見られない光景に心の中で「してやった!」とガッツポーズしたのも一瞬。ものすごい勢いで丸太のようなゴツい手が首に伸びてくる。

「おい!なんで起こさんかった!もっと早く起こせや!」

「起こしたわ!じいさんの寝つきが良すぎるんじゃ!馬鹿たれがぁ!」

などとやり合いをする二人。どこであろうとこのジジイとはこうなるようだ。

「じいさん、新幹線。動き始めてるわ……」

「おう、そうやな……」

周りが見えないくらい喧嘩するのは大人として良くないとお互いに痛いほど分かった日であった。


なんとか、次の徳山駅で降りて、上りの新幹線に飛び乗って、広島駅に着いた。一時頃には着く予定だったのに、一時間半ほどは無駄に新幹線の車窓を味わったのだった。

「全く、おまえがもっと早くに起こしてれば……」

「起こしたわ!ジジイも死んだと思うくらいに寝るなや!困るやろ!」

降りるはずのホームと反対側の上りの新幹線のホームでやり合う二人だったが、先程の致命傷を思い出し、冷静になる。

「りん、すまんな、お前はこれから一時間かかるってのに」

「は?いやいや、目的地は広島だろ」

「俺はな。お前は違う」

まだ寝ぼけているんじゃなかろうかこのジジイ。と思うのと同時にわずかな不快感がさざ波となって押し寄せる。

俺は自分の新幹線の乗車券と特急券を急いで確認する。特急券はなんの変哲もない東京発広島行。うん……普通だ。

が、乗車券が問題であった。致命的な欠陥。立川発、広島市内行。ではなく由宇行。こんな駅、地元の人か野球がよっぽど好きで二軍戦を観に行くほどの猛者でもなければ知らない駅。しかし、俺にはよく分かる。俺の母親の実家がある町。そして、母親が眠る町。

してやられた。全くむかつくジジイだ。文句の一つでも言ってやらないと気がすまない。そう思い、手元の紙切れから目線を上げた時。ふっと、じいさんと目があった。すごく優しい目。向こうでは見たことのない目。

「お前、東京出て一回もこっち帰ってないやろ。一回くらい挨拶してこいや。これ持って」

とても穏やかな声で諭され、そして綺麗な包装のされた菓子折と封筒を渡される。

喉元まで出かかった「行かねーよ」の一言をそっと胸に仕舞い込み、広島駅一番線ホームに歩みを進める。

こんな機会が無いと、俺は二度と行かないだろうから。電車のなかなか来ないホームの階段を少し重たい足で降りながらで鈴衛オーナーに感謝しながらもプラットホームになだれ込む電車の姿を待つのだった。


夢を見る。夜の瀬戸内の細波と夜間動く工場の無機質な機械音を聞きながらただ泣く過去の自分。ただただ苦しかった。今ここで死ねればどれ程楽なのだろうか。毎日それすら考えていた。人間そう簡単に死ねない事くらい、苦しい時こそ楽に逝けない事くらい分かっているつもりだったのに。今だって変わっていない気もするが、嫌なことから逃げてきた結果なのか、ただ慣れただけなのか。今更こんなことを夢に見るなんて、きっと地元に帰るなんて事がなければもう見る事は無かったのだろう。

『次は〜宮内串戸、宮内串戸です〜お出口は右側です』

急なカーブに煽られて目が覚める。三両編成の真ん中の車両のボックス席の片隅で、少し傾きかけた太陽が照らす海を沈んだ瞳で眺める。綺麗な水平線がない様々な島が浮かぶ瀬戸内の懐かしい光景を横目に走る山陽本線に揺られ、地元を目指す。どこまで走っても広大な瀬戸内の景色、牡蠣筏が至る所に浮かんでいる中に、遠目に見ても神々しく海に生える巨大な朱色の鳥居がみえる。時期も時期なのか、山々の木々も皆それぞれ、求愛するかのように色めき立っている。昔、広島市内で働いていた時の車内でよく見ていた鳥居を見て、今は緋色の髪のあの子を思い出す。突然あの店に入って、揉まれて、涙を流し、にも関わらず、必死についていくちょっと不器用な、意見がはっきり言ったあの後輩の女の子。初めて出会った時の衝撃は(物理的にも)なかなかだったが、今は必死にこの世界に馴染もうと頑張る姿に、十七の時の自分を重ね合わせる。そして、少し、愛らしさを感じる。

(なんか、お土産でも沙華に買っていくか……)

乗り換えのバスの時間を確認しながら乗った電車は進んでゆく、自分のルーツを見つめるために気の進まぬ自分を乗せて。

美しい紅葉と大鳥居の風景から四十分、自分の地元の何も無い風景を懐かしく思い少しばかりの嘲笑を浮かべる自分を乗せて、電車は走る。

『間もなく、由宇。由宇です。お出口は右側です』

じいさんの優しい表情に見送られてから二時間弱。目的地の中継地点にたどり着く。小さなスーツケースを戸棚から下ろして、一つ伸びをする。流石に座りっぱなしだと身体が重たいものだ。電車はゆっくりとスピードを落とし、ピタッと止まる。数秒後、扉が開き、ホームに降りる。東京ではありえない有人改札に立川〜由宇の乗車券を提示して、駅員さんが少し驚いた顔をするのを無視して駅を抜け、ロータリーへ。

タクシーが一台と、地元の高校生の送り迎えをするために止まる小さなロータリーの自家用車を眺めて、隅に止まるエンジンの掛かっていない古ぼけた白地に青緑の線が数本あるバスに乗る。すると、バスの運転手のおじいさんに話しかけられた。

「お兄さん、見ん顔やね、その荷物。どこの人なん?」

『よそ者』を値踏みするような態度のおじいさん。その気持ちは分からない訳ではない。

「地元は、大竹ですよ。高校は岩国でした。今は東京にいます」

「ほぉ〜。東京か、ようこんななんも無いとこまで帰ってきたね。何の用なん?」

少し、トゲトゲしたおじいさんの雰囲気が凪いだようだった。

「母親の墓参りですよ、不出来な息子ですけど」

自嘲気味に語ると。運転手さんはすこぶる笑った。

「いやいや、不出来な息子じゃったら、墓参りなんかいかんやろ。今は盆でもないのにこんな時期に、やから、あんたは立派じゃろう」

思いがけない一言に暖かい気持ちになる。値踏みの結果、恐らく合格だったのだろう。

「どこで降りるんかいね?」

「由西の方です。貞清とか長田とか」

降りる先を伝えると、運転手のおじいさんは少し考えるそぶりを見せる。

「もしかして、栗原さんの孫か?」

「……そうですけど」

行き先を伝えるだけで何者かバレるのが田舎である。プライバシーなんかそんな横文字は存在しない。昔は嫌いでしかなかったが、東京の無干渉というのもしんどく思えていたので、少し新鮮に感じたのだった。

「それやったら、もうバス出すわ。この時間のってくる人は居らんし」

予想外の提案に面食らっていると。甲高いブザー音なってドアが閉まる。

バスをタクシーのように使っていいのだろうかと運転手さんに不信感を抱いていると、運転手さんが巧みなクラッチ操作で古いバスを動かしながら話しかけてきた。

「どうせ、この時間は誰も乗ってこんからね。野球もない日はこんなもんよ。やから誰かが乗るのもいつも街の病院に行って、帰りに乗る岩崎の婆さんも今日は居らんから。大丈夫」

「すみません、なんか、タクシーみたいに使っちゃって」

「別に誰も乗らんからね。誰かが乗っとるだけで、仕事しとる気になるからこっちも嬉しいよ。……昔はもっと人がおったんやけどね」

運転手のぼやきを聞きながらそのまま、誰も立っていないバス停を次々通り過ぎ次第に風景は海から山へと移り変わる。人より動物の方が多い地域に突入する。


川沿いを沿って、バスが走ること二十分。目的のバス停へとたどり着く。

「じゃ、お世話になりました」

わずかばかりの運賃を運賃箱へと入れ、降りようとする時だった。

「あ、お兄さんこれ」

そういって、くしゃっと笑ってどこからか小さな大福を一つ取り出して、手渡してくる。

「いや、悪いですよ」と言う前に

「供物の一つにやってくれ」と言われてしまう。

渋々、ポケットに突っ込みお礼を言ってバスを降りる。

親切にしてもらった、おじいさんに感謝の思いを抱きながら。曲がり角にバスが消えるまで見送るのだった。


バス停で一本煙草を吸った後、坂を上がる。

そして、三方を山に囲まれた巨大な家の脇道をコソコソと泥棒のように抜けていく。山へと上がる獣道をゆっくり上がると、そこに沿って約二十基の墓が並ぶ。

古くは江戸時代からの先祖も眠っているらしい墓の中から自身の目的である母が眠る墓の前に立つ。思っていたより汚れていないのは恐らく誰かが、ここを整備してくれているのだろう。その顔の見えない人に感謝をしつつ。先ほどもらった大福をして供える。そして、手を合わせ、心の中で感謝を述べる。

『なんだかんだで元気でやってます』と。

そして、不謹慎ではあるが煙草に火をつけよう、ライターを擦った時。急に突風が吹く。

まるで煙草なんか吸うんじゃないと怒るかのように。

「っけ。まぁええわ」

一度口に咥えた煙草をソフトパックに戻し、山を降りて、

バス停に向かおうとした時だった。誰かが登ってくる気配に慌てて墓標の影に身を隠す。

すると、しばらくして木の棒を即席の杖にして上がってくる見覚えのある人影が見えた。

はっと、息を飲む音が聞こえたのか。人影がこちらへ振り向いて、バッチリ目が合ってしまう。

「……もしかして、依月くん?」

声の持ち主である、祖母にそう聞かれ。首を縦に振った。

「大きくなったね……。なんで、ここに?」

「母親の墓参りです。あと……これ」

十数年振りの再会の淡白な挨拶と共にじいさんからもらったお菓子の入った紙袋を手渡した。

「そんな、気なんか使わんでええのに」

人懐っこい笑顔を浮かべる祖母を見て、どこか母親の面影を感じる。

そんな中、祖母は袋の中に入った封筒を手に取った。

「何これ?」

「さぁ?母親の事知ってる人に渡してくれって言われただけ」

中身に身に覚えのないそぶりを見せる俺を尻目に、祖母は封筒の中身を取り出した。すると、厚紙のようなラミネート紙のような物が二枚。恐らく形状や型などから写真だろう。何が写っているのが分からないが、先程からなんの反応もなく、一人だけ時の止まったような祖母の様子が気になる。そんなに、その写真らしき物の中身が困るような物なのだろうか。

「少し、母屋に行こうかね……」

そう言って、墓の立った山から降り、母屋に向かうのだった。


祖父が健在だった頃は、周囲にやたら嫌われていたため、母屋に入った記憶はほとんどない。唯一覚えているのは、母の葬儀の時の沢山の親族達が場を埋め尽くし、そしてバタバタと動き回っていた風景。自分自身は居ないようなものであったが、その時に比べるともの寂しい様子を見せる母屋の客間で一人座る。それからどれほどの時間が経ったのか。祖母は一冊の本の様な物を渡してくれる。中身の確認を促すような祖母に、静かにうなずき返し中身を見る。そこには綺麗なドレスとブーケを持って、タキシードを着た男性が写る写真が一枚綺麗に枠に収められていた。結婚式の写真の様だ。その写真を見つめる俺に祖母は先程の二枚の写真を見せてくれる。そこには何かの集まりだろうか、まだ若いオーナーと先程のタキシードを着て写真に写っていた恐らく俺の父親であろう人達が写っていた。治安の悪そうな集会であるなと率直に思った。ガラの悪い人達の肥溜めにしか思えない。

そして、もう一枚には、若きオーナーと先ほどのタキシードの男の間に写る物凄く既視感のある緋色の髪を下ろした、切れ目な美人で明るそうな女性が写る写真。これはどういうことだろうか。

二枚目の写真でオーナーは何を気づかせたいのか、相変わらずオーナーの掌の上でサイコロの様に転がされているのだろう。その真意が解らず難しく唸っている時だった。

「せっかくやし、なんか食べていったらええ。お腹は?」

元々は広島駅で食べようかと思っていたがどこかのジジイのせいで食べ損ねたのを思い出す。魅力的な提案であるのだが、時刻は十七時十五分、最終バスの時間も迫っているのが気になる。それに今更どの様な顔でここに居ていいのか解らずにあやふやな態度でやり過ごそうとする。

「空いてます、けど……。バスもありますし……。それになんか悪いし」

「別に気にせんでええ。それに今は誰も帰ってこんから、こうやって孫が帰ってきてくれただけでも嬉しいんじゃから。作るけぇ待っとき」

「いや、あのっ!」

俺のあやふやの態度が良くなかったのか、それともはたまた別に理由なのか、すぐに台所に向かっていく祖母。今更止める気にもならないし、最悪タクシーに乗ればいいと観念してご飯を待つことにする。小気味よいリズムでまな板を叩く包丁の音を聞きながら、そういえば誰かにご飯を作ってもらうなんていつ振りだろうかとふと思うが、すぐ辞めた。惨めな気持ちを通り過ぎ、虚無を感じるのが分かるから。あとは……、台所から香ってくる香ばしい醤油の匂いに、思考を支配されたからである。

まぁ、そのうち考えたらええ。保留の考えで何が出てくるのか楽しみにしながらその時を待った。


「ふぅ、ご馳走様でした!それじゃ帰ります……」

「はいはい、また待っとるけぇ、今はこの家は私しかおらんけぇね、またいつでも戻って来んさい」

ひさびさの来客で嬉しそうな祖母に見送られて、記憶にある中では初めて食べた祖母の作った、少し味の濃い肉うどんに満足感と暖かさを覚えながら、誰もいない真っ暗な壊れかけの小屋が建つバス停で最終のバスを待つ。

やがて、遠くの方でハイビームが思い切り輝いている。古いエンジンをめいいっぱい働かせて誰も乗り手のない路線を毎日走るバスが来る。スポットライトのように俺を照らしてハイビームが俺を照らしながら現れたのだった。


 山陽本線の接続駅は、大体山口県側と広島県側にどちらに行く際も岩国と言う駅を使うことになる。今回も例に漏れず岩国駅で乗り換える。ちょっと前まではボロボロながら風情ある構えをしていたのに、米軍基地マネーによって、綺麗なガラス張りの中身のないハコモノに改築されていた。乗り換えのためにホームを移動しようと階段を上がり、すでに来ている乗り換えの白市行きの電車に座って乗るために少し急いで隣のホームの階段を下りようとした時だった。

「依月?」

懐かしくも忌々しい、地元で最も逢いたくない人の声が、階段の下側から耳に響いた。

そこには、かつて愛した、あの時よりも垢抜け女性が立っていた。

(あの時より綺麗になっとるな……、いい男でも出来たんかな。まぁ俺にはもう関係ないか)

湧き上がるそんな気持ちを持ったまま、努めて平然とその声の主と相対した。

「ひさびさだな」

「やっぱり依月だった。見た目は変わっても雰囲気変わってないから、びっくりしたよ」

「俺もびっくりしたわ。知佳がそんな綺麗になっとるなんて、いい男に拾って貰えたんか?」

「んー、ちょっと違うかな。あとメイクの力ってやつ?……駅も綺麗になったし私もね」

少し含みを持たせた言い方が少し気になるが、もう自分には関係ないと先を急ごうとする。

「そうか、じゃあ、これで」

あまり長居する理由もない。たった今長居したくない理由が出来て、下に待つ電車に乗るために、そばを通り抜けようとすると。不意にスーツケースの取手を引っ張られる。

「なんだよ、まだなんかあんのか?」

「いや、今東京なんだよね?場所は?」

「そんなんどこでもいいやろ」

「一応ね!心配だし……」

なぜ、振った男にここまで必死になるのか解らない。電車の時間も押してくる。都会と違い頻繁に電車が来ないので、この電車に乗らないと次は三十分後になってしまう。ここは素直に言って解放してもらうが最善だと思えた。

「立川だよ」

「ふーん、そっか。立川か……。今の仕事は?何やってるん?」

「やかましいな!振った男にそこまで絡んで楽しいか?」

最低だ。自分の心をかき乱され、電車に乗ると言う焦りから、怒号を上げてしまうとは。周りの人々も何があったのかと遠巻きに見ている。これは申し訳ない事をした。恐らく知佳が明日から大変だろう。田舎の忌々しいご近所ネットワークによって、週刊誌さながらの騒ぎになるだろう。まぁ、俺には関係ないと納得しようとする。

「そうだね、ごめんね。やっぱり、依月みたいな誰にも本心を見せない様な、孤独な人と別れて清々したよ……。元気でね」

そのままスーツケースを握る彼女の手がふっと緩まる。俺は少しもやもやした気持ちと怒鳴り上げてしまった事を後悔し、少し足早に電車に乗り込んだ。スーツケースを乱雑に床に投げ置き、ボックス席の片隅で彼女との時間を思い出す。今となってはどうでもいいが、もう少し、ちゃんと信頼していればよかった。弱音も全部曝け出した方が良かったと思うが、その時は多分、好きな人の前では見栄を張りたいという若気の男心があったのだろう。

「はぁ……なんで会っちまうんかな」

あまりに突然な、最低の再会と別れに思わず溜息をつく。

『間もなく、広島方面、白市行きの発車です。お乗り遅れありませんようご注意下さい』

お決まりのアナウンスの後、ドアが閉まる、ぼんやりと真っ暗闇の外を眺めているとガラスに写る自分と目が合う。

(ひでぇ顔だ……)

なんだか同じ子に二度振られたような気になり、鬱屈な気分になる。その気分が晴れぬまま、電車は海沿いの線路を走り続ける。さようなら、もう二度と来ることもない街へ。

相変わらずの酷い顔で最後の挨拶を済ませるのだった。


『貴方みたいな自分の本心を誰にも見せない人と別れて、清々した』

なんてね。本当は嘘。私から振ったのだから今更まだ気になってるなんか、絶対言えない。だから強がってるだけ。その事を依月には気づかれたくなくて。けどまぁ、気付いてるんだろうな。昔から隠し事なんか通じなかったもん。それだけ周りに気を配って、自分を殺して生きてきたのだろうから。

そんな依月の事を、私にはどうしようもできなかった。ほんとは私を信じて辛いと弱音の一つでも言って欲しかった。あの歳で夜の世界で働いてることも言って欲しかった。ほんとはなんとなく知ってたけどね。

デートの時には良く目の下にすごいクマとか作ってたし、ハグした時には、ほんのりアルコールの匂いなんかもしてたもん。けど依月が、私にそれを出来なかったのは多分、私の器量が足りなかったから。私にはとても背負えない物を背負っていたから。そして、依月が私を大事に思ってくれていたことの裏返し、本当はそれを少しは一緒に背負わせて欲しかった。

私は貴方の最後の女の子になりたかった。

けど、貴方にとって私は終点じゃなくて、次の電車の始発駅でしかなかった。だったら私はホームを離れる電車の後ろ姿をただじっと無事に今度は終点に着きますようにと祈るだけ。言いたいことは沢山あったけど、これ以上言うと潮風で目が痛くて泣いてしまうだろうから。ただ振り返らずに歩くだけ。

「じゃあね、元気でね」

一番言いたかった一言は、届けたい人に届く間もなく海の街を駆ける電車の起こす風となり、空へと消えた。


 日曜日の夕方なのに相変わらず、すごい熱気の流川通り。久々にこの地に足を踏み入れる。相変わらず有象無象と酔っ払いが入り混じる汚ねぇ街だと煙草を燻らせながら思う。まぁ、それでも昔よりはマシになった。けれど、この有象無象の街を俺は愛している。

向こうも似たようなものだが、活気ある広島人の夜のオフィスって感じがたまらない。

流川通りの入ってすぐの立ち飲み屋にふらりと立ち寄る。ここは昔からよくお世話になった店である。ここの大将はよくうちに飲みに来てくれていたものだ。

「お〜、竜さん久しいね!」

「お、死んでなかったんやな」

「まだまだカープが日本一になるまでは這ってでも生きるで!」

「どうせ這いつくばるなら、フローリング拭くモップにでもなったらええわ!」

「よう、言うわ!飲みもんはビール?」

「おう」

「そう言うと思ってもう、作ってるわ!」

軽い挨拶代わりのジャブをお互いに打ち合って、終わると同時に冷えた生ビールが目の前に置かれる。それをそのまま一気に飲み干した。

「ところで今日は一人なん?」

「いや、待ち合わせ、そろそろ来ると思うんじゃけど」

「まぁ、時間に縛られない奴が多いからなこの街は」

「そりゃそうだ、違いねぇ。来るだけマシって思わんと!」

待ち人を待っている間に酔っぱらうと思いながらもビールを注文するのだった。


三杯目のビールを少し残して、次は何を飲もうかと考えている時だった。引き戸を引いてこっちへ向かってくる人影を見つける。高い身長にイカツイ顔、そして似合ってないハット、まさしく待ち人、橘重臣(たちばな しげおみ)その人である。

「いらっしゃい!待ち合わせですか?」

「俺の連れだ!気にすんな」

ホールに立つ店員の案内を制して、待ち人を自分の元へと呼ぶ。

「なん飲むよ?橘」

「俺は焼酎ソーダ割」

「じゃあ、同じの二つ!」

俺は少しぬるくなったビールを飲み干して、まずは世間話で腹を探る。

「最近どうよ」

「別に、酒の飲み過ぎで気分が悪いくらいだよ、目の前のイカツイおっさんの顔で二割増しじゃ」

「よう言うわ!お前やってイカツイやろうが、それにその全く似合っとらん帽子はなんじゃ。ハゲ隠しか?」

最近の事を聞いただけで軽口を叩くこの男はなんなのだろうか。と言っても言われっぱないで済むほど気は長くないのだが。

「ハゲとらんわ!まだあるけどな!」

「アマゾンの森林より早いペースでお前の髪は消えていっとるやろうが!」

「ふざけたこと言っとるなや!それやったら今頃なくなっとるやろう、まだあるんやから少なくともアマゾンよりはマシじゃあほんだら!」

「やかましいんじゃ!ええ歳したおっさん二人が暴れんなや!」

勢いがつきすぎた二人の会話に割って入り、大将が目の前に割れんばかりの勢いでグラスをテーブルに叩きつける。反動で中身の半分を体に浴びる二人。

「悪い悪い……熱が入っちまったわ」

「俺もや。すまんかった」

キンキンに冷えた焼酎のソーダ割りを体というか服で味わった二人は仕切り直して、コツンとグラスを合わせ、残った半分を互いに飲み干した。

改めて、仕切り直しの焼酎ソーダ割が来た頃。

「あいつは……沙華はどうや?」

「なんや、興味あるんか?前、電話で話した時は興味なさげやったのに」

「興味はねぇな。今の子供の方が可愛いし」

「興味がなかったら、沙華の周りを物騒な連中に嗅ぎ回らせたりせんじゃろうが。違うか?」

「けっ、バレてんのか、流石ジジイだな。優秀な密偵でも付けてんのか?」

「別にそんなんじゃないさ。ただ、迎えに来い沙華を。高校だってあるんだろうが、せめて退学にはさせねぇようにな。あんなええ高校いっとんやから。」

「考えとくさ」

ひとしきり、沙華のことについて二人で話した後、今度は、俺から橘に聞く事にする。恐らくこれが一番火種になる。けどここではっきりさせておかなければならない。

「依月は気になんねぇのか?」

「依月?……そんな奴しらねぇよ」

「てめぇの一番目のガキだろうが!お前が母親と一緒に切り捨てたガキだよ!」

周りの酔っ払い達の注目を一点に浴びるほどの野太く大きな声で叫ぶ。こいつのこういうところが気になって、そして嫌いで仕方ない。そうでもしないとあっちの世界じゃ生きていけないのかも知れないが。

「そんなに怒って血管切れてもしらねぇぞ。沙華は連れ戻しに行くさ。近い内に。また逃げるようなことがあったら、そんときはまた鈴衛に頼むわ。その方が幸せに生きれるだろ、知らんけどな」

そう言って、残ったグラスの中身を飲み干し、クシャクシャの一万円札を放り投げた。

「それじゃあな。元気で生きろよ、じいさん」

そう捨て台詞を吐いた橘は先ほどより頬を赤くした人が増えて、色めき立つ夜の街へと消えていったのだった。歳は大してかわんねぇのに、じいさんという奴はなんなのだろうか。

「気にくわねぇな。やっぱり」

そうぶっきらぼうに飲み手のいない空のグラスに吐き捨てたのだった。


あの駅で、最低の出会いをし、夢現に揺蕩いながら、電車に揺られる。車窓から見える瀬戸内海は暗く、島々の影だけが浮かび少し不気味な雰囲気に見える。

不意に携帯が震える。着信元にはクソジジイと出ている。どうやら、今頃飲んでいると思われるジジイからの着信だ。そこで、はっと昼間の写真の事を聞こうと思い出し、緑色のアイコンの方をタップする。

「遅い!五コール以内に出ろや!」

出た瞬間にけたたましい怒鳴り声が響くせいで耳鳴りがして、思わず携帯を遠ざける。

「うっせぇな……。そんで、なんの用や?」

「今どこや?」

「あぁ、新井口」

「やったら、流川のあの立ち飲み屋に来いや」

正直今の気分では行きたくない。酒の一滴も飲みたくない。が、俺も聞きたい事があるので、行かないわけには行かないだろう。

「あぁ〜、わかったあの店か。分かった」

適当に返事をしたところでプツっと切れる音がする。

あのジジイ言いたいことだけ言って切りやがった。まぁ、仕方ない。俺は一発自分の頬をパチンと叩き気合いをつける。いつまでも昔を引きずっても仕方ない。目の前に座る女子大生らしき二人組に目を丸くされても動じない。今はただ一つ、静かに自分が予想する事実が正しいかどうかを確かめるために、俺は広島市内へと向かうために電車に揺られるだけだ。


じいさんと電話をしてから約三十分、俺は懐かしい雰囲気漂う、煤けたネオンで彩られた麒麟の看板がある、流川通りにやって来た。

以前より少しほんの少しきれいになった気がするのは気のせいではないだろう。本来は色々と見て回りたい気もするが、あまり昔を思い出して懐かしんでいる時間はない。

少しだけ足早に目的地へと向かう。昔馴染みの立ち飲み屋である。今頃じいさんは出来上がっているのだろうと思うと、少し行くのが億劫になるので、名前を覚えていないがあの気のいい大将に会いに行くと考えることにする。そう考えるのも束の間、店の前に着いてしまう。一応、中を覗いてみると日曜日の二一時半というのに大勢の人で賑わっている。この街には明日が月曜日という概念はないのだろうか。そんな中、角の席で大きい体をかがめて壁にもたれる広い背中を見つける。少しだけ来たのを後悔するが、とりあえず寂しそうな背中のじいさんの所に向かい声をかける。

「よぉ、じいさん今着いた」

「おぅ、おせぇな。けど、まあええわ」

俺は戦慄した。あのジジイが酔ってない。遅くなってもブチギレないなんて、何があったのか。考えるのも束の間、大将と目が合う。歳は取ったがまだ生きているようで安心する。

「おぉ!りんちゃん久しいな!元気やったか?」

「大将こそ、死んどらんかったんやな」

「お前ら二人揃って失礼やな!そんで、何飲むよ?」

「俺はビールやな。じいさんは何にするよ?」

「……」

返事がない。おかしい、やはり酔っているのだろうか。少し強めに呼びかける

「おい、クソジジイ!何飲むんじゃ!」

「…ん?!あぁ〜、焼酎お湯割り頼む」

今日のじいさんはどこか様子がおかしい。いつもなら逆ギレされるのに今日はやけに素直である。

「ビールとお湯割りな。すぐ持って来るわ」

「悪いですよ、混んでるのに」

「ええって、気にすんなや」

混んでいるにも関わらずによくしてくれる大将に少しばかりの感謝を伝え、酒を待つ。

「りん、お前どうして、楓香のこと振ったんや」

ビールが来るのを待つ間、不意に神妙な顔したじいさんからそう問われる。

「はい!ビールとお湯割り!」

「あ、ありがとうございます」

驚くべき早さでお酒がくる。ある意味、間のいいところで来た飲み物でまずは乾杯。そのままビールを一口。

「どうしてや、お似合いやと思うで。楓香とりん。応援するのに」

「うっせぇな、応援なんかされても困るやろ。彼女にするには興味ねぇだけだ。そんな気持ちで付き合えるほどの仲でもないやろ」

しつこく楓香さんを勧めてくるじいさんに少しの苛立ちを覚えて、少しぶっきらぼうな言い方になる。

「まぁ、そうやな……」

少し寂しそうにつぶやき、お湯割りをすするじいさん。つられてビールを一口。いつもより苦味を感じる。これがラガービールだからという理由だけではないのだろうな。

「ところでよ。あの封筒の写真ありゃ一体なんだ」

ずっと気になっていた事をこの場で聞く事にする。このままだと酒もロクに味わえない。

「新幹線の中で言ったこと覚えてるか?」

「あ?なんか言ったか?あの時」

俺は新幹線の中の事を思い出す。

まずは乗り過ごした事、思い出すと苛立つからこれはスルー。精神衛生上よくない。

次に楓香さんを家に送った後の事、これはジジイの驚異的な洞察力で見抜かれてしまった。流石に参ったが、その話は先にじいさんにされている。そして残ったのは沙華の事。

あの時のじいさんは『沙華となんかあっても幸せにはならん』と、そしてあの写真。沙華と同じ、緋色の髪を湛える女性とともに写る、父親とオーナー。

しばらく考えてある一つの仮説が浮かぶ。たった一つのシンプルな答え。もしそうだとすれば、たとえ沙華と俺が結ばれることがあっても苦難と茨の道だろう。世の中からは指差され、非難される。それが世の常。近親での交わりは禁忌なのだから。

「お前が思った通りや。恐らくな。そして、沙華は十中八九お前に惚れとる。未来のない恋愛に溺れようとしとる。お前は何があっても奴を振れ。お互いのために」

その一言が何よりも重く突き刺さる。先程のビールの苦味も感じないほどに、深く強く。俺の心へ突き刺さったのだろうか。どんな顔で沙華も接すればいいのだろうか。久々の広島の夜は苦くて重たい味がした。


「いらっしゃいませ!」

「あれ?あの兄さんは?」

「りんさんとオーナーは、今日から休みなんですよね……」

「あ〜、そうなの?そしたらまた来るよ」

「はい……。また、お待ちしてます!」

私は、少し愛想笑いを浮かべて滞在時間0秒のお客さんを見送った。

先程からこれでこのやりとりは三回目である。

今日から三日ほど私は一人でこのお店を回さなければならないと気合いを入れていた私を嘲笑うかのように閑古鳥が鳴く店内で、私は一人ため息をこぼす。

開店してからグラスを磨いて、机を拭いて、床をモップがけするといった、清掃業務を開店からひたすらする。もしかしてバーではなくて、清掃業者で働いているのではないかという程に掃除しかすることがない。いつもの0時と言えば、少なくとも数人のお客様はいるのが普通である。少なくともこの時間まで売り上げが無い日を知らない。

「はぁ……暇やなぁ」

あまりに静か過ぎて思わず口から溜息がこぼれ落ちる。幸せはおろかお客さんも逃げている現状にため息は無限に湧いてくる。そして普段の賑わいは二人の努力と技の賜物なのだと、思い知らされる。

今頃、あの二人、特にりんさんは何をしているのだろうか。久々の広島の夜の街で遊び歩いているのか。それとも、思い出の地を巡っていたりするのだろうか。いや、後者はない。

りんさんは地元にいいイメージないみたいだし。となると恐らく夜の、私は一度も足を踏み入れたことのないあの街で酔いどれになっているのだろうか。広島の地でりんさんは、どう過ごしているのかを思い描いているうちに夜が更ける。結局この日は一人のお客さんを迎える事なく店を閉めた。

いつもとは違い、まだ暗い帰り道を一人反省しながら歩く。明日こそ、清掃業者じゃなく、バーテンダーとして立てるように。


昨日の惨憺たる状況から“一昼”暮れて一人きりの営業二日目が始まった。今日こそはという意気込みとは裏腹に、閑古鳥に居座られるこの状態。時刻は午後十一時を回ろうかと言うところ。昨日、業者の掃除したおかげで、やることが本当にない状況。忙しいのも大変だが、やることがないのも本当に苦痛であることがよく分かる。

「はぁ……」

昨日から何度吐いたかわからないため息を今日も吐く。一人でもお客さんが居るならば気も引き締まるが、誰もいない狭い箱に居続けるのは、気が狂いそうになるものだ。

やめようと思ってもため息が「はぁ……」とこぼれてしまう。もし『ため息をつくと幸せが逃げる』説が本当のことならば、私はとっくに永遠の不幸の底にいるだろう。そのくらい私のため息が止まらない時だった。ドアの方から『カッ、カッ』と階段を上がる音が聞こえる。皮肉なことにいつもより大きな音で聞こえてくる。その静かな店内で少しだらけていた私はすぐにほっぺを叩き気合を入れる音がパチンと響く。そろそろ開くであろう扉の前で待ち人をまつ。

足音が止まる。それから数秒。ドアがぎぃっと小さく鳴いて開かれるその先に立っていたのは、切れ目が綺麗などこかで見覚えのあるお姉さんであった。

「こんばんは、一人なんだけど。大丈夫?」

「こっ、こんばんは!大丈夫です!こちらへどうぞ!」

そうして、真ん中のカウンターの椅子を引いて案内する。

少し緊張した声色で案内をする私の様子を見た女性がクスッと笑う。何か変なところがあっただろうかと少し思い返していると、さらに笑う女性。

「ふっ、ダメかもしれない。楓香が言ってた可愛い店員さんって貴方でしょ?たしかに可愛い」

どこか馬鹿にされているような気がして少しムッとしてしまう。

「ごめんね、初めましてで、いきなり笑いのネタにしちゃって。私は河重咲、楓香とは中学の時からだから、十五年位かな?そのくらいの知り合い」

はっとそこで思い出す。りんさんと楓香さんが薄暗い階段で夜の逢瀬をしていた時に一緒にいたあのお姉さんだと言うことを。

ここで言うべき事かどうか分からず、「前に、見たことあります。あの晩、あの階段で」その言葉を飲み込んで、「初めまして」なんて、当たり障りも無くて逆に興味なさそうな適当な返事しか出来ずに、愛想笑いを浮かべるのだった。

「楓香ね、昨日来なかったでしょ」

そう言えば、昨日確かに来なかった。あれだけ毎日のように来てくれていると言うのに顔すら見せないなんて、何かあったのだろうか。りんさんが居なくても来てくれそうなのに。

「楓香ね、振られたんだってさ、ここの冷めた目した男の子に」

どこか険しい声をした咲さん。

りんさんが楓香さんを送った二日前。その日、何があったかは二人しか知らないけれど、恐らくそこで何かがあったのだろう。私も意外だと思う。あれだけの好意を受けて、それになびかないりんさんが。

やはり、あの人を落とすにはとても険しい道があると言う事がよく分かる。

「だから、昨日来なかったんですね……」

「けど、これで良かったじゃない。敵が減ってさ」

どこかトゲのある言い方をする咲さん。

「別に、敵とか味方とか関係ないと思ってますけど」

「随分と、ぬるいんだね、沙華ちゃん」

のらりくらりと交わすつもりだったのに、ただ一直線に敵意を剥き出し、綺麗な切れ目を険しくして、私を見据える咲さんに慄いて、私は声が出なかった。

「楓香も可哀想だよね。こんなぬるい子に好きな人取られるんだから」

「……っ、私だって、りんさんの事好きなんです……。大好きなんです。初めての恋なんです。その気持ちをぬるいなんて、部外者の咲さんに言われる意味が分かりません……」

我慢の限界だった。私のありったけの気持ちを込めた叫び。内に秘めたりんさんへの想いを込めて。

少し涙を滲ませながら心の叫びを吐き出した私を見て、咲さんは先程とは真逆の切れ目の垂れ下がった優しい笑みで私を見る。

「そっか、良かった。なら。こんだけ本気で思われてる人に楓香が負けたなら」

それは親友に向けたものなのだろうか、それとも親友の恋敵に向けたものなのか。先程の険しい雰囲気がかき消えて、初対面の時と同じく優しい雰囲気に変化して、静かに口を開く。

「恋は戦争。勝者も敗者も泥に塗れて当然。……だから、貴方も好きな人に想いを届けたら?」

娘の会の行く末を案ずる母親のような優しい通告は私の心の奥底に響き渡るのだった。


『だから、貴方も好きな人に想いを届けたら?』

なんて、言われなくてもそんなことはすでに一回やっている。そして釣り合わないなんて理由で木っ端微塵に私の恋心は砕け散った。

私は間違いなくりんさんは、楓香さんに気があるのかと思っていた。それなのに、ふたを開けてみたら楓香さんも振られているではないか。もしかして女という生き物に魅力を感じないのでは、なんてことまで妄想している時だった。

「あ、飲み物忘れてた、ビール下さいな」

「あぁ!ごめんなさい。すぐに出しますね!」

咲さんが来て早々から続いた張り詰めた緊張感がふっと緩んだのだった。とは言え、緩みすぎてお客さんの飲み物の存在を忘れるという有り得ないミスをしたのは問題である。慌ててグラスと冷蔵庫から取り出して、ビールサーバーからビールを注ぐ、あぁ、やってしまったなぁ。と反省しながらもなるべく丁寧に注いでいる時だった。

突然ビールの勢いが強くなり、その一拍後、ボンっとビールが周りに飛び散った。

「ぅっ!」

思わず眼を閉じて顔を背けると、ごぉぉっと炭酸だけが出る音だけが聞こえてくる。どうやら樽の中身が空になったようだ。

「わぉっ!元気だね。このビール」

被弾しなかった咲さんとは対照的に私は思いっきり全身にかぶってしまった。普段はここまで暴発することは滅多に無いのに、忙しい時や焦っている時に限って面倒くさい作業が急に現れ、そして普段より更に面倒事が上乗せされるのはどうしてなのか。最近たまに考える様になって、私もだいぶ夜の考えに染まってきたのかなと思うのだ。まぁ、何事にも言えることなのかもしれないが。

今は考えだけでなく。先ほど飛び散ったビールにも染まっているのだけど。

(はぁ、臭いんだよね。汚れとしてのビールって……)

そう、ビールが乾くと発酵食品に近い匂いを発するようになるのである。

私はとりあえず、髪やまだ新しいジャケットから滴るビールを無視して樽を交換する。これ以上待たせるわけにもいかないだろうし。そう思って急ピッチで樽をセットし、ゆっくりレバーを前に倒し、初めの部分を捨てる。そして、安定して出てくるようになってから、グラスに沿わせるように注ぎ入れ、余分な泡をバー・スプーンで掻き落としてから、逆側にレバーを倒し濃密な泡をつくる。

心の中で自画自賛しながら、コースターとおしぼり。そして、ビールを差し出した。

「ごめんなさい、遅くなりました!」

「いやいや、大丈夫!いきなりふっかけたのは私だし。それよりも……」

先ほど渡したおしぼりを持った手が私に伸びてくる。

「えっ?」

思わず身体を捩って躱そうとすると反対側の手でネクタイの結び目部分をギュッと掴まれ、引き寄せられる。

「逃げないの!動かない!」

そう言われて、思わず背筋がびくっとなってしまう。そうしている間にギュッと近くに引き寄せられて咲さんはビールにまみれた髪服を拭いてくれたのだ。切れ目で美人のお姉さんというのは遠目からは分かっていたが、近くで見るとよりその精巧な造りが際立って見えて、同性なのに、思わずドキッとして心音のリズムが乱れてしまう。

そのまま優しい手つきで丁寧に拭いてくれる咲さんに身を委ねる。思えばこうやって誰かに頭を撫でてもらうことなんて……と、少し思い返した時だった。

「やっほ!来ちゃった!……あ〜、お邪魔でしたか?」

悪戯っ子の様な笑顔を浮かべ、こちらをドアを半開きにした状態で覗き込む楓香さんと目があった。

かぁぁぁっと頬が熱くなるのを感じる。

「あ、好きな人に振られた楓香じゃん」

「うるさいなぁ、私も傷ついてるんだけど?」

照れてまごつく私を拘束し、ビールを拭き取りながら旧知の友にさらっと毒を吐く咲さん。それを少し目を腫らした楓香さんが少し不機嫌そうに返す。私は気が気でなくその会話を黙りこくって聞いている。

「てかさ、……何してるの?沙華ちゃんの首根っこ捕まえてさ」

「いいでしょ?ビール被った妹ちゃんを綺麗にしてる」

「妹じゃありませんけど!」

「またまた〜、照れてるだけでしょ?」

「違います!」

「いいなぁ、私もやっていい?」

「いいよ?」

「え、いやっ、ちょっ……と!」

私は咲さんに首根っこを掴まれた状態で、さらに楓香さんにも近くに寄られる。どこと無く金木犀のような香りを感じる。お店側の人間からするとオーダーを取らなければならないので、もみくちゃにされっぱなしというのはよくないのだろうけど、二人の"お姉様方"は一向に離してくれそうにない。

「なんか、ビールの飲みかけを放置した匂いがする」

気を抜いている間にかなりの至近距離で匂いを嗅がれていたようだ。まぁ逃げられないので仕方がないのだが。

「そりゃそうですよ!さっき被ったんやもんビール!てか、勝手に嗅がんで下さい!」

つい熱が入って、方言が出てしまった。

「沙華ちゃんの方言萌える!なにそれ可愛い!」

「クールそうな子が乱されてるとこってそそるよね」

どうやら、恰好の餌を与えてしまったらしい。二人であーだこーだと語り出す。そんなに方言が珍しい物なのかと疑問に思ったが、思えばここに立ってからは無意識のうちに標準語で話すようにしていたかも知れない。などと自分を顧みていると何やら話し声が聞こえて来る。

「もしもし、オーナー?あの、沙華ちゃんなんだけど」

「いやね、さっきビール被ったみたいで臭うからうちに持って帰ろうかと思って」

「いやいや、なんか、樽が切れかけのときに被ったらしいよ?」

「今居るのは私と咲だけ」

「はーい、じゃあ、私んち連れてくね」

「任せといて〜、それじゃ!」

なにやらオーナーとスマートフォンで話していた楓香さんがスマホを置き、にっこり私に笑いかける。あまりいい気がしないどころかむしろ邪気が含まれている

のは何故だろうか。少し心配する私を見つめて楓香さんが言葉を発する。

「それじゃ、うちに行こうか!」

「え?今から楓香の家で二次会?」

「そだね、女子会だよ!」

「いやいや、私営業が……」

なにやら、盛り上がる二人にまだ営業時間であることを伝える。

「え?オーナー閉めていいって『心も体も綺麗にしてやれ』ってさ」

それでも、なんとかまだ逃げ場があると必死で言い訳を考えて咄嗟に口を開く。

「いやいや、私は!」

「「いいから、行こっか?」」

「あ……はい……」

普段は可愛らしく、綺麗なお姉さん達に強く押されるように引っ張られ、私の二日目の一人営業は唐突に店仕舞いとなるのだった。


少し熱めの湯船に浸かり、私は一人見慣れぬ天井に氷柱のように伸びる水滴を眺め、どうして楓香さんの家にいるんだろうとふと思う。何か意図があって家に呼んだのか、それとも本当にビール臭いから何とかして欲しくてお風呂に入れたのかは分からない。しかし、湯船に浸かるなんていつ以来だろうか。少なくともこっちに来てからは一度も入っていない。シャワーの温かさとは違う、久々の湯船は少し熱くてのぼせてしまいそうになるが、身体の内からポカポカと暖かくなり、まだ入っていたいと思わせるのだ。なんか入浴剤のいい匂いするし。

けれど流石に、人の家でのぼせて倒れでもしたらそれはそれで迷惑だろうと、湯船の暖かさを惜しみつつ上がる。そして、身体を拭こうとする時にふと思う。

(タオルどこにあるんだろ……)

流石にこのままだと風邪をひいてしまうだろうし。家主に聞いた方がいいのかも。

少し気は引けるが、くつろいであろう家主に問いかける。

「楓香さん〜、ごめんなさい!」

しばらくの沈黙。

「はいはい、なになに?」

引き戸を引いて顔を覗かせた楓香さんと目が合った。

「沙華ちゃんってさ……綺麗な身体してるよね」

「……え!?」

その目はどこか覇気のない瞳だった。

「ううん、なんでもない。タオルはこれ使って!」

そういって、新品同然のバスタオルを渡してくる。

こんなホテルのアメニティのようなタオルを私が使ってもいいのだろうかと、戸惑っていると楓香さんがカラカラと少し気まずそうに笑う。

「あ、別にいいよ?気を使わなくて。どうせ今使ってるのを新しくしようとしてたから」

「そうなんですね……。ならよかった……」

なんて、乾いた逃げる笑みを浮かべる私。そりゃ気まずいよ。だってこの人にとって私は恋敵だし。なのに、なんで優しくしてくれるのか。私にさっぱりわからない。

「沙華ちゃん、サイズは?」

「へ?」

「だからサイズ!」

いまいち何のことか掴み切れず、首を少し傾げている悪戯っ子のような不敵なので笑みを浮かべ見つめる楓香さん。

「まぁ、いいや。動かないでね」

ふっと、腕が二本、私の胸元目掛けて流れるように伸びてくる。

「んぇ?!」

私は素っ頓狂な声をあげながら躱そうと体を捩るが既に遅い。楓香さんの綺麗な手はふにょんと私の胸へと登頂する。

「うーん、やっぱあんまりないね……」

クザッとくる一言。どこか私の将来を案じているかのような声色に、私は「別にないわけじゃない。」と言ってやりたい。富士山とも言えないのは悲しいが、それでも高尾山や宮島の弥山くらいはあると思っているのに。ましてや、楓香さんに心配されるようなものではない。まだ成長するだろうし……多分。

「楓香さんだって……」

「え?」

私の息を吸う音より小さな囁き声に楓香さんが反応する。

そこで、囁き声より大きく音を立て息を吸う。そして圧縮した空気砲のように弾けさせる。

「楓香さんだって!人にいう程ないじゃないですか!」

私は思い切り刃を放つ。普段からマイペースな楓香さんにそれが効いたのかどうかはわからないが、一瞬動きが止まる。下をむいている為表情は窺い知れない。もしかしたら楓香さんの心の壁を切り裂いてしまったのかもしれない。一瞬の静寂が訪れた時だった、トットッと。フローリングの上を早足で歩く音が聞こえる。私は思わず身体を隠そうとする時。

ガラガラっ!と勢いよく引き戸を開く人影。

その人影からどこか怒りの張り詰めたオーラを感じる。私にじゃなくて、目の前の人に。そして目が合う。

「楓香……っ!」

普段より少し低音の声。少し陰気な雰囲気を纏って下を向いていた楓香さんがピクッと!身体を起こす。その顔は凍りついている。後ろから肉食獣に狙われる牙の抜けた元・肉食獣のように覇気も艶もない。

「楓香ぁ!あんた沙華ちゃんになにしてんの!」

そう言って、肉食獣を襲う肉食獣。もとい、咲さんは、楓香さんの肩を後ろから掴んでいる。私と対面した楓香さんはどこか震えているようだけど、私は被害者だし助ける義理はないからと先ほどのバスタオルで身を隠し、静観する。

「いや、ちょっと味見を……」

「何の?」

「いや……」

「だから、何の?」

「……」

「どうせ、おっぱいでも揉んで大きさチェック!とかしてたんだろうけどね。まぁ、後で沙華ちゃんに謝ってね?」

流石は中学からの知り合いというか、楓香さんがやりそうな事をわかっているというか、的確に状況判断をする咲さん。一方詰められている楓香さんは黙りこくっているようだが、それを見た咲さんは再び険しい雰囲気を身に纏い始める。楓香さんも謝らないんだろうし。この雰囲気のまま膠着するのは少し気が重い。

「……」

楓香さんは相変わらず口を割らずにむすっとしている。

「返事!」

「は、はいっ!」

が、咲さんの本気の怒りにあえなく楓香さんの城壁は崩落したのだった。

ひとしきり楓香さんを絞った後、咲さんの先ほどまでの荒々しい雰囲気を解く。そして私の方に近づいてきた。かなり絞られた楓香さんはリビングへ逃げ帰ったみたいだが、まぁ、こんな怖い人の近くに長くは居たくない気持ちはよくわかる。

「ごめんね、あの子あんなので。まぁでもいい子だから。謝れないだけで」

そう言って、風香さんの代わりに謝る咲さんはどこか、跳ねっ返りの妹の後処理で苦労する優しい姉のように見える。私にもこんなお姉さんがいたら、今とは違った未来があるのかな。なんて。そんなありもしない妄想を抱いてしまう。

「紗華ちゃん、動かないでね」

「えっ?」

そういって、高そうなドライヤーのコンセントを刺し、スイッチを入れてこのわたし後ろからギュッと抱きしめる。一瞬ドキリとしたが、咲さんの優しい体温と、温かいドライヤーの風に身を委ねることにした。無機質なドライヤーの乾いた風を受ける少し湿って重くなった髪はどこか行くあてが無さそうに宙にたなびいていた。


髪に湿り気が飛んだ時。パチンとスイッチを弾く音と共に、無機質な温風が凪ぐ。

「よしっ、これでいいかな〜」

そう一人満足そうに呟いて、ぽんっと頭を撫でてくれる。その手はドライヤーの風に温められた髪越しでも暖かく、優しい温度の手だった。

「あ、ありがとうございました……」

「ううん、それより、大丈夫だった?」

「あ、はい、まぁ……」

ドライヤーの線を丁寧に束ねながら、先ほどの嵐に揉まれた私を気遣ってくれる咲さん。こんな余裕のある大人に私もなれるのだろうか。そして、もし私に歳の離れた姉がいたらこんな風に優しく守ってくれるのだろうか。まぁ、今更考えてもわたしは独りだ。妹と弟は居る。三歳と一歳の異母兄妹達。そうやって深く暗い自身の深海に沈む私に声がする。

「沙華ちゃん、これ!」

「へ?」

「これ、使って!さっきの全部洗っちゃうから」

「え、でもこれ、高そうですよ?」

これ使って!と渡される下着はかなりの細かな刺繍が施されている。かなり高そうな代物だ。どうするべきか躊躇している私を見かねた私を咲さんは明るく笑い飛ばす。

「いいって!それ、楓香使わないもん。いざって時だけ!って言っといて一生来ないんだから、そのまま肥やしになるだけだろうし?それとも、ビールに濡れたままのやつ……着る?」

なんて、先ほどまでのお日様みたいな混じり気のない笑みから意地悪そうな、曇天の垂れ込めた空の様な笑顔で私を見つめる。選択肢はないみたいだ。

「まぁ、そういうなら着る事にしますよ……。なんか悪い気もするけど。」

「そっか、じゃあ、先行ってるから」

そう言って、パタンと閉まる扉。バスタオルだけを羽織って、どう考えても日常用ではないブラとショーツ一式を持ったわたしだけが残されていた。


結局、あのあと少し迷って、わたしには到底似合わないような砂糖菓子のような色をした代物を見に纏う。

「これ、やっぱないよね……」

不思議なことに少し胸が苦しい気もする。……後にワイヤーのせいだと知らされるのだが。

鏡に写る自身の姿に違和感を感じて、扉を開くを躊躇っていると、不意にガラッと扉が開く。先程とは違って少しお酒を飲んだらしく、ほんのりとお酒の匂いを感じる楓香さんが立っていた。

「遅いから!早く!」

「えっ、ちょっと!」

そう言って、私は無理矢理腕を引っ張られ、リビングへと連れ込まれる。服を着ている二人と、下着姿の私。なんか、着せ替え人形になったような気分だ。

「お、来た来た!これ着て!」

そう言って咲さんは私に半ば強引に何やら服を着せる。あながち着せ替え人形になったというのは間違っていなかった。

「わっ、ちょっと!」

揉まれる私の声など聞こえていないような大人二人。さっき、こんな大人になれるのだろうかと思った私の気持ちを返してほしい。

などと私の目が回っている内に、あっという間に着せ替え終了である。

「似合ってるんじゃない?どう、楓香?」

「うん、可愛いと思う!」

そう言って、リビングの大きな姿見の前に私を連れて行ってくれる。

「私じゃないみたい……」

姿見に写っていた私は何というか、別人だった。

普段、適当にYシャツ一枚や、適当なTシャツとショートパンツ、ひどい時には上だけ着ていたり、寒い時は誰のものか分からぬジャージを着て寝ている私とは別人のような装いに思わず声が漏れた。オシャレな人は家の中でも手を抜かないという事がよくわかる気がした。ワンピースタイプのナイトウェア、もこもこしていて暖かいそして、いかにも楓香さんが好きそうな淡い色使い。

「よし!私は満足したし、お風呂借りるね」

「はーい、行ってらっしゃい」

「あ、はい。ゆっくりして来てください」

そう言い残し私達を残してシャワールームへ向かう、どこか満足そうな咲さん。

私達の間にはどこかなんとも言えない空気が渦巻く。それだけではない、普段と違う服の私自身にどこか落ち着けずにいる。

しばらく落ちつけずにもぞもぞと身体を揺らしている私。どれほどの時間落ちつけずにいただろうか、着慣れない服と部屋にならないまま、身体を落ち着けるようになるべく隅に嵌まっている時、唐突に「ねぇ……」と楓香さんがどこか宙を眺めて問いかける。

そのまま、私は部屋の隅の壁に寄りかかり体育座りで話し出すのを静かに待つ。

「私ね、振られちゃったんだ、りんくんに」

言葉が出なかった、だって私も振られたのに。絶対りんさんは楓香さんと繋がると思っていたのに。そんな言葉にならない驚きを感じとった楓香さんは私にそっと美しく優しい、どこか諦観の笑みを浮かべた。

「多分、沙華ちゃんだよ。りんくんの太陽になれるのは」

そう言い残して、リビングの隅の冷蔵庫へ向かう楓香さん。その後ろ姿はどこか身長以上に小さく見えた。

なんて言おう、楓香さんへの同情?それとも私も振られたという報告?違う。そんなんじゃない。私は多分楓香さんに勝手に負けたと思い込んでいたんだ。

「私も振られましたよ。お前と俺は釣り合わんって言われちゃいました」

「え?!いつ?!てか、なんで!」

冷蔵庫の中のお酒を漁っている楓香さんが冷蔵庫を閉めるのも忘れ、声のボリュームの調整もおぼつかぬままにこちらを向き直る。

「谷川さん、峰浦さん達とあの地下のお店に行った時です。振られた理由は私が聞きたいですよ。私はてっきり楓香さんに取られたって思いましたけどね」

「そっか……じゃあ、一緒だね」

「ですね……」

二人揃って、敗戦後の感想戦を始めるような雰囲気。

「お風呂ありがと〜」

「あ、お帰り〜」

「おかえりなさい」

ふぅと一息ついてリビングへと戻ってくる咲さん。

少し頬が紅く染まった咲さんはどこか色気のようなものを感じて、女の私でもドキッとしてしまう。

「楓香、風呂行ったら?」

「えー、朝でいいよ〜。お酒飲んじゃったし」

「わかった、じゃあ私達とは離れて寝てね。だってこっちはお風呂入っちゃったし、酔っ払って、しかもお風呂入ってない人と寝るとか嫌なんだけど。だよね、沙華ちゃん?」

「ちょっ……」

ぐっと、後ろから抱き寄せられて、後頭部に柔らかな温かみを感じる。

「まぁ、まぁ……。嫌といえば嫌ですけど、家主は楓香さんですし……」

あやふやに板挟みになった、玉虫色の返答をしていると、さらにぐっと抱きしめられる。思わず。うぐっと声が出てしまう。どうしてここまで楓香さんをお風呂に入れたいのだろう。別に汚部屋に住んでるわけでもないし、衛生観念も常人のそれであると思うのに、などと意図が読めずにいる私にこっそり咲さんが耳打ちする。「ここは話を合わせて」と。その吐息で耳がゾクっとしてしまう。

「まぁ、楓香さんお酒たくさん飲むんやから……先にお風呂入るのはいいと思いますよ?」

いつ飲み始めたのかわからない、飲みかけの缶ビールとにらめっこしている楓香さんの視線はすぅと、咲さんに向く。

「沙華ちゃんと話したいことあるから、あんたも話したんでしょ?なら次は私の番」

ストレートに射抜く咲さんの目線に耐えきれなくなったのか、はたまた許したのかはわからないが、楓香さんは背を向ける。

「……じゃあ、行ってくる」

「そうして」

「あ、いってらっしゃい!」

可愛い調度品や、帽子、服などがディスプレイされた部屋とはかけ離れた雰囲気が部屋を支配する中、私は一人、咲さんが私に何を話したいのかを考える。考えても結果なんて出るものでもないのもわかっているのに。考えて結果が出るものなんて世の中にそうはない。強いて言えば、答えが決まっている学校の退屈なテストなのかな……。

「やっと、いなくなった」

私を抱いたままポツリと呟く咲さんの声が八畳程の部屋をさらに広く感じるほどに響く。

私は、とくん。とくん。っと一定のリズムを刻む咲さんの心音を聞きながら次の言葉を待つ。

「沙華ちゃん、髪梳かしてあげよっか」

「へ?」

咲さんの突拍子もない提案に負けず私も変な声で返事する。

「だって、整えてないでしょ、これ。そんなんだから振られちゃうんじゃない?」

私の開き切った毛先を弄びながら唐突な核心をつく咲さんの指摘に声が出ない。

「沈黙はOKの裏返し。だよね?」

「……いやいや、そうじゃなくて!」

「まぁ、いいから!」

そう言って。数種類の櫛となにやら液体の入ったボトルを用意した咲さんに再び後ろからホールドされてしまう。

そのまま、数種の櫛と謎の液体を巧みに使う咲さんにされるがままにされている時。不意に咲さんに話しかけられる。

「振られてたんだって?」

「ですね……」

「そっか……」

それっきりだった。

その後、楓香さんがお風呂から上がってきて、楓香さんに一杯盛られた咲さんが私の髪の毛を変な編み込みをしたり、楓香さんが私の髪の毛の匂いを嗅いだりしたりなんて事もあったが、私は咲さんが私に聞こうとした何かを見つけるという難題に負けて、そのまま眠りに落ちるのだった。


「寝ちゃったね、沙華ちゃん」

「まぁね、二日続けて慣れない一人営業だし、疲れてたんじゃない?」

沙華ちゃんが寝て、咲と二人。残ったお酒を飲んだら寝るという契約で延長戦。

可愛い寝息をたててベッドの上で眠る沙華ちゃんを二人して眺めて微笑む。

「沙華ちゃん可愛いよね……」

「そうだね、楓香と違ってスレてないし」

「は?!私だって擦れてないし!ピュアだし!」

「その歳でピュアなのも問題でしょ」

「は?!いや、咲が汚れてるだけでしょ!」

「何?私が結婚内定してるから僻んでるの?」

「別に僻んでないけど?」

「……ううっ……ん〜」

私達がやりあっているのを煩がったのか。沙華ちゃんが何やら呻きながら寝返りを打つ。

それを見て、和む私と咲。

「この子でも落とせない男を好きになるなんて、楓香も、物好きだよね」

「うっさいなぁ……。ほっといてよ」

投げやりに遠ざけようとした親友の目は本気だった。

「楓香。次はいい恋愛できるよ。大丈夫。だってあんたはとびきり可愛いから」

つぅーっと私の瞳から一筋、涙が伝う。それが呼び水になった。

「ぅっ……ぅぐぁぁぁっ」

私の本気の恋は終わったんだ。その終止符となる号砲は自らの涙だった。それを優しく包んでくれる友達に感謝して。私は涙が枯れるまで一晩中、人生で最も仲のいい親友の胸の中で、跳ね上がる為の涙をながしつづける。恋した人と、最近できた妹みたいなバーテンダーが結ばれることを祈って。夜が更けて、朝日が登るその時まで。

「お酒飲もっか」

「……ゔんっ。ははっ、そうする」

今日は二日酔いかなぁ。なんて。けど今日だけはあの頭痛が恋しい。この切なさがかき消される気がするから。

朝日があるところまで高く登るまで、私達はお酒の海に溺れるのだった。


「はぁ……やっぱ似合わないよね」

私は二人お店のトイレの鏡で自分とにらめっこする。

昨日、楓香さんの家に半ば無理矢理連れて行かれ、昼過ぎに起きた時にはテーブルの上に沢山の空き缶が散乱し、その両端で咲さんと楓香さんは眠りに落ちていた。

そっと抜け出そうとしたのだが、比較的寝起きのよい咲さんに見つかり。「どうせ、一人営業ならおしゃれしたら?」と、半ば強引に髪の毛をセットされ、ナチュラルメイクとやらを施された別人のような私が鏡の向こうから私を射抜く。ふわふわした髪の毛。シャドウやアイラインによっていつもよりパッチリした目元。ほんのり頬にのったチーク。本当に鏡の中の私は私じゃないように感じる。

まぁ、こんなになったところでお客さんは来ないだろうけど。なんてネガティブな事を考えながら、いつも通りカウンターに立つのだった。

せっかくなら、誰か来てくれればいいのに。とグラスを磨くのにも飽きてきた時だった。

不意にトットッと階段を爪先で踏む音がする。

『誰か来たっ!』と待ちに待ったステップ音で、無意識にグラスを磨く手に力がこもる。

力が入りすぎて、グラスがきゅきゅっ!と鳴いている。

誰か来た!とほっとする気持ちと、「あぁ〜また来るよ」と言葉だけを残して行かれるのではないかという不安。先ほどまできゅきゅっ!と鳴いていたグラスがカタカタと震えだす。私の手の震えは治らないうちに。足音はぱたっと止まる。

そして僅かな間の後、煤けた味のある扉が開かれた。

「い、いらっしゃいっ」

震えた声で少し噛みながらも出迎えの挨拶、思わずギュッと目を瞑ってしまう。

「やっほ〜沙華ちゃん」

相変わらずの高い声が先鋒で現れる。私の不安をかき消してくれる楓香さんの声だった。

「こんばんは、沙華ちゃん、今日も来ちゃった」

続いて気分屋の馬の手綱を握る騎手のように、落ち着いた声の楓香さんが顔を覗かせる。

「いらっしゃい!来て くれてありがとうございます!」

昨日に続いて二人が来てくれた事が嬉しくて、声が思わず弾んでしまう。

「おい、沙華ちゃん、俺も居るんだけどなぁ〜」

「いや、僕もいるよ?忘れてない?」

さらにサプライズ。少し残念そうな峰浦さんと相変わらずマイペースな谷川さんも続いて現れる。

一瞬にして最多人数を更新してしまう。全員が常連さんだとしても、嬉しくてしかたない。だって、りんさんやオーナーじゃない。私の時間に来て頂けたのだから。

席に案内する前から横並びになり各々好きなようにカウンターに落ち着いている常連さんを背にパチンと頬をひと叩き。

「あ、沙華ちゃん、私達ビール!おっさん達は?」

「誰がおっさんだよ!まぁいいや、俺たちもビールで」

あれほど閑古鳥が居着いていた空間だったのに、今は、やいのやいのといつも通りやり合う常連さん達の姿に懐かしさを感じて、胸が熱くなる。

この空気を守りたくて、私は数ヶ月前よりは少し手慣れた様子でサーバーのレバーに手をかけて、グラスのビールにきめ細かい泡で蓋をする。

「どうぞ!」

「それじゃ〜」

「「「「乾杯!」」」」

お客さんが来てくれたという大きく弾む気持ちと、最後まで一人なんだという少しの緊張感を抱え込んで、私一人の最後の夜は始まった。


「だからさ!結婚なんて、してもいい事無いんだよ!」

「あー、ひっどい!私今から結婚するんですけど!そんな夢ない事言わないで下さいよ!」

「咲ちゃん大丈夫だよ!この人取材やらなんやらと言ってしばらく家帰らないとか当たり前だもん!そりゃ離婚でしょ!」

「取材は本当だし!べつに風俗のルポ書くとか言って経費でホテヘルとかいってないし!」

「あぁ〜、りんくんのこと諦めるとか無理!」

「なにそれ最低じゃないですか。クズじゃん。あと、楓香はいちいち引きずり過ぎ。うるさい!」

「なにそれ!無理でしょ、三年片想いだよ?!今更無理じゃん!」

「ホテヘルじゃないですぅ!イメクラですけど〜!」

「あぁ!うるさい!楓香ちゃんはいきなりは無理だけど、諦めも大事だよ!あと谷さんはそれ変わらないし!やるなら名刺とかはちゃんと処分しろや!」

「まぁまぁ、咲ちゃん!そういうのが男なんだよね!手綱握って捌くのがいい奥さんなんじゃないの?」

「自分が出来ないこと正当化して、それを女の役目とかいうの今更、流行りませんから!

そんなんだから峰浦さんも結婚出来ないんですよ!」

「俺はしねぇだけだよ!本気出したら出来るわ!ここの離婚した奴とは違ぇ!」

いつもの面子が集まってから一時間半ほど、時刻は夜十時を回ったあたり。

ビールを飲んだあと皆それぞれ好きなお酒を飲んで、そして出来上がって、ゴタゴタと盛り上がっている状況。側からみれば混沌としたこの空間をお店の人が止めるべきなのだろうが、懐かしくて、カウンターでそっと流れを見つめていると勢いよく扉が開かれた。

あれほどの会話がピタリと止んで、皆の視線が開いた扉の向こうへ集まった。

「ったく、誰じゃ!俺の店で騒いどるやつ!」

聴き慣れた声。低くて圧がある、それでいて温かみのある声。

「あ、オーナーおかえりなさい!」

「おぉ、沙華すまんな。突然店空けて」

「いえ、こっちこそ、全然売り上げが立たなくて……」

「ええって、別に気にすんな」

そう言って、オーナー手が私の頭に伸びる。そこから速度を急に上げて、縦に入った。

「っつぅ〜……」

あまりの痛さに変な声を上げる私のせいで、先程までの店の熱は消えていた。

「まぁ、ええんや、けどな、あれだけやかましくされて、なんとかせぇや。お前は店の主やろ?オーケストラやったらコンダクターやろうが。やったらこのしょーもない客くらい、なんとかせぇや」

帰ってきてすぐの鋭い指摘と痛みが染みる。同時に浮かれていたことに気づき、下唇を噛む。

「まぁ、でも、ようやったわ。俺は一人もこんと思ってたからな。けど、こいつらは沙華目当てで来てるんや。バーは人や。どんな看板メニューより、看板になる人が大事。やからな、沙華はようやった。やって、こんなに人が集まってくれたんやから、胸張れ!」

そう言って、鋭い手刀を放った無骨な手で私の頭をぽんっとひと叩き。

褒められた……のかな。

「……良かったね」

楓香さんの口から表面張力が崩れた水が溢れるような一言。

恐らくその言葉は私に聞かせたくて言った言葉ではないだろう。でも、だからこそ。

だからこそ、新品のスポンジみたいに私の心の中に染み渡る。

「ところでさ、りんくんは?」

先程とは違い少し弾むトーンで彼女は想い人の居場所を問う。

「あぁ?おい、お前も入ってこんかい!そこでボサッと突っ立っててもどうにもならんやろ」

相変わらずの方言で扉の外側に吐き捨てたオーナー。

しばらくして、控えめに扉が開いて入ってくるりんさん。その顔は少しやつれていて、萎んで見えた。

「あ、りんさ……」

「りんくんお帰り!」

私の心配を含んだ控えめな言葉は、楓香さんの『貴方には渡さないから』と言わんばかりの出迎えに、煙草の煙のようにすっと消える。私を見てという、楓香さんのメッセージの残り香に上書きされた気分だ。

昨日の楓香さんの本音。私が寝ているだろうと思っていたんだろうけど、あれほどの涙を流しても、諦められない強い気持ち。すがりついて、ボルダリングの様にそのまま反り立つ壁を登頂しようというくらいの強い気概は私には無いものだから。何も言えない。

「まぁ、大丈夫ですよ」

だれが見ても分かるくらいには、大丈夫じゃない。大丈夫じゃない時ほど、大丈夫と言っちゃうくらい、人に弱音を吐けない人なのだ。依月さんは。

けど、そんな不器用さが可愛くて、痛いほど共鳴できて。そして何よりカッコいい。カッコつけようとしてて、努力してるのが分かるから。だからこそ、大好きなのだ。

「りん……依月さん……おかえりなさい!」

だからこそ、私は立川のお姉ちゃんには負けれない。諦められない。これはその宣戦布告だ。

今日も快晴の空に綺麗な月がどっしりと座っている。燻る開戦の狼煙など小さなことだと言うように。


「で?お前はなんでそんなふてくされてんだ?」

「別に……」

「別にって言っていいのは、綺麗な女優だけじゃ、ぼけ!」

「あぁ!やかましいな!黙っとれクソジジイ!新幹線の中やぞ!」

そう吐き捨てると、つまらなそうにオーナーは黙りこくった。

別にふてくされては居ない。ただ、初日出来事が重すぎる。

まず、沙華との関係。もっと驚くのは、沙華が俺に惚れていると言う事。

異母兄妹というのはいい。事実だとしたら自分ではどうしようもない事。足掻いても仕方ない。けれど、沙華が惚れていると言う事。こっちは少し困る。

ジジイの妄言だと思いたいが、目利きは本物、恐らく事実なのだろう。そう思いたくないが。

もし、万が一、沙華が本気なら。彼女を傷つけるだろう。もし、俺が負けて、その気持ちを受け入れたなら。彼女を近親相姦させた不届き者として俺は社会的に抹殺される。それだけだけならいい。けれど、彼女は血の重さにも抗うほど歪んだ愛情を持つ変人として蔑まれ、もう表を歩けないだろう。

どちらを選択しても沙華を傷つける。夜のくすんだ街に生きるドブネズミと違って、沙華には未来があるのだ。大人びていて、少し冷めているが沙華はまだ高校生の歳だ。しかも広島の名門女子校に行けるほどの聡明な子なのだ。未来は明るい。ドブネズミが陽の光を浴びようとして必死こいて受験して、それなりの大学に行ったのに結局、眩しすぎて辞めた俺とはレベルが違う。

負と負の万力に押しつぶされそうな俺を乗せ、立川に帰るためには最終になる乗ったのぞみは暗くなりつつある山々の裾野を切り裂いて、新幹線は東へ進んでいく。

『間もなく〜新神戸。新神戸です。お出口は右側です」

大晦日だろうが、お盆だろうが、なんて事のない平日にも働く新幹線の車内アナウンスが聞こえて来る。

俺に残された時間はもう少しも無いようだった。


「ところでさ、りんくん」

「なんですか?」

つまらなそうにビールをすすっている様に見えるだろう俺に、咲さんが話しかけてくるのを適当に反応する。

「沙華ちゃん、なんか違わない?」

俺の話しかけるなオーラも押し除けて、ズカズカと話しかけてきた咲さんに言われて、目の前に立つ少女をに目を向ける。

「なんですか……?」

少女、もとい沙華は怪訝そうな顔を浮かべて目線を絡める。するとすぐに違いを感じる。

(化粧してる。あと、髪も……)

蕾みたいな子が突然花開いたみたいだ。そのくらい可憐に映る。

「お前、なんでそんな化粧してんだ?髪も巻いてるし」

その一言に、女性陣だけでなくおじさん達も凍り付いた。

「素直に褒めたら?最低だよ?せっかく、恋する乙女を可愛くしたのに!素直に褒めたら?その上で振ったりしたらいいのに、何その態度。頭湧いてるの?」

恐らくこの工作の首謀者である咲さんは、明らかに苛立った口調。そして、静かに怒りを纏って俺に食ってかかる。そりゃそうだ。そんなこと、俺でもわかってる。

「は?いやいや、そりゃ不思議に思うでしょ。突然こんなに変わっとんやから!」

けれど、ここで引くわけにはいかないんだ。沙華を守るために。

「おいやめろや!俺の店で暴れんな!」

「そうですよ……。いや、私がオシャレなんて。お門違いだったんですって。咲さんありがとうございます」

「あ、いや……」

俺は、最低だ。こんなに詰められても『可愛い、似合ってる』の安い台詞の一言すら言えないのだから。

そんな剣呑な雰囲気を打ち破るかの様なぎぃっと扉が開く。

「いらっしゃい…ま……せ。」

沙華の挨拶の声が途中で止まった。気になって扉の方見てみる。

客は二人。一人はひょろっとした真面目にスーツを着こなしたというか、着られているお堅い昼職そうな男。そして、もう一人。こいつは明らかにこっちの世界の人間だ。

いや、その『外』にいる人間、関わってはいけない奴ら。シノギだなんだとえげつないことをやる連中。そんな雰囲気を持つ男。

「こ、こちらへどうぞ!」

沙華は少し怯えながらも店唯一のテーブル席へと案内している。

そして案内された二人は、どかっとソファーに腰掛けた。

「お姉ちゃん可愛いね。ここよりいい給料だすよ?来ない?ちょっと恥ずかしいかもしれないけど。」

「ちょっと、やめて下さいよ!東矢さん!」

「い、いえ、私はお金欲しさでバーテンダーやってるわけじゃないので。」

「なんだよ、つまらんなぁ〜。まぁ、ええわ、俺あれ飲むわ!」

「あれですか?」

そう言って、横柄な、いかにも悪そうな方が指差す先には、オーナーのコレクションである、ワイルドターキーのゴールドラベル。市場には出回らないバーボンで、常連さん達のための隠し酒だ。

「ごめんなさい!あれは、常連様のキープでして……」

必死に謝る沙華に対して、男は相変わらずの横柄な態度で沙華を睨む。

「俺らもお客様やろ?飲ませろや!それとも、この店はそんな事も出来ねぇのか?

だから、クソみてぇななやつしかいねぇんだよ」

「そんなことない!」

明らかにモンスタークレーマーというか、嫌がらせ目的で突っかかる輩に食ってかかる沙華。その姿は気高く凛々しい。険しい環境でも咲く彼岸花のように。

「ここに来る人たちは、みんなええ人やから!オーナーも私の先輩も!この人達は……私にとっては宝物なんや!やから、あんたらみたいな横柄な人に出す酒なんかないんじゃ!さっさと帰ったらええ!飲まれるお酒がかわいそうや!」

咲華の叫び。緋色の髪を振り乱して、体全体から響く怒号に、驚きとそして笑みが浮かんでしまう。おもしぇれ。やっぱり沙華は太陽みたいなパワーがあるよ。俺にとっては。

「あ?偉いやつ出せや!こっちは客だろ!」

沙華の叫びに、ひょろっとした方は額に汗が浮かんで縮こまっているが、もう一人は動じない。そんな中オーナーに耳打ちされる「お前が行け」と。

それを受けた俺はカウンターに入り、いつも通りにグラスを用意して例の酒をグラスに並々注ぐ。

そして、テーブルへ向かった。

「おお、にいちゃん。お前がこいつの上司か?」

「まぁ、そうやな。うちのが失礼なことして申し訳ない。だから、これ飲んで落ち着いてください。お代は結構ですから」

「おう、気がきくねぇ。小娘も見習えや」

そうして、片方のグラスをスーツをきた男の手元へ置く。

「あ、ありがとうございます」

すっかり縮こまっているようだった。この感じ、元々は真人間だったんだろうな。恐らくなにかのネタで揺すられてるんだろう。

そして、もう一つのグラスを俺は厄介そうなやつの頭の上でひっくり返した。

「どうです?ワイルドターキーのゴールド。美味いでしょ?」

そう言って、ことっと、グラスを奴の目の前に置いた。

「こりゃ傑作だ!おもしれぇ!ようやったわ!」

「いやぁ、りんくん最高だわ!」

「りんちゃん流石だね!俺でもそうしてるわ!」

オーナーの一言を口火にカウンターの常連さんはゲラゲラ笑い始めた。

それを面白くなさそうな奴が一人。

「お前、舐めてんのか?」

「舐めてんのはてめぇじゃろうが!うちはな、目には目を、歯に歯をなんだよ。そんなふざけた客はいらねぇんだよ」

眼前に顔近づけて凄みを増す、アルコールの匂いを滴らせる男に食ってかかる。

「もう、いい。……くたばれやぁぁ!」

俺に向かって鍛え抜かれた傷だらけの拳が飛んでくる。

その拳は俺には届かなかった。

「すいませんね。うちの若いのが、きっちり謝らせるんで」

いつもの方言は鳴りを潜め、標準語で謝るオーナーが拳を根元からがっちり固定する。

「なら……金も払えよ?この服のクリーニング代くらいよ。あと土下座させろ」

「ええ、任せてください」

そう言った瞬間だった。オーナーはその男の頭を掴みグラスのある机へ叩きつけた。遅れてグラスが砕け散る音がする。

「でも、まぁ、まずてめぇが謝るのが筋っちゅうもんやろ」

目が血走ったオーナーを見て。もう一人は逃げ出そうとする。

「ちょっと。逃げない方がいいですよ?セブンブラックコンテント財務責任者の国広荘人さん?ダメだなぁ。運用失敗の特別損失補填するために危ないところからお金借りるの、リスクがあるんだから。それこそ闇金の利率より高いリスクがね。」

それを遮ったのは谷川さんだった。そして、懐から数枚の紙切れを取り出して、ひょろっとした男。改め、國広という男の前にその紙切れを叩きつけた。そして、青ざめた表情の国広という男に別のところから長方形の紙を取り出し差し出した。

「私。フリーライター兼谷川企画代表の谷川と申します。よろしくお願い致します。」

「ど、どこでこれを!」

「名刺交換でしょ?早くしてくださいよ?貴方も持ってるでしょ?名刺。もっとも?貴方の名刺の肩書は財務責任者から、責任を負った犯罪者になるんでしょうけど?」

「い、いやだ!」

数枚の写真を引き裂いて、青ざめた顔した国広は屁っ放り腰ながらも逃げ出そうとする。

「おっと!逃げんじゃねぇよ。沙華ちゃんを付き纏ったのお前だろ。谷さんに頼んで正解だったな。」

すんでのところを取り押さえ。ひじの関節を押さえて床へ倒す峰浦さん。夜の血の気の多い奴らを相手にした彼にはこのくらい大したことはないのだろう。全て自己責任の世界、自分の身は自分で守るしかないのだから。

ここのお店のお客さんはみんな癖が強い。けどその癖が同じ方向へ向いた時。それは、最強の団結力となる。一輪の彼岸花に守るために。俺達は。私達は。鬼にでも悪魔にでもなる。

「観念しろ。不届き者共が」

突っ伏した二人に響くように、重いオーナーの声が店内に響いた


「観念せぇや。不届き者共が……。うちの店を荒らして、そのまま帰らせるわけないじゃろうが。往生せぇや!」

とてつもない凄みを放ち、普段の怒り方とは違う、激昂状態のオーナー。こうなっては俺たちには、もうことの行く末を見守ることしか出来ない。固唾を飲んで、この突如発生した天災を観察すると、オーナーの手が、その筋の風貌をした男の首元に伸びた時だった。

ぎぃっと締め切られた扉が僅かに開く音。そして、ある意味よく知った顔。主が姿を現した。

「すまんな鈴衛。うちの若いのと、お客さんがよ。迷惑かけた」

軽い口調で謝意の述べる。口調とは裏腹に、纏った威圧感は強烈だ。龍と虎。よく並べられる双璧。まさしくその双璧がいま目の前で対峙する。

「橘。何の用や?どのツラ下げて。俺の目の前に出てきたんや?歯の一本くらい置いていく覚悟はあるんじゃろうなぁ!」

修羅となったらオーナーの鋭い拳が男の顎目掛けて飛んでいく。

男は避けない。あろう事か、拳を受け止めたのだ。 

そして涼しい顔でぼそっと語り出す。

「なぁ、ジャンケンあるじゃろ?俺負けたことないんよ。大体は殴ってくる奴がグーやろ?受ける俺はパーやからな。あとは捻れば勝率100%よ。でもまぁ、鈴衛には借りは返さんとなぁぁ!」

そう言って、空いている左の拳をオーナーに向けて放つ。ノーステップなのに重さのあるいいパンチ。普通の人が受けたとしたら、次は病院のベッドで目覚めるであろう一撃。それをオーナーは空いている手で受け止める。

「こんな、力の入ってない拳で、俺は殺せねぇよ」

この二人、異次元の人間だ。もう凡人には手の出せない争いを敵味方関係なく、ただ黙って行く末を見守る。

「これで、一勝一敗やな……」

「そうやな、あとは、あれしかないな」

「あれやな」

二人の顔の距離が縮まった。そして一気に離れる。

「「くたばれやぁ!」」

ある種のスタートの合図とも言える二人の叫びと共に

ごんっ!という鈍い音が部屋を満たす。頭と頭をのぶつかり合い。

俺たちは言葉を失う。互いの頭から血が流れ出るその死合に。

「お前、今更どのツラ下げて来たんや!」

「お前が娘を迎えに来いって言ったんじゃろうが!」

「普通に来いや!うちの店を下のもん使って荒らしてタダで済むと思っとるんか?」

「やから、それは謝っとるじゃろうが!金も払ったるわ!」

互いにぶつかり合った状態、肉体のぶつかり合いから次は舌戦へと移行する。

「ご両人、落ち着けや!その汚ねぇ血を収めろや!」

峰浦さんの魂のこもった怒号が響く。

「峰か……っ、分かったよ」

素直に腕を引き、適当に近くのお手拭きで血を拭うオーナー。そして、峰浦さんと旧知の仲のような橘の対照的な反応。

「ひさびさやな。峰。元気やったか?」

「えぇ、まぁ、あんたに大阪の稼ぎ場潰されて、大変な人生になりましまけどね」

「そりゃあ、お前が、ふざけたもん売ってたからやろうが。俺の信念はな、穴熊だ。向かってくる敵や餌を食い荒らす。やけどな、自分から餌を探しには行かない。テメェみたいに、一般人を餌に変えるやり方が気に食わなかっただけや」

「まぁ、感謝してますよ。お陰で真っ当に生きてますからね。それで?何しに来たんです?広島のナンバー2がこんな東京の辺境に一人で」

「ほぅ、ならよかったわ、ドブネズミが綺麗なネズミになったならな。そんで、来た理由か。一つは娘を迎えに来た。後の一つは……」

そこで、橘は言葉を切った。しばしの静寂。

「後の一つは、息子の……依月のツラが拝みたくなった。」

その一言で、冬の訪れを感じるこの街の雑居ビルの一室は凍りついた。

「え、今……なんて。じゃ、じゃあ私と、りんさんは……」

魂が抜けた様に、公演終わりのパペットのようにその場へ崩れ混む沙華を見て胸が痛む。

俺はその姿を見ても足を動かすことができなかった。

「沙華ちゃん。大丈夫?!」

「咲ちゃん、楓ちゃん、沙華を奥に頼む。奥に俺が使ってるソファーがある」

「分かりました!」

駆け寄った楓香さんと咲さんが糸の切れた沙華を抱えて、バックルームへと消えて行った後。俺の元へ頭の傷口をおしぼりで押さえた橘が向かってくる。

「ひさびさやな。大きくなったな。俺が知ってるお前は三千グラムも無かったのにな」

ぬけぬけとよくもこんな台詞を吐けるものだと呆れが湧いてくる。こいつは俺を、俺と母親を捨てたやつだ。殺してやりたい。広島の時の俺なら恐らく迷わず殺そうとしただろう。その後の俺がどんな業火に焼かれ、無間地獄に身を置くとしても。が、こいつは沙華の父親でもあるのだ。そして俺も大人になった。だから。

「初めまして、栗原依月と申します。今後とも当店を是非」

だから、俺は、精一杯の皮肉を込めて、テンプレートの挨拶とお辞儀を、何百回とコピぺしたように、父親にお見舞いした。

それをみた父親はふっと、邪気のない笑顔を浮かべる。額の血を抑える手と邪気のない笑顔。とてもアンバランスな滑稽な風景がここにはある。

「お前、母親似だよ」

その一言。二十五年ぶりの父子の再会は六〇秒で幕を閉じたのだった。


『後の一つは、息子の……依月のツラが拝みたくなった』

父親のその一言で私の恋は、終わった。突然の終わりだった。好きな漫画が突然打ち切られて、次回作にご期待くださいなんて言われるよりも突然の終わり。

私の好きな人は、私の知らない兄だった。ただそれだけの事。それだけの事なのに。涙があふれて止まらない。私が初めて好きになった人との恋は、世の中に認められない恋だから。自分を見失いかけて時だった。

「沙華ちゃん……LINKやってる?」

楓華さんの思いがけぬ一言。こんな時にそんな事なんてと思ってしまう。

「あ、昨日聞き忘れた。ナイス楓香!」

「でしょ?それで、やってる?」

結局、何故そんなことを聞くのか掴めないまま、押しの強い質問に素直に答えることにする。

「やってるんですけど……。私のスマホ、広島にあるから、一応、オーナーから困るからって、スマホ借りてますけど……」

私はオーナーから渡された型落ちしたスマートフォンを差し出した。

「だったら、ここにQRコード送るから、広島帰ったら、登録して」

そういって、わたしのスマホのいじりショートメールに一通の画像を送る。

「これ、帰ったら登録して。そしたら三人のグループ作るから。」

その一言に、どれだけ救われたのか分からない。

「だから、また帰っておいで」

私の恋のライバルだった人は、私の東京のお姉ちゃんでもあるのだった。

「そうだよ!また、待ってるね!」

「あぁ!抱きつくのやめてください!」

「あぁ、ずるい!私も!」

咲さんが抱きついてきたのも大変なのに、後ろから楓香さんまで抱きついてきたのだ。そして前後から頭を撫でられる。

「頑張れ。若者よ」

「だね。待ってるよ!ってか若者って……。楓香おばあちゃんみたいだね」

「は?!まだ、私二十代ですけど!」

こんなときにもいつも通りの二人。私のためにそうしてくれているのかも知れないけど。その暖かさが心地いい。だからこそ、ここまでよくしてくれる人達に改めて頭を下げる。

「ありがとうございます。必ず、こっちに帰ってきますから。その時は、またよろしくお願いします」

私は強い気持ちを眼光に乗せて。二人を見つめた。

「じゃあ、またね」

「元気でね」

「はいっ!」

互いに簡単な挨拶。どれだけ言葉を重ねるよりも気持ちの繋がった私達にはたった一言で充分。その一言で、わたしは数ヶ月の東京生活にピリオドを打ったのだった。

いろんな経験と、いろんな気持ちの変化が重なって、人間らしく慣れたこの経験に、感謝をこめて。

じゃあね、わたしの初恋。じゃあね、私の愛しの好きな人。私はまた戻ってくるから。そんな台詞を吐き捨てて、住みやすい止まり木から、住みにくい巣へと、渡り鳥は飛び立つのだ。

私はいつも通り、パチンと頬を叩く。いつものルーティン。

「咲さん、楓香さん。またね」


私はバックルームから一歩づつ歩みを進める。新たな決意を抱えて、夢から覚めて現実へ帰るのだ。と言っても、私の夢は父の口から放たれた一言で突如として泡沫に消えたけど、きっとそういう運命だったのだ。長く登った月は西へ沈み、東から私の夜は白んでいく。

「オーナー、りんさん、谷川さん、峰浦さん、今までお世話になりました……っ」

少し涙が溢れてくる。あぁ、私帰るんだって嫌でも思い知らされる。そのくらい、自分の口から別れの言葉を告げるのが辛い。また戻ってくるんだと言う決意ともしかしたらもう二度とここに来ることはないかも知れないという不安の瀬戸際の一本橋をふらつきながら歩く私の心は壊れそうだった。この数ヶ月、私は奇妙で、荒っぽくてたタバコ臭い、とても温かい世界に落ちた。けれど、そこから旅立つ時が来たのだ。

そうして、まだ夢を見ていたい私は月の魅力を忘れられぬままに、懐かしくも新しい世界へ飛び立つのだ。熱い気持ちをここへ残して。

「おい、これ、持ってけ」

「え……?」

「給料だよ。お前の。その中身はお前の金だ。酒飲むなり、服買うなり好きにしろ。まぁ、酒は飲まんよな……」

そういって、白い封筒を押しつけられた。

額はいくらかは分からないけれど、少し厚さを感じる。

「別に出稼ぎで来たわけじゃないのに……」

「いいからもらっとけ。お前の稼いだ金や。それで、早く帰れっ!じゃないと……」

その最後にまでぽんっとドアの外へ押し出される。

勢い余って、階段につんのめりそうになるのを踏ん張って振り返る。振り返るとそこには、締めきれられたドアしかなかった。初めて来た時は強烈なタバコの匂いとそれに負けないくらい個性のある面々があって、苦手だった。けど、そんなどうしようもない大人達が私は大好きになった。けど、ここはもうわたしの居場所じゃないから、私は少し厚い封筒を胸に抱いて階段を降りる。

「早くしろ、帰るぞ」

その声を合図に、私の夜は明けたのだ。

帰ろう。現実に。日が差す日中の世界に。


「じゃないと、何?何言いかけたんですか?」

「やかましいな!つついてくんな!」

「いやぁ、女々しいなぁって、いい歳して涙こられてるなんて、オーナーがそんな人なんて面白いな。って」

「老けるってのは、そんなもんだよ。楓ちゃんもそのうちわかる……、そういうそっちは平気そうやないか。寂しくないんか?」

オーナーにはきっと私が平気そうにおちょくってくるのが不思議なのだろう。

そんなことはない。私だって辛い。けど、多分一番辛いのは好きな人は好きになるべき人ではなくて。その上、自分の居場所すら自分で選べない事実を同時に背負うことになった沙華ちゃんだろうから。だから私はおちょくるのだ。瞳の淵が崩壊して涙が溢れて来ないようにふざけて悲しみを昇華する。

だから私は答える。前を向いて。

「そりゃ悲しいですよ。沙華ちゃん可愛いし。煙草の煙くさいこの店が華やかになるし。けど、また会える日まで、私達が、出来るのって賑やかにこの店でお酒飲む事くらいでしょ?」

「まぁ……そうだな」

わたしの言った事をどう受け取ったのかはわからないが、オーナーはカウンターの中をゴソゴソとあさり出した。

「じゃあ、これだな!」

そう言って出てきた物をみて、苦笑いを浮かべる咲以外の面々。このジジイ……記憶を消すつもりらしい。

「マスター、これなんですか?」

「こいつはな、アブサンだよ。いろんな偉人達を虜にして、幻覚を見せたり依存させたりして、この世から消して言った魔性の酒だよ。まぁ、今のアブサンではそんなことにはなんねぇだろうがな」

「え、そんなの、飲んでも大丈夫なんですか?」

少し不安げな咲の肩をポンと叩いた。

「諦めた方がいいよ。こうなっちゃ……」

「だなぁ〜、覚悟決めた方が良さそうだね」

「そうだね……」

先ほどまで、オーナー同様に突然の別れに腑抜けていた、案外脆い谷川さんと峰浦さんも同様の反応に、咲も察して諦めた様子だ。

「本当は、角砂糖に火をつけて溶かしながら飲んだり、水を混ぜたり、するんだが……。とりあえず飲むか、そのまま」

オーナーが手前のグラスを持ったのを合図を各々がグラスを手に持った。

(そうだ、写真……)

乾杯する前に私はスマホのカメラを起動した。

「それじゃあ、乾杯!」

「「「「乾杯!」」」」

このタイミングで何枚もの写真を撮っていく。

私の顔も含めて、アブサンの独特の味と匂いに顔をしかめている面白い瞬間が記録されていく。次はこの風景の中にあの子もいる事を願って。私達は今日も魔性の酒に酔うのだ。


広島に帰って三ヶ月。朝の電車のホームで、はぁ〜と白い息を吐く。私は結局、広島とお嬢様の箱庭という名の退屈な監獄で青春時代を浪費する。

今日も今日とて、その箱庭へ向かうため、 横川駅のホームに立つ。

「はぁ、寒い」

独り言。誰にも聞かれぬままに白い息と共に消える。

現在時刻を確認するために、起動したスマホには、十七の私にはおおよそ似合わない酔っ払い達が笑顔で写っていた。あの晩、楓香さんから送られてきたQRコードから登録すると、写真が一枚だけ送られてきた。皆それぞれ楽しそうにお酒を飲みながら集合して撮られた写真。懐かしい場所の残り香がそこにはあった。

『間もなく、列車が参ります。危ないですから黄色の線の内側まで、お下がり下さい』

やや新鮮さのあるメロディーと共に電車到着の合図音。東京程でないにしろ、それなりに混んでいる車内からゾロゾロと人が降りてくる。その中の一人、私服の女性の鞄からポトリと古びたケースのような物が落ちた。恐らくストラップが切れたパスケースだろう。本人は気づいてないようで、改札に向かう女性の背中がだんだんと小さくなる。私はパスケースを拾い、女性を追いかけた。

「あの!これ、落としましたよ?」

「ん?私?……あ、私の定期入れだ。ありがとう!」

「いえ……」

立川で出会った誰かを思わせる無邪気に笑う彼女にパスケースを手渡す。そんな時だった。

「あ、これ……」

彼女のパスケースの片隅に、プリクラが貼ってある。

そこには制服姿で写る少し垢抜けない女性、そしてもう一人はこのボサボサの髪と冷め切った目は、私のよく知る人の面影がある。

「ムカつく顔でしょ?私の元彼。本当は捨てようと思ったんやけどね……。これだけなんか捨てれんでさ。まだ、好きなのかもね……なんて。貴方はこんなかっこ悪いお姉さんみたいになったらだめやからね。好きならちゃんと相手を信頼して。そして、信頼されなよ。じゃないと、気難しい人は特にすぐ飛んで行こうとするからねっ!」

パスケースの中の彼をデコピンする女性の顔は少し懐かしそうに、どこかほろ苦い表情をしていた。

「じゃ、私仕事あるから。拾ってくれてありがと!」

そう言って駆けていく女性を見送る。

りんさん、あんまり変わってなかったな……。先ほどの写真と今の姿を比べようと、スマホの画面を覗く。

「気難しいって、言われてましたよ。私も、そう思いますけど……」

再び聞こえる電車到着音にかき消されるように呟いて、ぺしっと画面内の誰かさんをデコピンする。僅かな指先の痛みが、静かに残るだけだった。


「ほんとに志望校は立橋大するの?」

「……まぁ。そうですね」

「貴方なら京都や大阪。ううん頑張れば旧帝大はどこでも行けるのに……」

夏の暑さに、この街特有の瀬戸内からの湿った海風が合わさった蒸し暑い日々が続く頃。

私は高校三年の夏。受験生として日々勉強していた。今日は進路面談の日。冷房が僅かに効いている教室で相変わらず、先生から志望校を考え直せと言われている最中。別に人の進路なんかそこまで口出しするなと思うのだが、これも教師の仕事であると考えると、仕方ないのかもしれない。と思いなおして話を聞くフリをする。

「何かここじゃなきゃ。って言う理由でもあるの?」

「別にないですけど……」

嘘だ。本当はあの街の隣駅だから。それだけではこの教師を納得させるのは無理だろう。

「だったら、もうちょっとちゃんと!」

「考えてます!考えてますよ……。だからもういいですか?」

話はそれっきりだった。それ以降。教師から何も言われることはなかった。

「それじゃあ、失礼します」

退屈な私の進路より、先生の昇進という実績のためにも思える押し付けがましい進路相談が終わり、一人、温い空気に満ちた廊下を歩く。

「別に。私の進路くらい好きにさせろっての……」

なんて悪態をついている時だった。

「沙華ちゃん!……なんか大変そうやね」

「あ、菜乃加か……うーん、そうなんよ、進路くらい私の好きにさせろっての!」

「なんか、荒ぶってるね、けどまぁそれだけ期待されてる証拠じゃないの?私と違って頭いいんだしさ〜。羨ましい限りよ。私からしたら」

私の数少ない友達、大崎菜乃加(おおさき なのか)。私の中等部の時からの友達で、私とは違って明るくてうるさくて、よく振り回されていても、周りを威嚇するかのようなこの髪を『うーん、いいんじゃない?似合ってるし。可愛いよ?』なんて軽く言ってくれた子。身体は小さくても器量のある台風みたいな女の子。この子が居なかったら、私は本当に一人だっただろう。

「菜乃加だって、薬学部志望でしょ?しかも国立」

「まぁ〜、私はね。元々やもん。そういう沙華は広島か関西か福岡だと思っとったのに。なんで、立橋大?東京行くにしては大分郊外やんね……。なんか、やりたいことできたん?入院してる間に。」

「まぁね、見たい景色があるんだ。それだけ」

「ふーん、まぁ、良かったよ。こんだけ頭いいんやもん。地元の国立とか勿体ないやん。教師になりたいんなら別やけどさ〜」

菜乃加はそれっきり、言葉をつぐんで私の横を歩いている。別に気まずくは無いけど、なんとなく居心地が悪いと思っているそんな時だった。

いきなり、後ろ襟を引っ張られる。そして何か冷たい感覚がつぅーっと背中を伝う感覚に襲われる。

「ひぅっ!ちょっと!何やったん!」

私は苛立ちながら後ろを振り向くと、けらけらと笑いながら菜乃加とハイタッチするもう一人の友人、大朝瀬奈(おおあさ せな)の姿があったのだ。

「大成功〜っ、ひぅっ!?だってさ、可愛かったね!沙華ちゃん!」

「ダメだね沙華。後ろガラ空きだよ?氷入れられて色っぽい声だしちゃってさ〜。可愛いかったよ」

菜乃加が黙っていたのはこういう事だったのか。瀬奈はどこから氷なんか持ってきたのか気にはなるけど、そんなことより今は、苛立ちのほうが大きい。その苛立ちが顔に出てたのだろうか。私をおもちゃにして笑う二人の顔が徐々に引いていく。

「あ〜、これはあれだね。沙華怒っとるわ……」

「そうやんね……とりあえず、逃げる?」

そんな逃げようと、その場で相談する二人の肩に手を掛けた。そして、不快感の振り切れた顔で怒りを露わにする

「逃すわけないやろ……絶対っ許さんもん!」

「いや、ごめんごめんっ!謝るから!」

「そうそう、ごめんってば!……でも、なんか戻ってきてから沙華明るくなったよね」

「あ〜、たしかに、前みたいに冷たい沙華ちゃんもカッコ良かったけど、今の方がいいよね。感情豊かで可愛いし!」

「……そうかもね、たしかに明るくなったかも」

そう、もし私が感情豊かになったとするならば、あのお店で全てが新鮮な体験の日々を過ごせたからだろう。もうすぐ一年前になるというのに、未だに鮮明に覚えている記憶。煙草の煙の匂い。そして、あの時抱いた気持ち。その全てが今の私の原動力。

「ひゃぅっ!」

「ひゃぅっ!やって!やっぱり沙華ってば可愛いわ」

「可愛かったよ!」

再び私の背中に氷を入れた二人は、そそくさと廊下を駆けながら私をおちょくるのだ。

「もう!絶対許さんけぇね!」

その後ろ姿を追いかける私の姿が床に反射する。少しの笑みと多くの怒りを持って野兎を捕らえる狼の様に駆ける。いつか、この先に、あの店へ繋がる道があると信じて。私は最後の青春を瀬戸の海風に背中を押させれる様に走り抜けようとしていた。


「それじゃあ、行ってきます。」

2月23日午後四時。私は横川駅のホームで、岩国・宮島方面の電車を待つ。一昨年の秋、一六歳の初秋、逃げる様に東京へ発った時とは違い。コートとマフラーを纏い小さなキャリーバッグという、ちゃんとして装いを纏って、その時を待つ。やがて、馴染み深いアナウンスが流れて、電車が来る。

私は少し緊張し、先に推薦で関西への進学を決めた瀬奈から貰ったお守りを握りしめ、今から緊張しても仕方ないのにと、自嘲して電車に飛び乗るのだった。


『間もなく岩国、岩国です。お出口は右側です。この電車は折り返し、普通 白市行きとなります』

初めて、降り立った駅のホームで、はぁーっと白い息を吐く。ホームの階段を上り改札を出て、空港行きのバス乗り場をきょろきょろと探す。

「そこの可愛いお嬢さん、何かお困り?」

不意に女性の声が聞こえて来る。驚いた様に振り返るとそこには、去年の今頃、冷たい朝にホームで出会った女性。りんさんの思い出の人が立っていた。

「貴方は……」

「何?忘れちゃったの?」

「いや、覚えてます!依月さんの……」

「もう、違うよ!私から捨てたの、あんな誰も信じないような不届き者は!……まぁ、いいけどね。それより、何してるの?」

なんて、強気に言い放つ中に、少し後悔の色を感じる。それは多分自分を責める感情。何があったのかは聞くのは憚られた。

「おーい。聞いてる?何してるの?って」

「……あー、はいっ!ごめんなさいっ!空港へのバスを探してて……」

そういうと、彼女は少し考えて、私の目を見る。

「な、なんですか?」

「私が送ってあげるよ。フライト何時?まぁ、いいや!ちょっと車回すから待ってて!」

「いや、あの、最終の便で……」

そこには、もう彼女の姿は無かった。なんか想像していた人とは全然違う。もっと落ち着いた人なのかと思っていた。なんて失礼なことを考えていると、私の前にライトを灯したコンパクトカーが止まった。そして、助手席側の窓が開き中から声を掛けられる。

「乗って!あ、荷物は後ろの席に乗せて!」

「あ、じゃあ、失礼します……」

私は言われた通り荷物を後ろに乗せ、助手席にお行儀良く座り、シートベルトを締める。

「よし、それじゃあ、行こうか!空港でいいんだよね?」

「あ、はい!……ありがとうございます」

「いいって、別に、前に助けてもらったでしょ?だから、おあいこって事で!ところで、名前は?」

車をロータリーから出して、一般道路に出ながら巧みに何やらレバーを動かして車を動かす彼女にそう聞かれる。

「橘沙華です。よろしくお願いします」

「ははっ、沙華ちゃんか。私は白濱知佳。よろしくね。で、東京には旅行って訳じゃないよね?」

お互いの簡単な自己紹介と共に矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

「受験です、私東京の大学受けるんです」

「へぇ、どこ?」

「立橋大学です」

「え、めっちゃ名門じゃん!沙華ちゃん頭いいんだね!」

知佳さんが驚いた際、それに釣られて車体も大きく左右に揺れた。なんだか、少し不安になる運転だと思って苦笑いをしてしまう。

「ちょっと、ちゃんと運転してください!」

「いやぁ、ごめんごめん。そっか……まぁ、前見た時の制服はお嬢様!って感じで、私とは住んでる世界違う!みたいな感じだったもん」

「いや、そんなことは……」

私がお嬢様と言われた時を否定しようとした時だった。

「で、なんでそんな子があの時私の定期の写真みて、反応したの?多分私じゃなくて、依月、ううん、栗原くんの方だよね」

あえて依月ではなく、苗字で呼ぶ知佳さんの心情を少し触れてしまった。多分決別だ。けど、少しばかり恋の病巣が残った状態。先ほど感じた後悔の念は多分、そういうことだと思う。そんな人に、しかもわざわざ車で送ってくれるような人にこのまま黙り込みを決めるのもよくない。そう決心した。

「私会ったことあるんです」

私は静かに語る。二年前の秋。ハリボテの絆の家にいる事が耐えられなくて、母の面影を求めて家出同然に立川という街へ行ったこと。そして、そこで冷めたバーテンダーをはじめとして、強烈な面々と出会ったこと。そして、好きになったこと。そしたら、先に歳上の女性から、好かれていたこと。告白して振られた事。そして、突然の別れがあった事。だから、もう一度あの街に戻りたいという事。その全てを淡々と語る。

知佳さんはその話をただ無言で聞いていた。どう思っているのかはわからない。ただひたすらにレバーを操作して、いつしか空港への一本道を車が走っている。

それはもうすぐ、この不思議な時間が終わる事を示していた。

「まぁね、あいつ冷めてるよね。私も多分、心をから信じられてなかったと思うし」

不意に、知佳さんは口を開く。その口調はどこか寂しそうで、自分を責めているようだった。

「え、でも、オーナーに『前の女の事が忘れられないんだろ!』って言われたときの依月さんも今の知佳さんみたいな顔してましたよ。多分、りんさんも同じような後悔があるんじゃないですか」

「どうだかね、けど今更そんな事言われてもムカつくだけよ。ほんまに。まぁ、私も人のこと言えんけどね……」

どこか、自嘲の感情を抱く笑みを浮かべる知佳さんはそれっきり口を閉ざした。

やがて、車は空港のロータリーへと近づいて、徐々にギアを下げて停車した。

「ありがとうございました!」

荷物を下ろし、運転席でドアに腕をかけている知佳さんに頭を下げる。

「まぁ、栗原くんのことも考えてるんだろうけど、まずは受験頑張ってね!沙華ちゃんの未来は明るいよ!あ、照らしてくれる人がいるのか!」

「居ません!」

一瞬の物憂げな雰囲気は何処へやら春一番に吹き飛ばされたように会ったときのテンションでからかわれ、狼狽する私にをみて、快活に笑っていた。

本当に明るい笑顔が似合う人だと思う。私と違って。

「じゃ!まぁ、気をつけてね!」

「はい、ありがとうございました!」

再び私は頭を下げる。かつて、依月さんが愛した人が運転する車のテールライトが微かに見えるようになるまで、わたしは頭を下げるのだった。


沙華ちゃん、可愛かったなぁ……。

あんな子振るなんて、依月ってば、もしかして男に興味があるんじゃないだろうかと邪推してしまう。

「まぁ、私には関係ないか」

なんて呟いて、心の何処かで安心している自分がいる事に嫌気が差す。

窓を開け、煙草を蒸す自分が、フロントミラーに虚しく写る。煙草の匂いを纏う依月に影響されたのか。いい子のふりした私を辞めて、吸い始めたのは二十歳になったその日。初めは煙がキツくてよくむせていたけど、いつの日か、私の相棒になっていた。

「女でラッキーストライクなんか、……馬鹿みたい」

初めは依月と共有したくて吸ってたけど、もう、あいつには別の太陽があると思うと突然虚しくなってきた。

これは過去との決別。この煙草の火が消えた時。私は次の恋と向き合える気がするから。

次は、強がらないでちゃんと甘えよう。強がりたい男の子が甘えたくなるような人になろう。

「ま、それが出来たら苦労せんけどね」

なんてそんなこと言いながら運転する車は山の合間から覗くわずかな月に照らされながら、日の暮れた山間の国道二号線をひた走る。この先に新しい私の朝が来ること信じて。


まだ、肌寒い三月下旬、私は私は真新しいチェレステカラーのトレンチコートとまだ履き慣れていないショートブーツに着られ、陽が落ちて寒い空っ風が吹く横川駅のホームに立った。僅かな荷物が入った母の形見の小さなトランクケースを手に下げて、電車が来るのを待つ。

程なくして、馴染みのメロディーと共に、シルバーの下地に、ある意味、広島に最も馴染みのある赤色のラインが入った、まだ新しい車両が到着する。

ぞろぞろと降りてくる人の流れをかわして、電車に乗る。ボックス席の裏の出っ張りに腰掛けて、しばし揺られるのも束の間、新白島駅を越えて、乗り換え地である広島駅へ到着する。

到着したプラットホームから自由通路を抜け、新幹線口の改札前で人を待つ。

「沙華ちゃん!ごめんごめん!授業長引いちゃってさ!」

「遅いんやけど菜乃花!私、向こう着くの一時とかなんやけど」

恐らくもう広島で会うことはないだろう広島の友達との最後の時間。遅れてきた親友に少し口を尖らせ、不満をぶつける。

「ごめんって!あ、瀬奈がお互い頑張ろって伝えてってさ!」

「あー、知っとる。さっきLINKでメッセージ飛んでたもん」

冷めた態度でそう伝えると、どこか不服そうに顔を膨らませ、上目遣いで睨んでくる親友。

「なにそれ!ええよね!二人は!私なんか今年も受験やん!……はぁ、頑張ろ」

「頑張って!先に大学生になって、待ってるから」

「うん……今度は東京か名古屋で会おうね!」

「え、志望校変えるの?」

「うん、変える。沙華ちゃんみたいにはなれんかもしれんけど、私も見たい景色探したいから!それなら、広島より都会に出た方がいいと思って」

そういう、私を親友と呼んでくれる女の子の目には涙が浮かぶ。

「もう、泣かんでや、私もなんか寂しくなるやん!」

「泣いてない!悔しいだけ!だから、沙華ちゃんは早く行け!」

とんっと、背中を押されて私は改札前まで押し出される。振り返るとそこには、さっきまで立っていた涙を堪えた親友の姿はなかった。

ありがとう……。心の中で最大限の感謝を唱えて、新たなスタートのゲートに未来行きの切符を通したのだった。

車窓から見える、もう恐らく見ることのない広島の風景を目に焼き付けて、私は再び、あの街へ、夜の世界に向かうのだった。



「あの野郎、ちゃんと親みたいなことやっとるやんか……」

茶封筒から三つ折りにされた紙切れを取り出して、目を通すオーナーがそう呟いた。

「なんか、言ったか?クソジジイ……痛ってぇ!」

「そこまで老けとらんわ、あほんだら!」

「やからって、灰皿投げてくんなや。頭かち割れるやろうが!」

「お前みたいな頭の持ち主なら割れても誰も困らんやろ!」

なんて、いつも通りの光景をみて笑う常連さん達がいる『Barクレリューナ』で今日も今日とてカウンターに立つ。

「まぁ、ええわ、りんお前休憩に煙草でも吸ってこい。多分そろそろだろ」

深夜三時の店内で、オーナーの言葉に同調し、なにやらニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる楓香さん。二人して良からぬことを企んでいるのだろうか。でも貰えるものはもらうとする。

「じゃあ、ちょっと外すわ」

「おう、行ってこいや」

「ごゆっくり〜」

と二人に見送られ、バックルームの非常階段から下に降り、いつも通り、薄暗い路地で燻るタバコの煙を吸う。

「今日はええ月やな」

誰にも聞かれぬままに、言葉だけが春の風に消えてゆく。

二年前の秋口、風もまだ暖かさの残った満月の夜に出会った少女。緋色の髪をたなびかせ、冷めた目をした不思議な少女。大人びた雰囲気に綺麗な顔付き。おおよそ、どこかの夜の店の客引きかと思うアンバランスな制服を着た出で立ち。名は沙華。蓋を開ければ、年相応の未熟で、素直で、けれど大人びたそんな女の子だった。そして、突然の別れ。あの日ばかりは酒に溺れ、おぼろげにも記憶はない。夢であればよかったのにと願ったが、現実は残酷だった。

「なんか、懐かしいな」

そう、呟き、煙草を吸う。すると背中にトンっという小さな衝撃の後、僅かな暖かさを感じる。

「何が懐かしいんですか?りんさん?」

その衝撃の発生元が静かに言葉を発する。

俺は振り向かず、最後に残った煙草を一吸いする。

「いや?なんでもない。……おかえり」

二人の再会を祝うように、夜空の月は狭い路地の正面で、俺たちを照らしている。

俺の影に隠れる、芯の強い女の子の暖かさがそこにはあった


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