三章 月に焦がれる彼岸花

 日が暮れて日曜日の始まり。相変わらず、りんさんとの競馬話に花を咲かせる酔っ払い達のメッカに相応しい賑わいを見せる店内。昨日と同じく、激流のようなオーダーに、私は必死に食らいつく。

「沙華、ホワイトホース、ダブル、ソーダ!」

「沙華!そっちは俺がやる、新規のお通しと、オーダーとってこい!……りん。ほらよ、ホワイトホース!」

「っ、分かりました!」

相変わらず見事な二人のコンビプレーに圧倒されながらもなんとか耐える。昨日のような涙は流さないと、胸に誓って、わたしはオーナーの仕込んだお通しと、少し肌寒くなった今に程よい温度のおしぼりを手にご新規さんの元へ走る。

「お待たせしましっ……」

少し焦ったせいか足元のビール樽に躓いた。ゆっくりと目線からお客さんの顔が切れて、カウンター上も次第に見えなくなってゆく。ふわりと手に持った磁器とおしぼりが宙に浮く。後悔する間もないままに、カシャンっ!と手に持った磁器の入れ物が割れて、激しく音を立てると同時に私は床と激しく衝突する。

「いっ……っ」

甲高い磁器の割れた音に反比例して、お店は一瞬の静寂に包まれる。

私は頭に乗っかったおしぼりに気づかず、樽と衝突した小指が痛いと神経を通して信号を送るのを無視して、すぐに立ち上がろうとする。が、体が上手く起き上がらない。動けっ!とわたしは自らの身体に強く念じる。

昨日この二人に並び立つくらい一人前のバーテンダーになると月の下で誓ったのに。私は、やっぱりダメなのか。まだ、何枚も越えるべき壁があるのか。それを思い知らされたのを認めたくなくて、わたしは瞳に涙を波打たせる。

「おいっ、沙華!大丈夫か?」

「大丈夫ですから!」

伸びてきたりんさんの手を私を振り払う、声が僅かに上擦るのを必死に隠しながら。取り繕う。強がる私をどう思ったのか、オーナーは険しい表情を浮かべる。いつも通りに煙草に火を付けて、私を鋭く射殺すような目線を刺す。

「沙華、お前もう帰れ。邪魔や」

非情な最後通牒。私は押し黙る。ただ黙って床に飛び散った磁器の破片をピントの合わない視界でぼぅーっと見る。

「聞こえなかったのか?帰れや」

非情な宣告に私は、どこか夢見心地で、飛び散った破片に手を伸ばす。

「おい、触るなっ!」

りんさんの通告も無視して、破片を触った右手の人差し指からつぅーっと一筋の血い涙が滴り落ちる、これが夢ではなく現実であると私に知らしめるように。


「じいさん、なんやあれ。言い過ぎやろ!」

沙華がふらふらとバックルームへ消えた後、先ほどの狂乱怒涛の熱気が引き、お通夜のような雰囲気の店内に俺の怒号が響き渡った。

「やかましい!あれは沙華が悪い。仮にも一人前になったなら、あれくらいの事はやってもらわんと困る。それに……あいつ自身が力が入りすぎてた事すら気付いてない」

確かに昨日、あいつは見習いから一人前になった。認められたのだ。だが、一日でそつなくこなせるような技術と立ち回りが突然身につけれる訳がない。

「言ってろ!」

俺は箒で破片を集めて処理をする。昔はよく自分の尻拭いをやっていたおかげで処理は早い。そそくさと破片を集めて、俺は煙草を胸ポケットに忍ばせ、バックルームへ沙華を慰めに足を向ける。

「どこ行くんや?まだお前のメインの時間やぞ?」

「そんな事より大事な事ができた」

「くだんねぇ慰めでも言って、あいつをさらに傷つけることか?追い討ちやぞ。お前のやりたいことはよ」

「あ?てめぇが突然あんなこと言った尻拭いをしてやるっつってんだろうが!沙華やってな必死やったやろうが、てめぇの目は節穴か?」

さっきから、適当なこと言っていちいち俺の怒りのツボを刺激するこのじいさん。思わず熱くなって、俺の手がじじいの首元へ伸びる。

じいさんは俺の動きを見切ったかのように、寸前でひょろりと交わし、近くにあったグラスの中身をふっかける。

「頭は冷えたか?俺のハイボールなかなかいい味だろ」

突然、キンキンに冷えたハイボールをふっかけられて、飛沫が髪の毛から滴り落ちる。

一瞬、何されたのか分からなかった。過度な熱が抜け、ふつふつと、静かな怒りのみが残る。見てろよ。このジジイ。と反撃の流れを待つ。誘いをかけるために、改めてバックルームへと足を向ける。というフリをする。

「おい、りん。まだ俺の話は……っ」

自分の事を無視されて、その上、まだ沙華を探しに行こうとすると思い込んでいるじいさんは、俺の肩を掴み万力のような握力と、レッカー車のような牽引力で俺の体を振り向かせようとする。その瞬間、近くにあったグラスを手にとり、身体を反転させられた勢いでグラスの中身をじいさんにぶちまけた。不意を突かれたじいさんはまんまと引っかかり、俺と同じく、少し白髪混じりのセットされた髪の毛からハイボールがぽたっと滴り落ちる。

「さっきの台詞、そのまま返すわ。頭、冷えたか?クソジジイ」

「やりやがったな、クソガキが……。まぁ、好きにせえ。それが沙華の為になんねぇって分かっててもな」

「そうさせてもらうわ」

お互いにハイボールのシャワーによって見かけ上は鎮火した二人は、それぞれ背を向ける。俺は髪の毛を拭くのも後回しにして、すぐさまバックルームを覗き込む。しかしそこには、緋色の髪を湛える少女の姿は無かった。すぐさま、裏の非常口から階段に出て、屋上へ向かう。今回も、屋上にいるはずだと、ある種の反射行動のようにそう思い、錆びた階段をギシギシと軋ませながら駆け上がる。

煙草の煙にやられた肺をぜぃぜい言わせながら月に照らされた屋上へ至る。両手を両膝につけ、息を整わせながら顔を上げる。月に照らされ、オレンジ味がかった髪が秋の風にたなびく姿を想像しながら。しかし、そこにはなんの姿もなかった。風の中に彼女の痕跡は無かった。ただ、塗装の剥げかけた、煤けたタイルの床のみが照らされていた。


「申し訳ない!うちのゴタゴタで、今日潰してしまった」

開口一番頭を下げるとともに、少し埃の被ったボトルを取り出した。

「いや、いいんですよ。俺らがいつもバカ騒ぎできるのはこの店のおかげなんですから、身分も年齢も関係なく、ただひたすらに馬の話を出来るここが、俺は好きなんだ。多分みんな同じだと思いますよ」

そう語った客の一人がみんなを見回すと、呼応したかのように皆首を縦に振る。あの野郎だいぶ愛されているようだ。師匠としては悔しいが、やつの成長した証なのだろう。

「それに、その酒は少なくとも俺には勿体ない。あのお兄さんと身内で飲むのがいい」

「しかし……」

「もし、明日お兄さんの予想通りの馬券買って勝ったら、その酒飲みに来るよ。そうじゃないなら、みんなで飲んだらいい」

俺が詫びに出そうとするのをなだめる客をみて、他の客も財布を取り出し、お会計の準備を始めた。

「俺の会計いくらだ?」

「えっと……、4981円です」

「よっしゃ、今日は一人5000円みたいや!」

すぐさま一番金額が高いと予想される客が周りの人達にそう告げると、皆一様に財布から、五千円札1枚や、千円札5枚、千円札を4枚に500円玉2枚など、様々な形で五千円を取り出し、机に置いて、「ごちそうさん、また来週」と言って店を出ていく。

呆気にとられて、お釣りすら返せず濡れた頭のまま立ち尽くす自分に、最後に席を立ったりんと同い年くらいの若いお兄ちゃんがドアを開きながら言う。

「あのお金で、どっか飲みに行って、仲直りしてください、僕たちは口にしないだけでみんな同じこと思ってますから」

ドアが閉まった時、下から賑やかな声を聞きながら煙草に火をつけた、少しハイボールで湿気た煙草は不味くて仕方ない。ただ一人、髪も拭かずに、シケモクの味を噛みしめる。

微かなウイスキーの匂いの混じる不味さだけが、やけに口に残るのだった。


指の血も止まった頃、私はあてもなく立川の街を彷徨い歩く。給料日後の賑わう街、酔っ払い達の挽歌も今の私には届かない。

『沙華、帰れ、邪魔や今のお前は』

オーナーの指を切った破片より鋭い一言。

私自身がそれを身に染みて分かっているからこそ、悔しくて仕方ない。私は何か間違っていたのだろうか、そもそも私が間違っていないとあのオーナーに切り裂かれるような手痛い指摘はされないだろうけど。

「あれ、沙華ちゃんだ」

「本当だ」

「何してるんだろ」

下ばかり見て歩く私の耳に届く、聞き慣れた可愛い声と野太い声、それにチャラついた声。私はすれ違ったその方へ振り返る。そこにはいつも通りの少しお酒にのぼせて頬を桃色に染めた三人組がいた。

「皆さん……」

自分のやるせなさと正解の見えない禅問答のような問いに疲れてたからか、私の頬につぅーっと一筋伝うものがある。初めは小川のような優しい流れが、声にならない声を伴ってやがて大河に変わる。

「沙華ちゃん?!」

「おい!なんだよ。どうしたよ!」

「俺またなんかした?!」

私は今どんな顔をしているのだろうか。皆さんの心配してくれる顔に私はいつも通り笑顔で応えることが出来ているだろうか。『大丈夫、なんでもないです』と言えただろうか。きっと言えてないんだろうな……。秋深まる立川の風に私の涙が乗っていく。

その涙を可愛い刺繍の施されたタオル地のハンカチでキャッチする。一人の女性。

「沙華ちゃん、泣きたい時くらい強がって笑うのは、私達、信頼されてないみたいだよ?」

「っく……ごめんなさいっ」

私の涙を拭って、私の手より少し小さい手でポンと頭を撫でてくれる。その優しさに、私は何を返せるのだろう。りんさんはなんでこんないい人になびかないのだろうと少し頭にちらついた。この余裕が私に足りない物なのかもしれない。涙と感情の波に身を任せて、少し肌寒い風にあおられる涙の塩味を感じながら、バーテンダー一日目の夜は更けていく。


「なるほどね、俺は沙華ちゃんよくやってると思うよ。あんなクソ偏屈な野郎しか居ない店で」

「僕も思うよ、クソ偏屈は言い過ぎだけど」

「そうそ、沙華ちゃん頑張ってるの、私達知ってるから」

常連の酒飲み三人組に連れられて、やってきた南の繁華街の一角のお店。色んなお酒のボトルがストックされた地下の席で、先程醜態を晒した常連さん達に慰められる。

「うーん、話聞いてると、沙華ちゃんは間違ってないと思うよ?ただ、力がないだけだよ。今はね」

「この世の問題が机の上だけで解決するんなら訳ないよ」

「確かに、私の永久就職先とかね!」

「「それ何処でも解決しないわ!」」

「っ……っ」

あまりに揃ったタイミングの否定に思わず、失笑してしまう。

「沙華ちゃん酷い!そこ笑うとかじゃないし」

「いや、笑うとこだろ」

「峰さん、今日もきついの飲みたいんですか?」

「いや、嘘だよ。悪かったって、沙華ちゃん笑ってくれてよかったじゃん。」

私の激情の波も引き、みんなそれぞれの日本酒を味わいながら話を聞いてくれていたはずであったのに、いつの間にか、楓香さんの身の上話の突っつき合いになっていた。私もりんさんと楓香さんの逢瀬の時に鉢合わせてから、ずっと気にかかっていた。この気持ちは多分、私よりも何倍も可愛くて、気高くて、小さな身体の中に広くて優しい心を持ったこの人に、りんさんを渡したくはないという強い気持ちを伴いながら、私は手元に置かれたグラスの中身に口を付けた。

「うっ……」

鼻から抜ける強いアルコール感に私は思わず顔をしかめた。一口目に飲むお酒にしては私には重いようだった。

「日本酒はまだ早いか!」

「この雨後の月は、特に酒らしい酒だからね、沙華ちゃんには早いか」

「私はなんでもいいけど」

まだまだ飲み慣れぬお酒に顔をしかめている私を尻目に、三人はグッと一息にグラスの中身を煽っていく。

「それで、みんなどうするの?このあと。行く?」

私にはまだ早い大人な味を、顔に似合わず堪能した大人な楓香さんは私達に問いかける。

「俺は行かんとならん。じいさんに用もあるしな」

「うーん、じゃあ僕も行こうかな。沙華ちゃんは?」

私はどんな顔をして戻ればいいのだろうか。店の営業中みんなに迷惑をかけてしまった上、そのまま彷徨っていた。今更普通のフリして戻るなんて虫が良すぎるし、普通に謝って欲しくてオーナーは私に指摘をしたわけじゃないことくらい若い私にでもわかる。そして、私は一時の荒波立った自身の感情に押し流されて飛び出してしまった。だからこそ、戻りにくいのだ。静かに重く返事に困っていると谷川さんからトンッと肩を叩かれる。

「別に、怒ってるわけじゃないと思うよ、それに……あの店のもう一人の若い子はさ、多分お店抜け出して探してるんじゃないかな。そういう子だよ。りんくん」

そうだった。私は忘れていた、あの店のもう一人の住人を。あの時私を拾ってくれた、誰にでも優しい、けれど人に興味のなさそうな私の恩人の事を。

「先お店行ってて下さい。私、探し物がありますから」

「うーん、じゃあ私達行っとくよ、待ってるから」

「お会計は気にしなくて大丈夫だからね。頑張れ若者よ」

「行ってきます!」

二人の声援?を背に受けて、私は夜の街に駆けていく。

今度は私から月を見つけにいくんだと。強く心に誓う。さっきまでの暗雲をかき消す明かりを求めて、私は街へ消えていく。


「はぁ〜、終わっちゃったなぁ」

「何言ってんの、今から夜の時間が始まるんじゃん」

私の心を知らずに、すでにアルコールの回った、決まりかけの谷川さんに絡まれる。

沙華ちゃんは、沙華ちゃんの恋の花は咲こうとしている。どこからともなく茎を伸ばし、柔らかな月光によって花開く天上の花、彼岸花のように。

「はぁ〜、そうですね!じゃあ、行きましょう!」

月はまだ天に登るまでには時間があるこの時間には珍しく、頬の熱さを感じる。わたしにはもう時間が残っていないのだろう。今夜、私にはもう一回切りの弾丸に賭けるしかない。強くそう思う。

「一発で仕留めてみせる。二の矢は要らないから……」


「あぁ、あの赤髪の子か、見てねぇよ。お前は?」

「見てねぇな。あんだけの子なら目立つんだけどな。可愛いし」

「すまん、ありがと!また、なんか奢るわ!」

「たけぇ酒で頼むわ」

「まぁ、考えとく!」

「なんかあったら教えるよ!」

街ゆく知り合いの客引き達にも聞いてみたがからっきし、沙華のあの少女の足跡も残り香すらも手元に引き寄せられない。

「くそっ!」

そんな自分にイラつきが止まらず、思わず近くにあった自動販売機を殴りつける。振り抜いた拳が近くの壁に当たって、薄皮が痛いほどむけて、血がポタリと滴り落ちる。初めて会ったあの日。偶然見つけた眩しいほど自分の信念のあるあの子。

俺にはないほどの強さ、そして、脆さ。あいつの光りに照らされて、俺は何か変われただろうか。それとも、ただあの眩しい緋色を纏う陽の光を、俺は、汚してしまっただけなのだろうか。

「はぁ……」

一人、息を吐き、胸ポケットに入った煙草を咥え、火をつける。最早、無意識にでもフリントを弾いて火をつける。煙草の火種を見つめる。地に落ちた強い光に想いを馳せながら。俺はこの煙草の火種より。強い光で、あの子を照らされているのだろうか。深い霧の中を指針なしで歩く旅人のように。俺は歩き慣れた立川の街で迷い歩く。こんなにも、あいつを見つけたいと思う日が来るなんて、あり得ないと思ってた。今はあの光が愛おしくて、焦がれて仕方がない。


「はっ、はっ……はぁっ」

私は駆ける。夜の立川の街を、無骨な男の人や異国の女性、最早性別なんぞ関係ないくらい泥酔した人で賑わう街を。一つのあの淡い光。そして底抜けに私に優しさと暖かさを教えてくれた淡い月光を。私は貴方に拾われ、お金も心の余裕も居場所もなかった一人ぼっちの私を、ただ、母親の幻影を追い求めた私にお金も居場所も心の余裕どころか、生きる目標までくれた。ただ、貴方が好き。お母さんにとって好きな月が強く光った父なら、私の月は、淡く、けれど強くこの街で愛されるりんさんだと今ならわかるから。今は暗雲に包まれているかもしれないけれど、一番優しい光を放っている事くらい私には分かる。

「あ、お姉ちゃん!ちょいちょい!」

「え?」

走っていた私を引き留める声。私は足のピッチを落とし立ち止まる。少し荒くなった息を整えながら振り返ると一人の少し長髪にふわりとパーマのかかった髪をガッチリ固めたおしゃれ髭のキャッチのお兄さんが立っていた。

「さっき、俺の知り合いのバーテンさんが探してたよ君のこと。すっごい焦ってて笑ったよ。早く戻ってやんな。あいつがあんなに慌てるとこみたの初めてだし」

「えっ……?」

「なんか、人でも殺してそうな必死な形相だったよ」

りんさんがそんなにも私を探すなんて。今日はりんさんがお店の顔の日なのに、それなのに私は、自分のイラつきから店を飛び出してぐちゃぐちゃにしてしまったのか。あれだけ賑わっているのもりんさんの努力の賜物なのに、それを私は壊してしまったのだろうか。最低だ。本当に最低だ。そう自らを責める。

「あんたまでりんちゃんと同じ顔して探してんのな。そんな顔するんなら、店戻ればいい。じゃねぇと、あそこまで必死になって君を見つけようとするあいつに失礼だろ」

名も知らぬキャッチのお兄さんからの思わぬ一撃、首元に刃物を突きつけられたかのような緊張感の中、さらにお兄さんは私に諭す。

「あいつが人にこんなに執着してるなんて、想像出来ないよ。君はあいつにとって特別なんだよ。多分」

イメージ通りだ。りんさんは多分他人にどころか自分にも興味がない。けど、そのりんさんが私を探してくれるなら、次は私がりんさんを探してみせる。

「奴なら、さっき、店の方歩いてった」

「ありがとうございます」

煙草を咥えたキャッチのお兄さんにお礼もそこそこに、わたしは店へ急ぐ。変わり際の信号も、路上駐車されたグレーのバンと黒塗りのセダンの間も、ルール無用の酔っ払いの乗った自転車さえもすり抜けて、そこにあの人が、あの淡い光があると信じて。脱兎のように夜をかける。

「はぁっ、はぁっ、はぁぁっ!」

息切れたままに、わたしは馴染み深くなってきた薄暗い路地の雑居ビル裏手の非常階段を駆け上がり、屋上へと駆け抜ける。そこにわたしの求めた光があることを信じて。そしてたどり着く。天上の月と地上の街頭に照らされて、僅かに明るい屋上に。目線を上げる。かつて私が月に手を伸ばしながら地に身を投げたあの迎えの雑居ビル。虚空を見つめ、吸った煙草の煙風を纏った優しい光に。わたしは叫ぶ、思う気持ちの全てを乗せて。

「りんさん!わたしは、りんさんが、依月さんが好き。……あの日から、私を救い上げてくれたあの日から。私の月はりんさんやからっ!」

私の気持ちは貴方に届いているのでしょうか。

あの時、初めてこの街で見つけた月。手を伸ばして届かなかった。まだ風に暖かさが含まれていたあの一晩の事。今度こそ、私の手は月に届いているといいな。

しばしの間、風が凪ぐ一瞬。りんさんは煙草の薫る先を見つめ、私に目を合わす事なく呟いた。

「まずは、見つかって良かった、心配したやろうが」

「ごめんなさい……」

「あの、さっ……」

「それと……さっきのは沙華、お前の気の迷いだ。お前は俺には釣り合わない」

私の応えを急かす私を遮っての、りんさんの冷たい一閃。

私は、私の手はまた届かなかった。

気の迷い。そうだったのかもしれない。そんな冷たい一言。

わたしの熱くなった熱を覚ます冷たい秋風が私とりんさんの合間を裂いていく。

ぽたりとわたしの手に雨粒が落ちてくる。自ら流した涙の粒。その暖かさだけが、現実の出来事だったと教えてくれていた。


『私の月はりんさんやから!』

そんな、そんなのねぇよ。俺はドブネズミだ。この夜の汚ねぇ街の片隅で生かされる街より汚れたドブネズミ。あいつの方がよっぽど、月、いや、太陽かもしれないのに。そんな光をここで濁らせたくない。ただ、それだけ。他意はない。けれど、深く傷つけたのは紛れもない事実だろう。沙華が今向かいの俺たちの店のあるビルで泣いていたとしても今の俺には慰める事はおろか、声をかける資格すらない。

そんな自分の呵責から逃げるように、街灯のない路地へ降りる。そして煙草の火をいつもの如く靴の裏でもみ消して近くの吸殻入れに放り込む。そしてもう一本、今度は無心で。いつもより少し重い足取りで細い急階段に足をかける。あのクソジジイ、怒ってんだろうなぁ。けれど、もし何度過去に立ち返ったとしても、俺は同じようにハイボールをふっかけて沙華を探しに行っていただろう。今更、何かを考えて青い顔をしたり、体を強張らせても仕方ない。そう割り切って階段の先のドアを開けた。

「すまん、今戻った」

極めて平然に努めて、帰ったことを知らせる。オーナーはこちらを一瞥したかと思えば、また目線を戻し、無反応。少なくとも怒っているわけではないようだ。虫の居所は悪いようだが。

「あれ、りんちゃん、沙華ちゃんと一緒じゃないんだ」

最近よく見る三人組の一人、楓香さんが、今少し触れたくないような話題を振ってきた。

「沙華ならさっき会いましたよ。屋上で」

屋上で、告白されました。などとは言えないけれど。

「そっか、なら良かった」

会ったことを聞いた楓香さんは安堵している様子であった。

「沙華ちゃん、すごい一瞬で走っていったからね。谷川さん、何吹き込んだんですか?」

「いや、ただ、りんちゃんなら君の事探してるんじゃない?逆でもそうするでしょ?って言っただけだよ」

どうやら今回の事の引鉄を引いたのは、少し頬と目を赤くした谷川さん達らしい。

隣の峰浦さんにニヤニヤと側から見て、とてもいい気分にはなれない表情で語っている。

お陰でこっちは、どれだけ気力を使ったか、わかったもんじゃねぇってのに。

「なぁ、りん」

とてつもなく重い声。けれど俺がこの世界に入って一番聴き馴染んだ少しムカつく声。ここまで口を閉ざしてきたジジイの声が俺を呼ぶ。

「なんだクソジジイ」

静かに虚空を見つめて、客前でも構わず煙草の煙を纏うジジイを俺は見る。

「俺と勝負せぇ。好きなカクテルを作ってここにいる三人に審査してもらう。負けた方は……」

わずかに言葉を溜める。そして煙草を一吸し、煙を含んだ深い息を吐き、言葉を繋げる。

「負けた方は、買った方の言うことを一つ聞く」

「おもしれぇ。俺がじいさんに勝ったら、沙華に言った一言の意味を聞く」

「ふんっ、そんなもんいくらでも言ったるわ。俺が負けたらのぅ」

こうして、酒に当てられた三人が黙りこくるほどの圧力の中、突然の二人の戦いが始まるのだった。


『気の迷いだ、お前と俺は釣り合わない』

私の燻った火種がよく乾いた薪に移り、パチパチと静かにしかし強く燃え上がる恋の炎となって、あの人に届くほどの煙を上げているはずだった。なのに突然のバケツをひっくり返すどころか、消火ホースから強力な水流で火種ごと押し流されたような気分だ。結局あの人は私の事など眼中にそもそもないのだろう。私の事を拾ったのも、きっと、あの人にとっては、雨に濡れる捨て犬や捨て猫を拾うのと同じような事なのだろう。そう思うと心のガス栓がふっと閉まった。

「なにやってるんやろ、わたし……」

ひとしきり泣いたし、感情の昂りでわからなかったが、もうこの街の夜風は冷たい。瀬戸内海から吹き込んでくる湿気の含んだ柔らかな風と違って、乾いて、少し冷たい。

「はぁ……戻ろ」

先程の出来事で自分がなぜ外に居るのかさえあやふやなまま、わたしはギシギシの音のする錆びついた非常階段を降りる。少し納得がいかない。この色素の薄い髪の毛、光を通すと緋色に見えるこの髪の毛の事を特異に扱われる事は多かったけれど、わたしは顔で落とされるほど不細工な顔ではない。と思う……。

けど顔ではなく、私の内面に足りないものがあって、それで断られたのだとしたら、そのほうが傷つく。それはつまり、私が本当の意味で魅力が無いということの表れだから。

自らの内面を覗き込んで、先程振られた事を考えていると、眼前に錆び付いたバックヤードへ繋がる扉が現れる。私は今抱える自分の気持ちを押し込めて、扉を引いた。こればっかりは頭で考えても答えは出ないだろうし。こそこそとバックルームから店内の様子を窺い見ると、いつもとは違う、張り詰めた雰囲気のバーテンダー二人。オーナーとりんさんが何やら話をしている。

「負けた方は、勝った方の言うことを一つ聞く」

「おもしれぇ。俺がじいさんに勝ったら、沙華を傷つけた一言の意味を聞く」

どうやら何か勝負事を始めるようだ。どうしてこうなったのかは私には分からない、けれど、この普段は笑いに満ちたこの空間が、今は口を開くのも憚れるほど重たく張り詰めた静かな空気に満ちている事で、この勝負が戯れあいなどではなく、何かを賭けた決闘に近いものであることは私にも伝わってくる。

普段は酔っ払いの仲間Aにしか見えない事ばかりのオーナーも、何にも興味なさそうな優しい雰囲気を纏った、りんさんもピリピリと痺れる空気を纏っているように見えるほど、鋭くギラついた眼で視線の刃を交わしている。

私はある種結界のような雰囲気のある空気によって、店内に入ることを躊躇われて、バックルームのビール樽に腰掛けて、勝負の行方へ耳を傾けるのだった。

「頑張れ、りんさん……」

店内の薄暗い照明の明かりが差し込むバックルームの片隅で私はそう願うのだ。


「順番はりんが選べ。俺は後でも先でもどっちでもいい」

「じゃあ、後でいい。お先にどうぞ」

いつも愛煙する煙草に火をつけた俺と対照的に、ジジイは手元の灰皿でまだ半分ほど残った煙草をもみ消した。

「そんじゃ、俺からいく」

それから、数十秒の沈黙。

小さく息を吐くオーナー。戸棚から琥珀の液体が入ったボトルをまずカウンターに置いた。

「俺が作るのは……」

「サイドカー。やろ?じいさん。あんたの名刺代わりの一杯やからな。」

「けっ、黙って見とれや」

肝心な台詞を俺に横からかっさらわれ、憮然とした表情でこちらを一瞥する。そこからシェイカーに氷を入れ、メインのブランデーと数種のリキュールと果汁を入れ、僅かな静止の後にシェイクを始める。初速をつけて二段モーションで加速し、一段モーションでスピードに乗る。中の氷のカラカラっという透明な音色を伴って、最後はゆったりと減速。そしてグラスへ少し白く濁り、薄泡の立った琥珀色の液体がショートグラスに注がれる。何度も見たこの光景。無駄のない、塞き止めるものない川の流れの様に、流麗な動きに呑まれてしまいそうになる。

「完成だ」

「じゃあ、私から」

楓香さんは出来上がったばかりのサイドカーに口をつける。

続けて、峰浦さん、谷川さんが、最後に俺が飲む。

「どうだ?うめぇやろ?」

最後に飲んだと言うのにまだ薄泡が残っている。下手な人が振ると、泡が立たなかったり、きめの粗いすぐ消える泡であったりするのだが、それがない。味も雑味が一切ない無駄のない味。磨き抜かれた技によるものだろう。ムカつくが、このじいさんの腕は一流なのだ。

「けっ、相変わらず美味いな」

「オーナー、これ美味しいですよ!」

皆一様に、感想を言うのを見たオーナーが俺に意地汚い笑みを浮かべて言う。

「最初にお前がやっときゃ良かったものを、お前は後でええなんてな」

「まぁ、じいさんくらいの壁越えんとしゃあないやろ」

「言ってろ、阿呆が」

最大限の啖呵を切ってみたものの、逆転の策があるわけではない。ただ愚直に技術を出すだけである。根元近くまで吸ったタバコを灰皿でもみ消して、一呼吸。

「俺が作るのは……」

「瀬戸の宵月、オリジナルだろ?お前が普段絶対出さない例のやつだろ」

「さっきの仕返しか?ガキか、じいさん」

「言ってろ、はよ作らんかい」

言われる言葉も半分無視して、戸棚の奥から数種のリキュールを取り出す。ライチ、ピーチ、ライム、そしてレモンとブルーキュラソー。

それを自身の舌を頼りに何度も試作をしたレシピ通りにシェイカーに注いでいく。

そして、シェイカーを締め、上蓋を拳でひと叩き。そして胸前にポジションを取る。

短く息を吐き、ゆっくり振り始める。ゆったりと加速し、ゆったり減速と言った様な柔らかなシェイク。そして振り切ったシェイカーの中身をショートグラスに注ぐ、そして、ステアスプーンをグラスに入れ、ゆっくりとブルーキュラソーを伝わせながら注ぐ、すると

青い部分だけがきれいにそこに溜まりグラデーションが生まれる。最後に三日月を模したレモンを添えて、完成。

「完成だ」

俺の一言に先程同様みんなの視線が集まる。

「綺麗……」

「あぁ、これがりんちゃんのオリジナル」

「スタンダードなオーナーに対抗して、りんくんはオリジナルか。見栄えだけならりんちゃんの勝ちだね」

「んなぁこたぁ、分かっとる。こいつの器用さと勝負しようとは思わん。問題は味だ。」

オーナーはショートグラスを手に取り、傾けて味見する。続けて楓香さん達も口をつける。

「美味しいよ、私は好きだよ。これ」

楓香さんの素直な賛辞に張り詰めた緊張が解けていく。

「腕を上げたな。りん」

「なんだよ、じいさんまで」

予想外の方面から褒められて、少し背筋にむず痒さを感じてしまう。

「だけどな、俺の勝ちだ」

唐突な勝利宣言に思わず面食らってしまう。同時に苛立ちも覚える。

「まだ、わかんねぇやろ!」

「分かるんだよ。そんなこともわかんねぇんなら、お前はまだ二流や」

「そんなん、わからんやろうが!」

「分かるんだよ、あほんだら!現実見ろ!」

カウンター越しに座る三人に目を向けるオーナー。俺も目線が釣られる。すると一様に俺から目を晒す三人。先程とは違う意味で重苦しくなった店内で峰浦さんが口火を切る。

「りんちゃんの瀬戸の宵月も美味かった。あんな繊細な味、多分他の人には真似できない。……けどね、オーナーみたいな強さを感じない。なんというか、味がぼやけてるんだよね。何かに迷ってるみたいな、霧の味みたいな。……多分みんなも同じだと思う」

「同じだね、りんちゃんのオリジナル、抜群に美味しいんだけどね」

「私もそうだね……。こればっかりはオーナーの勝ちだね」

三人の判定を受けて、静かに拳を握り目線を失せる。俺の完敗である。

「お前はな、バーテンダーとしての信念がねぇんだ。芯が弱い。空っぽの物置とおんなじだ。物置なのに置くものがない。そんなもんだ。それが味に出る、特にお前みたいに非凡な味覚に頼って繊細なカクテルを出すやつは特にな。……約束だ、敗者は勝者の言うことを一つ飲む。覚えとるな?」

「……あぁ、分かっとるわ」

俺は悔しくて唇が切れそうなほどに唇を噛む。

「峰、あれ出せや!」

「はいはい、これでしょ?」

「ありがとよ。峰。後で金払う。……りん、中には新幹線のチケットが入ってる。そこに行ってお前のルーツと向き合ったこい」

「はいこれ、ゆっくりしといでよ」

峰浦さんから封筒を受け取って。無造作に胸ポケットに突っ込み、皆に背を向けて、足をバックルームに向ける。

「あぁ、分かった……。少し、煙草吸ってくるわ」

「ちょっと待てや」

燃え尽きて、無気力にふらついている足取りの俺を止める威厳のある声。

「まだ、なんかあんのか?」

「お前に用はねぇよ。沙華!出てこいよ。ちょっと飲み比べてみろ」

音はない。数秒の後ガタガタと音がして、現れる。緋色の髪が照明に照らされて、黄金色にも見える髪の毛を纏って少し、気恥ずかしそうに現れる。

そしてすれ違う。揺蕩う髪の隙間から、髪より赤く熟れた目元が顔を出した。俺がやったことだ。だからこそ大丈夫なんて軽々しい口はたたけない。俺が彼女を泣かせてしまった本人なのだから。それに先の勝負で負けた所を見られたとは言え、落ち込んでいる所までは見られたくはなかった。最後のちっぽけで薄汚れたプライドを守るために。

「沙華、ばか!飲みすぎだ!、両方そんな一気に飲む奴があるか!」

オーナーが珍しく慌てる声を聞いて振り返ると、二つのグラスを空にした沙華が背を向けて立っていた。

「りんさん、やっぱり、私はりんさんのお酒が好きです。オーナーのお酒も美味しいですけど。りんさんのは優しさの味がしますから」

そう言って、涙で腫れた目を細めながら振り返り笑う沙華の顔を焼き付けて、非常階段で煙草に火をつける。いつも吸っている煙草なのに、この一本はなぜか、少し優しい味がした。


「沙華、さっき追い出した意味をちょうどいいから教えたるわ」

りんさんがバックルームへ姿を消したあと、オーナーは勝負の熱が引いた店内で、いつもの飲んだくれ三人に、口直しのスタンダードなハイボールを出して、いつも吸っているタバコを咥え、そう言った。

「沙華、お前は頭がいい、多分失敗せずとも、なぜ失敗するのかが分かるタイプ。ある種、俺やりんとは違うタイプや。でも、だからこそ、頭がキャパオーバーした時に弱い。失敗してもいいと言う気概がねぇ。だからあの時、フリーズした沙華が邪魔だった。……だが、沙華はもう、一端だよ。自信を持て」

これほどの指摘を受けて、どうやって自信を持てばいいのだろうか。

「こんだけ貶しといて、なんで、一端なのか。わかんねぇよな」

私の疑問を的確についてくるオーナー。私はそれに静かに首を縦に振った。

「競走馬って、何が大事が知ってるか?」

「へ?」

突然なんの話をされてるのか分からず、わたしは素っ頓狂な声をあげてしまう。

「いいから答えろ」

「……乗る人の腕でしょうか、それとも生まれ持った能力?」

意図しない方向からボールが飛んできたような驚きに包まれたまま私はありきたりな事を答えてしまう。

「うーん、確かにそうやな。乗る人の腕もあるやろう。他にも、血、それを育てる人なんかもあるやろう。けどな血、俗に言う血統なんかは、今の競走馬はみんな各国のダービーを勝つために育まれた血がごちゃ混ぜになってて、実際どの馬がどこのダービー勝ってもおかしくない血筋や。言ってみたらみんな各国の良家の子孫ってわけよ。次に人、これは確かにあるだろうな。どんな人と出会うかで人間だって変わる。馬も当然そうやろう。……けどな、一番大事なのは馬自体の気持ちだそうだ。人間と同じで気持ちにブレがある。特にサラブレッドは繊細らしいからな、僅かな負けでも途端に気持ちが切れて走らなくなる名馬も居る。やから、過酷なレースを全力で走り切れる、自分から勝ちに行ける気持ちの強さが大事なんだとよ。まぁ、りんからの受け売りだがな」

なぜ、オーナーは突然自分の趣味でもない馬の話なんかしたんだろう。

少し怪訝な表情を浮かべる私を見たオーナーが続けた。

「なんで、こんな話をしたか。やな。それはな、さっき言った気持ちの部分で沙華は強さがある。りんにはない強さ。そうだな、もし沙華が馬ならダービー勝てる気持ちの強さあると思うで。今のあいつはせいぜい二着くらいしか無理やろうが。あんだけ馬のことで気持ちが弱いとか言ってるが、やつには馬も言われたくないやろうよ」

馬に例えられて少し複雑な気持ちになると同時に、一体どこで私の気の強さなんかを見分けたのだろうか。ただ私はもうここでしか、この街で生きていく道はないと思っているのと同時に、やる以上は納得いく味を生み出したいと思っているだけなのに。

そうやって訝しんだ次は、疑問を抱える私にオーナーがさらに追撃する。

「どこで気の強さなんかわかるか?ってことやろ?それはな、こうして帰ってきたからだよ。理由なんてどうでもいい、辛いことから逃げない気の強さがある。それが一端の理由や。あいつにはない気の強さよ」

この人はエスパーか読心術の使い手なんじゃなかろうか。少し怖さを覚える。

私の心を読んだかのごとき正確な推測の元に語りながら、勝負に負けたあの人が消えていったバックルームの方に目をやるオーナー。あの人が纏うタバコの匂いすら今はもうしないが、私は少し背筋にむず痒さを覚えながらも褒められた礼を尽くす。

「……ありがとうございます」

「俺が褒めることなんかそうそう無いんやからもっと嬉しそうにせぇや」

嬉しいのは嬉しい。それは間違いないけれど、何か引っかかる。オーナー曰く、気持ちが先。技術なんか後でどうにでもなると言うことだろう。確かに言いたいことは理解できるけど、今の私には「技術なんかは後」なんてそんな言い訳は出来ない程、稚拙な物しかないのに。仮に二人が居なくなって私だけがこのお店に立つなんて日が来たら、間違いなくクレームの嵐だろう。一応、このお店のメニューにある物は全て作れるようにはなったが、あくまで「のような物」のレベルであって、「これがダイキリです!」なんて自信を持って言えたりは出来ない。

イマイチいい表情を浮かべない私にオーナーはつまらなさそうに口を開く。

「まぁ、ええわ、とりあえず沙華に課題を出す」

え?!と言うオノマトペが似合う表情を浮かべる私をよそにオーナーは一本のリキュールを取り出してカウンターに置く。

「これはカンパリ。まぁ薬草系の中だと一番有名なリキュールやな。飲んでみろ」

そう言ってショットグラスを取り出して、少しだけ注いだ物を私に差し出す。綺麗なオレンジと紅色の中間色をしている液体に私は口をつける。

「……ぅっ、でも嫌いじゃないかも?」

口当たりのきつい尖った薬のような味に顔をしかめる私を見てオーナーは少し笑う。

「ふっ……。きついやろ?まぁ、好きな奴はこのままでも飲める味ではあるが、これに魔法をかける」

『魔法』とは大層な事を宣ったものだと思う。けど少し気になる。なにせこのオーナーが『魔法』というのだから。少しの期待を抱いてオーナーの手元の行末を見つめると、カンパリをメジャーカップ目一杯に注ぎ、そのままシェーカーへ注ぐ。そして、蓋を閉めた。そして、そのまま間もなくストロークに入るオーナー。

「えっ……」

私の心の驚きが声を伴ってこの世界に発露した。

だって、私の中のカクテルは少なくとも二種の物を混ぜ合わせて作る物だ。

そう思っていたから。そんな困惑を知ってか知らずかオーナーは表情を変えず力強くシェイクしている。それから数秒。

オーナーの手が止まり、先ほど攪拌されたカンパリが、ショートグラスに注がれた。

先程の透明さは失われたが、代わりに表面を白く細かい泡が覆っている。オーナーはグラスの脚を人差し指と中指で挟み、私の手元へすっと押し出した。

「少し飲んでみろ。きっと驚くはずや」

底知れない悪巧みを考えているような笑みを浮かべるオーナーに促されて少し口をつけて、僅かに口に含んだ。

「っ!美味しい!甘さがちょうどいいです」

「酒は攪拌されただけ上手くなるんだから、わけねぇよ」

ぼそっと飛び出たオーナーからの台詞。そしてそれが誰に向けられた言葉なのかも分かったけれど『それって、りんさんですか?』その一言が出なかった。そんな事を軽々しく言えないほど、オーナーの見たことのないほど優しくて、そして後悔の表情を感じ取ったから。

そして口から溢したタバコを咥え直し今度は火をつけた。そして、おもむろにバックルームへと向かう、少し丸まった背中には何が乗っているのだろうか。

「少し、外すわ。沙華。あと頼んだ」

「あっ、はいっ!」

そう言い残し、煙草の匂いを置き土産にふっと奥へと引っ込んでいったのだった。

オーナーが去った後、店内は糸の切れた静寂に包まれる。そんな中、私が言葉に詰まっていると、楓香さんの顔がふっと私の目の前に飛び出てきた。そしてそのまま私の顔を通り過ぎて、側頭部、耳のそばでピタッと止まる。

「私にちょーだいよ。私はすきだから」

耳元でそう囁かれる。そのまま離れるアルコールの匂いを纏った楓香さん。酔っているからだろうか、普段は小動物の様な雰囲気なのに、タカやワシといった猛禽類の様になりふり構わず、りんさんをものにしようという気概を感じる。まさしく狩人である。

私は何も言えなかった。結局、ただ恋を知りたかっただけだったのか、歳上のお兄さんだからという理由でよく見えただけだったのだろうか。私は自分の本心がわからなくなってきた。楓華さんという寒波のせいで熱く燃える恋の心に秋霧が立っているようだ。

「やっぱ分からんわ、あの人の事……」

私に宣戦布告をしてきて今はおっさん二人と酒盛りをする普段は可愛い小さな酒豪をカウンターごしに眺めている時だった。

「あ、忘れとったわ、沙華」

馴染みのある低く少し酒焼けした声のする方向へ振り返る。

「お前、明日から三日、一人で店回せ。俺とりんは広島いく」

「……は?」

「なんや、は?って、りんはな、負けたから行かせるんやけどな。どっちにしろ俺は行く予定があったんだよ」

「よく言うよ、勝負の前で俺にチケット買いに行かせたくせに」

「そりゃあ、師匠が弟子に負ける訳がないやろうが」

「そろそろ隠遁生活も悪くないでしょ」

「峰!てめぇ、その言い方はいけんなぁ」

「ちょっ、ちょっと!その拳はしまって!」

「やかましいわ、あほんだらぁっ!」

やり合うオーナーと峰浦さん、相変わらず酒盛りする谷川さんと楓華さんを朧げに視界に捉えながら私は未だ放心中。

「私が一人……」

日々変わりゆく晩秋の小さなバー、その中も徐々に新たな顔を見せ始めだったのだった。


空に向かって伸びる狼煙の様に俺が吹いた煙草の煙が真っ直ぐ伸びていく。

俺の信念も酒の腕もここまで真っ直ぐならば、どれだけ良かっただろうか。普段はのらりくらりと交わしているが、本気だった、あの酒を作るときは全てを込めた筈だったのに。

「悔しいわ……普通に、やっぱ、師匠やな。あのジジイ。……かなわんわ」

普段の煙草よりも、少ししょっぱい煙の味を味わいながら、時折立川の街を駆ける風に煽られた雫が少し萎れた煙草をさらに湿気させた。


『明日から三日、一人で店回せ』

私の頭の中はその事ばかりが浮かんで、熱しすぎて焦がしたカラメルの様に粘度を持ってこびりついてしまっている。ふわりと甘い匂いの香るカラメルとは正反対に、私の気持ちは売れ残りの鮮魚の様な匂いのような不快感。

正直不安しかない。しかも、りんさんもオーナーもどうやら広島に帰るようだし。何かあっても自分でどうにかするしかない。働き始めて半年にも満たない自分にお店を任せるなんて、オーナーは正気ではないと思ってしまう。同時にいまの自分の力を試してみたいとも思ってしまう。若干の自信とも呼べない何か抱えていると、奥の方から少しやつれた様子のふらりと人影が一つ現れる。

「あれ?じいさんは?」

「さぁ?峰浦さんとやり合った後にどっかいっちゃいましたよ?」

「あ、そうか……」

少しばかりいつもより低い響く声で返事をするりんさん。

少しだけ目の赤いりんさんが、私にオーナーの行方を尋ねてきた。きっと、あの後泣いたんだろうな。と思わせる目の赤さ。本人はきっと泣いたことなんて私に気づかれたくはないのだろう。極めて平静を装って酔っ払い達の輪に混じっていく。

「素直じゃないんやね……。りんさんって。」

りんさんを想った私の台詞はタバコの副流煙の様にふわりと宙に浮いて、泡沫の末に誰の元にも届かず、ふわりと消えた。


あぁ、きっとりんくんは、泣いたんだろうな。このおっさん達には分からないかもしれないけど、私は分かる。

オーナーの次にりんちゃんを見てるのは私だから、ちょっとの赤さを帯びたその目も、さっきの勝負に負けて悔しかったんだろうな。って事もわたしには分かる。でも、本当はやりたくない。やりたくないけど、手段なんか、選んでられない。だからこそ

私は手元の少し気の抜けかけたハイボールを一気に煽った。今夜こそ。私の物にして見せるから。


「楓香さん飲みすぎや!そんな一気に飲んでどうすんねん!」

「いいの!私のペースなんだから関係ないでしょ!」

りんくんや、周りのおっさん達に窘められたがわたしには関係ない。

これからの作戦が本当に山。そこで決着をつけられなければ、恐らくりんくんは私の手の届かないところに言っちゃうだろうから。

「沙華ちゃん、ハイボール!」

「は、はい!……けど飲み過ぎですよ?」

「いいの!ほっといて!」

「まぁ、楓香さんなら大丈夫だと思いますけど……」

私の恋敵で、可愛い年下の女の子からも心配されてしまった。けれど仕方がない。今はプライドなんかないのだから。そんな物に固執してもりんくんを私の物にできない。合理的に一直線に目的に向かうのが私。散々回り道してきたのだから、今度は逃がさない。と固く誓う。同時に時間差で今まで蓄積したアルコールが激流となって押し寄せる。思わずふらっとカウンターに突っ伏してしまう。

「飲みすぎだよ、楓香さん」

「大丈夫〜」

「酒飲みが言う大丈夫ほど信頼性の無い言葉ないよ。政治家の言う想定済みなんかより信頼できないから」

隣の席の谷川さんに鋭い指摘を受けて確かに、と納得する。ここで「送って」と言えたならどれだけいいだろうか。これを言うために身を削って激流に抗っていると言うのにあと一歩が踏み出せない。まだお酒が足りないのかな。手元にある沙華ちゃんが作ってくれた新しいハイボールをさらに煽る。一気に飲むのは作ってくれた人に申し訳ないけど。あと一歩を踏み出すために私はお酒に魂を売るのだった。

「りん、お前、楓香を送ってけや。もうこいつはダメや。会計は今度貰うから、今日は送ってけ、でそのまま帰れ」

バックルームの方から煙草の煙を身体に纏って現れるしゃがれた声の持ち主に、私のいいたかったことを全て言われてしまった。

「は?あぁ……。まぁ、ええけどさ」

りんくんは渋々ながら応えてくれる。まぁオーナーに言われたら仕方がないのだろうけど。

「楓香はそれで……」

「うーん……」

「こりゃだ……だ」

私は自身の意気地なし具合に辟易しつつ、意識を失ったのだった。


「ゔ〜っ、気持ち悪い」

「あ、楓香さんおきました?」

少し、声が遅れて聴こえてくる。そして、温かい体温と思ったより大きな背中から見える少し影のある横顔。シトラスのような整髪料の少しばかりの匂いと煙草の匂いで、私の頬は熱くなる。これはアルコールのせいじゃない。

「うん、ありがと……」

「いや、まあ、ええですよ。楓香さん軽いし」

よくもまぁ、そんな少女漫画のテンプレートのような台詞がはけるものだ。しかも飾らずに。

「家、曙町でしたっけ?それとも高松町?」

「高松町の方〜、ドンキの通り真っ直ぐ。保険証に書いてある。ついでに今日のお金も取って行って……」

静かにしゃがむりんくんの背中からのろのろと立ち上がる。立っているのもやっとだけど、

こんなになっても嫌な顔一つしないりんくんは底無しに優しい。

本当は嫌なのかも知れないけど、それを感じさせないあたりが私と違って大人びてるなと思ってしまう。もしくは私が感じられるほど心を開かれていないだけかも知れないけど。

「場所分かりましたよ、とりあえずほら」

そう言ってまたしゃがんでくれる。もうすぐ三十の私には少し気恥ずかしいけれど、好きな人の温度を感じたくてもう一度腕を首元に回して、体重を預けたのだった。

そうしてアルコールにやられてふわふわする意識の中で、揺られる事十分程。りんくんが立ち止まる。

「つきましたよ?もう大丈夫ですか?」

「ん〜?大丈夫じゃないかも……」

家の前でのりんくんの問いかけに、子供っぽく甘えて言ってみる。そして、鍵も一緒に渡してしまう。普段は言えないけど、今ならお酒のせいって言えるから。

するとりんくんは何も言わずに、階段を上り二階の角部屋の鍵を開けてくれた。そしてそのまま暗い部屋の中におんぶのまま入ってくれる。

そしてそのまま、会話もなくりんくんは私をベットにおろしてくれる。

「じゃ、これで。ここに水置いときますね」

いつのまにかペットボトルが沢山の資料の山に埋もれた机の隅に申し訳なさそうに鎮座する。恐らく私を送る途中の自販機で買った物だろう。そして水を置いたりんくんは、部屋を出ようとする時、私はりんくんのシャツを引っ張った。弾みで下のボタンが飛ぶほどの勢いで、そしてそのままベットに引っ張る。不意を突かれてベットに倒れ込むりんくんとお店を出てから初めて目と目が線に繋がった。

何があったと少し驚く表情のりんくんを尻目に

「りんくん、私ね、やっぱり……」

今日のは新しいから大丈夫だと、震える手でボタンを外しながら言葉を紡ぐ。

「やっぱり…ね、やっぱり、りんくんが好き」

ボタンを全て取り、ブラの刺繍が雲に隠れた恥ずかしがり屋の上弦の月のように僅かに見えるほどにはだけさせようとした時、力強くぐっと手を止められる。

血の通った温かい手なのに、どこか冷たさを感じる手。

「楓香さん、ごめん。俺は抱けない。」

ふっと、卵黄を扱うかのような柔らかさでジャケットを背中からかけられる。

「そっか……」

声をかけられぬまま、好きな人の背中が遠くなる。結局、私は掴みきれなかった。きっとあの子の元に行くのだろうな。私がもっと早くに動いていれば結果は違ったのかな。

後悔より早くガチャリとドアが閉じられる。デスクトップの月の光より弱い光に照らされた雫がつぅーと頬を伝う。

「やっぱり、ダメだったよね……」

誰にも伝わらぬ呟きは真っ暗な部屋にかき乱されて消えた恋破れる夜だった。


楓香さんは大丈夫かなぁ。と思うと同時に少しばかりもやっとする。

『私にちょーだいよ。私はすきだから』

さっきの一言。楓香さんの宣戦布告。私の気持ちに気づかせてくれた楓香さん。

あの人がどれだけりんさんの事が好きなのか。分かっているからこそ、私に手出しはできない。けれど、一度気づいたこの想いの灯火を消したくはないからこそ。上手くいくなと思ってしまう。

プラスとマイナスがぐちゃぐちゃに入り混ぜた気持ちを抱えて私の夜は更けていく。

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