二章 野分に吹かれて彼岸花

 私はあの日、どうしてしまったんだろう。歳下の男の子に不意打ちとも呼べる方でキスをした。卑怯でストレートな私の思い。彼は多分私の事なんて、一常連さんの女性としか思っていないはずなのに、今までは私が女として愛されたかった。なのに、あの子を目の前にしたら、彼の話を聞いたら、私が護ってあげたくなった。夜の世界の籠に閉じ込められた鷹みたいな、男の子。

ほんとは、陽の当たる場所でこそ輝くはずなのに、夜の世界で生きている。もう朧げな記憶しかないけれど、彼氏に捨てられ、お酒に酔って道端で寝て、道ゆく人はおろか、女目当ての男でさえもが私を見て見ぬふりをしていたのに。

彼だけは私を拾ってくれた。いつぞやの女の子と同じ、担がれて知ったのがあのお店。恋はたくさんしたけれど、愛を感じたのは初めてなのかもしれない。そう思った。いつしか私はあの店の常連さんとなっていた、多分、好きなのは最初から。拾ってくれたあのときに、私の気持ちも拾われた。

私の想いを分かってほしい。

だからそこ私は、諦めない。好きなあの子を日の当たる世界へ羽ばたかせたい。

「やっぱり、あの子が好きなんだ」


うちのクソジジイが例の少女、沙華を無理矢理口説き落として、うちのお店の三人目のスタッフにした。秋の満月の夜に出会ってから、月も欠けてもうすぐ新月が訪れようかという位の時が経った今、沙華は俺の隣に立ってグラスを磨いて、カクテルレシピを眺めているとはつくづく不思議なものである。あの一晩だけの関係だと思っていたのに、俺と同じくパンツスタイルに赤の縁取り線の入ったジャケットにバーガンディーカラーのネクタイで、真紅の髪を団子に結っている、普段の幼さと大人びた両極端の面を持った不思議な沙華の雰囲気が、この装いによって大人びた面を強調させる、とても十六には見えぬほどに美しい。と思う。などとは口が裂けても言えない。まず間違いなく、沙華から茶化されるだろう。それに何より、沙華は俺と楓香さんの階段での衝突事故のようなキスをよく思っていないように思えるし、付き合っていると思っているようである。なので、俺が沙華を褒めようものなら、『彼女持ちのバーテンダーが後輩を口説いているようなもの』だと言っていたし、『私の彼氏が同じことをしていたら嫌だ』とも言っていた。こういうところは案外、青春真っ只中の少女と言うところか。そう思いながら、沙華の横顔が目に行く。

(やっぱり黙ってると可愛いよなぁ……、こんな奴がなんで、ここにいるんやろうか)

満月の日に空から降ってくる(正確には向かいの雑居ビルの屋上であるが)というあまりに頭のおかしい出会いから.下弦の月を経て明日明後日には新月となるほどには時が流れたのに、こいつの名前しか知らないのである。学校はどうしているのか、家出なのだろうが、広島のお嬢様校兼名門進学校の生活を捨ててまでなぜこの街へ来たのか。未だに謎だ。

いつか、こいつの事をもっと知れる時合いが来るであろうとぼんやりと楽観的に考えていると、ゴソゴソと店の奥から音が聞こえてくる。クソジジイの重役出勤である。

「すまんな、二人とも、ご苦労」

ジジイの出で立ちもあって、まるでならずもの、自由業の長が部下をねぎらうかのような、そんな声かけ。

「おう、今日も相変わらずやな、ジジイ」

「鈴衛オーナー、おはようございます」

二人思い思いの挨拶をする。するとオーナーは俺には灰皿を投げつけて、沙華にはお通しの試作品を差し出した。

「あっぶっねぇな!急に投げてくんなや!」

「やかましい!お前が不義理な事いうとるからじゃろうが!」

数年間続いた、いつも通りのやり取りに、最近は新たな変化が出来つつあった。

「私が美味しいお通し食べてる時に暴れるのやめてくれません?りんさんは、少しはオーナーへ恩を返した方がいいですよ。ロクな死に方しませんよ?オーナーは近くにある物を、りんさんに投げつけるの辞めてください。りんさんだから避けれるけど、新しいお客さんなら引かれるし、他の人に当たったら危ないですからね」

新たな変化とは二頭の癖馬の手綱をギリギリまで絞る沙華である。今までは行くとこまで行っていたのに、こいつがいる事によって、二人ともなりを潜めるようになった。

「「お、おう、すまねぇ……」」

大の大人二人が少女に叱られて身を小さくする姿ほど滑稽なものはないだろう。

「それで……。話は変わりますけど、私ここで勤めて五日目ですけど、何したらいいんですか?ひたすらグラス磨いて、りんさんの、仕事風景眺めてるだけなんですけど」

俺もそうであったようにここのオーナー兼クソジジイはバーテンダーの作法などは何も教えてはくれないし、どこぞのチェーンのコンビニのように(チェーンのコンビニでも見て覚えろというスタンスのお店もなくはないが)マニュアルなんか当然ない。

俺も駆け出しの頃はじいさんの手捌き、立ち振る舞いを見て必死に見て真似て盗んで自分の物にしたものだ。だが、いくら聡い沙華でも、俺と同じように見て覚えろ!と言うのは流石に酷なものがあるだろう。こういうときに率先して仕事を教えるはずなのだが、オーナーは何も言わない。

半人前になったところで散々ヤジと灰皿を飛ばしてきて、徹底的にダメ出しをする。

ようやく一人前になると今度は『新しいメニューを考えろ、三日で。』なんて無茶な事を言ってくる性根が腐った頑固なじいさんでしかない。今時絶対受け入れられない老害の鑑である。本人には自覚はないだろうし、あっても認めないだろうが。俺は今風のやり方を必死に思い描いて、沙華に問う。

「じゃあよ、今日は沙華はなんかやってみたい事あるか?シェーカー振ってみたいとか、そういうの」

まずは興味があるところから知ってもらう。大学のオープンキャンパスのようなものかもしれない。すると沙華の一瞬の思案の後、意外な答えが帰ってくる。

「うーん、りんさんが初めて会った日に作ってくれた、『あなたは魅力的』っていうカクテルを作ってみたいです」

「まじかよ、あんなんでええのか?まぁ、あれは基礎も基礎だし、ビルドが出来なきゃ話が始まんねえからな」

「ふっ……」

なにやら、じいさんの鼻で笑うような、子供が成長したのを悟ったかのような笑い声が聞こえた気がするが、気にしない。まずは沙華が御所望の『あなたは魅力的』もとい、カシスソーダの作り方でもやってみるとするか。

「ところでビルドってなんですか?」

沙華が聞いてきた。そりゃそうだ、普通バーテンダーのイメージといえば、シェーカーを振って魔法使いか、或いは錬金術師かのように新たな酒を作りだすというイメージだろうから。

「まぁ、簡単に言えばシェーカーじゃなくこいつを使って混ぜるんだよ、混ぜるって言っても使うリキュールによっても混ぜ方が変わるんやけどな」

そう言って俺は、バー・スプーンを取り出した。

「そうなんですね、なんか地味かも」

おっしゃる通り、たしかに地味なのである、けれどその地味さの中に華を持たせるのが一人前のバーテンダーなのかもしれない、所作の一つ一つに無駄をなくし、だからと言って、ステアを一作業にしない。それが一流。シェーカーを振るよりもこのステアという作業をする方が多いからこそ、必要な技術である。

「まぁ、見てろ」

そう言って、先程沙華が磨いていたロンググラスを手に取り、氷をアイストングで入れて、バー・スプーンでかき回す。そうして、氷をなじませて、出た水を捨てる。次にカシスリキュールを手に挟んだメジャーカップに注ぎ入れ、四〇mlで止め、グラスへ注いだのちにバー・スプーンで一回転、特に意味があるわけではないが、じいさんの癖が見ているうちに写ってしまったようだ。そしてソーダの瓶の栓を抜き、ゆっくり注ぐ。炭酸が落ち着いたタイミングで、バー・スプーンをグラスの底まで差し込んで、氷を持ち上げるようにゆっくり上下に攪拌する。これでお客さんの好みでレモンを添えて完成。

「ほらよ、こんなもんだ。じゃあ、とりあえずなんも考えずやってみな」

「りんさん、ちゃんとバーテンダーやったんですね……」

ぼそりと呟く後輩ちゃん。

失礼極まりない。とはこの事だろう。たしかにホテルや、名門のバーに勤める人からすればまだまだであろうが、これでも広島では若き天才とか、鬼人の番犬とか色々言われていたのだ。最後のは不名誉であるが……。

「まぁな、ぼさっと立ってねぇで、とりあえずやってみろよ」

そう言って、机の上のケースからバー・スプーンを取り出して、沙華へ渡す。

「これ、りんさんの、いいんですか……?」

まただ。普段は懐っこいくせにいざという時には一歩引く、捨て犬のような仕草。昔の自分を見ているようである。

「いいよ、てか、自分の道具持っとらんやろ、やるよそんくらい、俺も今使ってるスプーンはじいさんから譲ってもらったもんやからな」

「ふっ……」

またである。今日も今日とて、営業時間から酒を飲んでいるクソジジイもとい、オーナーの鼻で笑うような声。

「なんや、じいさん、なんか文句でもあるか?」

「いや?なんもねぇよ、おめぇもでっかくなったなって思っただけじゃ。気にせんでええ」

多少イラッとする返しだが、今はそれどころではない。俺が少し大人になれば済む話だしな。そう言って、沙華の所作を見つめる。

ロンググラスに氷をいれて、カラカラと音を立てながら氷をなじませて角を取ってゆく。

(音を出すのは及第点だが、なかなかに上手いな)

そうして、次にメジャーカップに四〇mlピッタリ注いだリキュールをグラスに注ぎ入れ、バー・スプーンで一回し。そこまで真似しなくてもええのにな、と思わず笑ってしまうが、余程集中しているのだろう、全く聞こえていないようだ。

最後に悪戦苦闘しながら栓を抜きソーダを注いで、バー・スプーンで氷を持ち上げるように上下に攪拌。一回見ただけで、ここまで出来るとは、案外なのか、やはりなのかは分からないが、才能の片鱗を感じる。

「出来ました!」

初めてのバーテンダー体験を終えた沙華の声が聞こえてくる。

「じゃあ、とりあえず飲み比べてもらうか、あそこのじいさんに」

俺はそう言いながら相変わらず、ウイスキーをたしなむオーナーへ目を向けた。

目の向けた先のじいさんは面白くなさげにこちらを一瞬見るそぶりをしたかと思えば、しばらく黙り、呟くように言葉を発する。

「左がりん、右が沙華のだ」

飲まずに言い当てやがった、このじいさん、まだ腐った、ただの飲んだくれにはなっていないようだ。

沙華はそれを聞いて、ただただ驚いていた。無理もない、俺たちの事をずっと見ていたならいざ知らず、ほぼ見ずに、さも当たって当然。なんなら聞かれる前から答えが分かっていたという風なじいさんの態度を見て驚かない奴はいないだろう、居るとするなら自分が作った物にどうでもよく思っている信念の無い奴かのどちらか。

「正解だ、なんで分かった?」

俺はじいさんに問う、多分俺が今思っている事を答えるはずだ。

「グラデーション、あと炭酸の元気さかな。カシスは色んなとこで使われる、それこそ今時は大衆居酒屋でも置いてない方が珍しいリキュールだよ。じゃけど、そいつは自重が重くて混じりにくい、かといって力一杯混ぜると今度は炭酸が抜ける。そして氷があるとダマのあるグラデーションになりやすい。マダラ模様になったりな。まぁ、そういうことだ」

流石、よく分析している。沙華は今のを聞いてどう思うのだろうか。失敗したと思うのだろうか、きっと沙華は失敗だと思っているのだろう。なにか考えるような顔を見せたのも束の間、自身が初めて作った作品、いや子供と呼べる物を流しに捨てようとしていた。

慌てて俺は、それを制しようとするが、それより早くオーナーの手が沙華の手首を掴む。

「いっつっ……」

急に万力のような力で掴まれたからか沙華は呻き声のような物をあげる。

その呻き声も一瞬、今度はじじいもとい、オーナーが激しく怒りを表す。

「あほかお前は!誰も失敗と言っとらんやろうが!それに一発で出来るやつなんかおってたまるか!」

その怒りを受けた沙華は初めて名前を知ったあの夜と同じ、少し伏し目がちにテーブルを見つめる。目にはうっすら夜露のような涙が浮かぶ。

「じいさん、初めっからおこんなや。そりゃあ、勉強しかしてねぇやつは正解なんか一つしかないと思うやろ。昔の俺は勉強も出来んかったけど、似たようなもんやろうが。そんだけ怒りっぽいと血管切れて三途の川渡ることになるで?じいさんに船頭が付くかわからんけどな」

慌てて、フォローをいれるが、沙華は相変わらずの表情である。仕方ないか、話を少し変えことにする。

「今言ったけど、とりあえず飲んでみようや。きっとおもろいで。やから沙華も泣くのはやめーや。俺らが言ってる意味がわかるはずや」

沙華の頭を少しポンと撫でる。沙華が少し反応した。そして少し目を赤くして顔を上げ、こっちを向き直って、毒づきながらはにかんだ。

「髪、セット崩れちゃうから触らないでください。私の頭はそんな安くありませんから」

ムカつく、が、仕方なし。何よりこの雨の後の笑顔に、やっぱり、可愛いところもあるな、なんて事思ってしまう程度には、いい笑顔だった。

そんな俺と沙華のやり取りを見ながらオーナーは二人の作った例の酒を飲む。相変わらずいい飲み方してんなこのじいさん。二つのグラスの三分の一ほどを飲んで、俺たち二人を交互に鋭い眼光でみて促した。

「まぁ、いいたいことは後や、とりあえず二人とも飲んでみろや」

お互いにグラスを手渡される。沙華も俺も、手渡されたグラスの中身に少し口をつける。

これは沙華のだな。少し攻撃的な味がある。けど、芯もある。これはなかなか面白い。俺には出来ない味だな。沙華はどこか懐かしそうにグラスに口を付けていた、あの日からそう日は経ってねぇよ。といいたいが流石に野暮であろう。そうひとしきり自己回顧を終えて、沙華とグラスを交換する。回ってきたグラスに口をつける。やはりな、想像できてしまう味。

これが優しい味なのか、わかんねぇな。沙華はというと、初めて自分が作ったカシスソーダを見つめて微妙な顔を思い浮かべていた。そして呟く。

「これが、私の味……」

そうやって全員が二つの同じカクテルを試飲した。そしてそのタイミングでオーナーが口を開く。

「結論から言う、俺が好きなのは……」

その時であった。ドアが軋んで開く音。今夜一人目のお客様の登場だった。

味の総評は気にはなるが、いまはそれは後。

男苦しいこの場所に突然咲いた緋色の華、少し前には考えられなかったが、なんとなく今はしっくりくる。そんな、クラス替えをして二週間目といったような、馴染むのか馴染まないのかの境界線、そんな新たな日常の足音が聞こえてくるようだ。


2.

ドアが軋んで空いた先にいたのは、常連さんの楓香さんであった。

「なんや、楓ちゃんやったんか!つまらんのう。とりあえずお帰り!なん飲むよ?」

「そしたらジョニーウォーカーのブラック。ソーダで」

急に張りつけた外行きの仮面を捨てたオーナーが聞き、楓香さんは席に付く間も無く応える。俺だって一瞬引っ込めたタバコの箱をすぐに机の上に戻す。沙華は少しやりづらそうにしているが、多分あのキスの件だろう。当事者が揃ったなら仕方ないが、自分から申告することでもないと思っている時に、オーナーがいらぬ一言を言う。

「今日は、可愛い友達はおらんかい?りんも可愛かったって言っとったからな、見たかったんやけどな」

このじいさんなんなんや。と心の中で毒突く、沙華は相変わらず、少しムッとした表情を浮かべているが、楓香さんは相変わらずいつも通りの笑顔である。

「咲ちゃんは、私と違って相手いるし、籍を入れる予定みたいですからね。今夜も彼と一緒なんじゃないですか?……私も早く出来るといいなぁ、相手」

俺を見ながら言葉を溢す。最初はともかく最後の方はダメだろ。ますますきつい目で沙華に見られる。目元立ちがいいから睨まれると余計に怖い。背中から数十本の矢で射抜かれている気がする。

「お二人はまだそんな関係じゃなかったんですね」

沙華のきつい一言、居心地が悪い事この上ない。

オーナーは笑いを堪えるのに必死になっている。くそ、こんな時まで楽しみやがって、ほんといけすかねぇジジイだ。楓香さんはなんか笑ってるし、この状況を楽しめるのはおかしいだろ、いや、この店では、俺がおかしいのかもしれない。ここの街の人にはうちの店、『魔境』とか『魔窟』とか言われてるらしいのも頷けるよ、全く。

「そいえば、沙華ちゃんだっけ?ここで働き始めたんだよろしくね。私は玖波楓香、歳はりんくんよりは上かな。楓香でいいよ」

こんな状況で挨拶できる楓香さんすごい。沙華なんか、さらにむすっとしてるが、

「こちらこそよろしくお願いします、楓香さん、私は橘沙華です」

簡潔すぎて味はないがちゃんと応じて自己紹介するあたり、偉いよ、この子。後ろで最早笑いを隠せていないじいさんにも見習って欲しい。俺も見習うべきなのかもしれないが。

「それじゃ、当事者が揃ったところで聞くが、お前さん達、わしの店の前で盛った後どうなったんや?移動して、さらに盛って行くとこまで行ったか?」

先ほどより少し弛緩した雰囲気の中で、後ろで笑いを隠せていなかったじいさんがジョニーウォーカーのソーダ割と今日のお通しを出しながら切り出した。

「私はそうしたかったんですけどね、振られちゃいました」

じいさんもなかなか際どい聞き方だったが、楓香さんはその高波を乗りこなして来た。やっぱり魔窟だよ、この店は。こええよ、楓華さん、これが外堀が埋めるというやつか?

「いや、俺も今初めて知ったわ!」

「ええって、気にすんな、ここだけの話にしといたるわ」

どうやら俺のささやかな反抗は無駄なようだった。外堀の埋め立て作業が突貫工事で始まっていた。そこでふと、さっきから大人しい沙華の様子が気になって、チラリと先ほど沙華が立っていた場所に目を向ける。すると沙華は居なくなっていた。どこ行ったんや?あいつ。バックルームか?

楓香さんはジジイと盛り上がっているようだし、タバコだけを持って、「じいさん、ちょっと沙華探してくるわ」とだけ言ってバックルームから勝手口を通り非常階段にでる。

「上か、下かどっちや……」

独り呟き、考える。そこで出会った時の事がふと思い出された。ビルの上から月に手を伸ばしながら地面に落ちてきたあの日の事を。

「上やな、多分」

そう言って階段を一段飛ばしで駆けていくのだった。


「行っちゃいましたね」

私は少しの寂寥感を胸に抱いてオーナーにこぼした。

「そうやなぁ、あいつが拾ってきて、高校生がここで働くことになったんやから気になるんやろう。自分もそうだったからってな」

「りんくん、あの子のこと可愛がってますもんね。私じゃダメなのかな」

また、弱音を呟いてしまう。私は本当にきっと好きなのだろう、あの子のことが。四年前の真冬日の夜、すごく入れ込んだ人に捨てられ、泥酔して、いつもしつこい体目当ての男も相手をしないほどの風体で、道で倒れ込んで眠っていた私をお店までおぶってくれて、介抱してくれた。何の見返りを求められてないのに。本当に底無しのいい子。そんなところが色んな人に愛される証拠だろう。私は一人ふつふつと湧いてくるモヤモヤ感と闘いながら悩む。するとオーナーが言う。

「あいつはどう思ってるかわかんねぇけどな。けど、きっと特別なんだろうよ。沙華は多分歳通りの勘違いで恋だと思ってるんやろう。けど、りんは、依月は沙華を日の当たる昼の世界に戻してやりたいってだけやろうな。今の依月は、自分か何者かわかってない太陽だよ。やから月の出た夜に昇ってくる。それなのに、夜の世界に落ちた彼岸花は必死になって救おうとする変な奴、底無しの馬鹿だよ。自分のことさえ分っとらんのにな。まぁ、そう言うことじゃけぇの、悪いことは言わんけど、楓ちゃんはもっと男を見る目を養った方がええ」

そう言って煙草に火をつけて煙を燻らせるオーナー。

私は近くの灰皿をオーナーの手元へ差し出してから、決意を込めて言葉を放つ。

「オーナーありがとう。けど、私はりんくんじゃないとダメみたい。彼が夜に出る太陽でもいい。いつか、ちゃんと彼には昼の太陽としてまた朝焼けを見せてもらえるように私は引っ張りたいんです。一応歳上だし?頼りないだろうけど」

オーナーにはどう受け取られたのだろうか。

しばらく煙草の煙を吸い、一呼吸、ゆっくり息を吐き出して放射状にカーテンを一気に引っ張ったかのような帯を描く。そして、ゆっくり口を開く。

「そうか、まぁ……楓ちゃんの好きにせぇ」

この肯定も否定も入り混じった歯痒くなるようなオーナーの言葉に、わたしはゆっくり頷いた。沙華ちゃんが本当の恋をするまでが私の時間。私が夜の陽の光をもっと輝かせてみせる。そう強く誓って、一気にジョニーウォーカーを煽るのだった。


非常階段をかけた先、屋上の古びた柵の意味があるのか分からない柵のその先に少女はいた。月を眺めてその場に立つ少女。やはり可憐である。しかし今は、どちらかというと悲憐の冷たい空気を纏っているように見える。俺は柵についたフランス落としを上げて、少女へと歩み寄り言葉をかけようとした。そんな時、

「もうすぐ新月ですね……。見えない光はどこを照らしていると思いますか?」

静かな声で語る少女。まるで、俺の真意を見透そうとするかのような語り口。

一つ、気になることがある。彼女が言う、見えない光はなんだろうか。

月の満ち欠けは月と地球、そして太陽の位置関係よって引き起こさせれるものだし、月は自ら光を発するわけではなく、太陽から照らされた光が反射して地球から見えているという正論を言うのは間違いなく違うという事は俺でもわかる。しばらく思案した後、見えないのに光というこの禅問答に、結局真意が見えず、俺は諦めて屁理屈を捏ねる。

「光だけじゃないが、この世にある事象は人間が観察可能な物に名前をつけてきた。つまり名前がないのは観察できないか、これから観察されるかのどちらかやろ。そのうち見つけれるんやったら、きっとその事象には名前が付くさ」

俺の勝手な白旗宣言を黙って聞く少女、顔の表情は窺い知れない。月と少女と俺。一直線に並んでいるまるで太陽と月と地球。つまり新月が起きる場面。彼女の真意に気づけずに、こういう時じいさんならどうするんやろうな。少なくともどう考えても今の俺の明らかに求められてはいない答えよりは上手いこと返すんやろうな。

あのじいさんを少し羨ましく思い、今の返しを少し反省していると、シルエットのみが観察出来る少女がこちらへ振り返る。たなびかせた緋色の髪が僅かな月の光と、街灯の光を含んでキラキラと輝き神秘的な雰囲気を纏う少女。その表情はどこか微妙な笑みを浮かべている。俺のトンチンカンな答えに呆れているのだろうか。

「さっきはすまん、もっとまともな答えを言えたら良かった。」

そう言おうと口を開いたその時、不意に少女が口を開いて思わず話を口を閉じた。

「……なら、私のこの今の気持ちも初めて自分に沸いた感情だから、名前がつけられないんですね。欠けた月の照らす先はあのお姉さんなのかな……。」

少女の頬に一筋、涙が伝う。

この子は俺と楓香さんの関係を見て、もやもやした様子を見せてみたり、怒ってみたり、面白くなさそうに見ていたり、そんな感情を初めて味わったのだろう。俺は黙って近づいて、そっと抱き寄せ、頭を撫でる。「気持ちを掻き回してすまなかった」その一言さえ言えたなら、その一言でこの子はどうなったのだろうか、これほどもやもやと気持ちを膨らませる事もなかったのだろうか。たった数回撫でるだけではあるが、そこに気持ちを乗せる。

ただ静かに、涙を流す、胸の中の女の子。東京まで一人、家出同然で飛び出してきた女の子の背中は、とても小さかった。この肩にどんな思いを背負って片道切符の旅に出たのだろうか。今はまだ分からない。けれどいつかこの子の本心に近づきたい。俺もこの子の初めての感情のいく末を見てみたいと。そう思った。

二人の頬を撫でる風が少し冷たさを帯びてきた。もう晩秋に近い秋。冬の訪れには早いとはいえ、これ以上は身体に障ると思い、胸元にいる少女に声をかける。

「寒いしそろそろ、戻るか?」

黙って頷く少女の涙をそっと涙で拭いとって、ぽんっと頭を撫でて解放する。解決したとは言えないけれど、とりあえずこれからは不意打ちには気を付けようと思い、店へ戻るのだった。


「よう遅かったな、まぁええわ、沙華が見つかってよ。りんは、どうでもええけど」

「二人ともおかえり〜!」

屋上での沙華の難題に苦しんだ俺と、先ほどまでの涙を隠した沙華は、相変わらず俺には厳しいが、沙華には孫娘のように甘い爺さんもとい、オーナーと、俺と沙華が屋上にいた僅かな間に六分咲きほどの出来になった酔っ払いこと、楓香さんに出迎えられていた。

「ところで結構遅かったな。十五分もありゃなんかあったんか?」

「すまねぇ、ちょっとヤニがたらんくてな」

あくまで煙草を俺が長いこと吸っていたことにする。すると沙華は息を深く吐いて、頭を下げる。

「突然居なくなってごめんなさい!」

俺がバレる下手な嘘をついた意味がなくなるな。まぁ、素直なこの子らしいと言えばらしいが、オーナーも流石に仕事をほっぽりだした事には腹を立てるだろう。しかし、意外なほど静かに、けれど意外な言葉が返ってくる。

「まぁ、仕方ない。それより、りんは今日上がれ。今のお前は邪魔や。失せろ。」

このじいさん、今なんて言ったんだ?俺に失せろと言ったように聞こえたが、少し頭に血が上りそうになる。俺がその場から動かない様子をみてオーナーがもう一度吐き捨てるよう言う。

「聞こえとらんのんか?今のお前は邪魔や、失せろ」

「ちょっとオーナー、流石に言い過ぎ。せめて理由がないとりんくんが可哀想」

「なんで、りんさんが帰れって言われてるんですか。私の勝手なことのせいでこうなっているのに……」

楓香さんと沙華の二人は俺を擁護してくれているが、まだ未熟な俺は、周りのものにあたりそうになる。

「くそっ、訳わからんわ、あのクソじいいが!早う往生し晒せ!」

荷物を纏めながら吐き捨てる。普段なら普段着に着替えて帰るのだが、それすらも怒りで億劫になり、僅かな荷物ばかりを持って店の扉を蹴り開ける。

階段をドスドスと最大限に音を立てて目の前の路地に出る、そこから大通りに出る道の途中で、スーツ姿の人と肩をぶつけるが、普段なら詫びの一つでも入れるのに、礼儀すらなっていないまま、ぶつかった人の舌打ちが耳の中から消えない内に足早に立ち去る。

帰り道の途中、コンビニで買った五〇〇mlの缶酎ハイを一気に飲み干し立日橋の欄干を蹴り上げる。

「くそっ……。訳わからんわ!」

行き先のない怒りと先程飲み干した缶酎ハイのアルコールが混じり合い、いつもより酔っ払っているように感じる。

翌日朧げにしか覚えていないほどの剣幕で立川通り抜けてモノレール通りを歩き、ちょうど終電のモノレールが頭上を通るのを見過ごしながら家路に着くのだった。


「ちょっとオーナー、あれはひどい!」

「私もあれはりんさんが可哀想だと思います!」

先程すごい剣幕でお店のなかで暴れそうになっていたりんさんを見送って、店内には私と楓華さん、そして先程りんさんを焚き付けてすぐにでも殴り合いを始まりそうという状況を作り出した鈴衛オーナーの三人が店内に残って、鈴衛オーナーは私と楓香さんの激しい非難を浴びていた。

「りんさんは、ただ私を探しにきてくれただけですよ?それなのになんで」

私はたまらず訳を聞くがオーナーは表情一つ変えず煙草を嗜んでいる。楓華さんも不機嫌になったのか。

手元にあるグラスを一気に煽り、空にする。

「お会計。頂戴」

それだけいって楓香さんはオーナーを睨み付ける。

しかし、当人は眉をピクリとも動かさず煙草にご執心。

やがて煙草の三分の一程まで吸ったオーナーはもみ消して、私達を交互にみていう。

「一つ、明日はあいつがメインの日だから早く帰らせた。一つ、今の辛気臭い顔をしたやつが居ると酒が不味くなる。一つ、これから俺が沙華にする話をやつには聞かせたくなかった」

オーナーは淡々と、「なぜ?」と聞いてもいないりんさんを家へ突き返した理由を語る。単に返すだけの理由ならあんなに喧嘩腰で言う必要性なんてなかったと思う。なぜそこまでいう必要があったのか、煮え切らない表情を浮かべた私を見てオーナーは言う。

「あいつはな、いいウイスキーになれる若いウイスキーなんよ。まだ口当たりが固くてきついウイスキー。本人は大分大人びた方やし、実際やつも自覚があるやろう。けど、まだ若い。だから、たまには『お前やってまだまだ若者や』って意味でもああやって言うのが必要やと俺は思う。時代が違うと言われればそれまでやけど、俺はそうやって歳を食ってきた。あいつにはいい時間を重ねてほしい。やから、強くても言ったんや。特にあんな辛気臭い顔をされたらな」

先ほどまでとは別人のような、りんさんの親の顔のような表情で語るオーナーに、私と楓香さんは思わずおかしくなって笑ってしまう。するとオーナーの顔が少し赤みを浴びてだんだんと染まっていく。なるほど、この親に似たのかな、りんさんは。少し面白くなって

私はおどけるように言ってみせる。

「オーナーも照れるんですね、可愛いかも」

「私も初めてみた!」

楓華さんも私と同じ反応をして二人して照れるオーナーを少し面白がってみる。

「やかましいわ。酒のせいじゃ!」

そういって、目の前のウイスキーを煽るオーナー。

それを肴にお酒を飲もうとしたのか。けれど、先程飲み干したことを思い出したのか、風香さんはグラスの縁で指をなぞる。私はそっと、ジョニーウォーカーを手元に寄せて、あの意地っ張りで短気でけれど優しさ溢れる先輩に教えてもらったようにロンググラスにアイストングで氷を入れてくるくると回して氷の角を取る、次にメジャーカップに注ぎ入れ大まかに測って注ぎ入れる。『ハイボールだけは適当でいい、そのムラある適当さがハイボールや』との教え通りに注ぎ入れる。

(私にはそのムラの良さはわからないけど……)

そして、ソーダの栓を抜いてゆっくり注ぎ入れる。楓香さんはレモンが要らない人のようなので、レモンは絞らずそのままステアして、楓香さんの前にゆっくり差し出した。

「楓香さん、これ私が初めてお客様に出すお酒なんです。……。よかったら。不味かったらそのままでいいですから。」

自信なく、緊張が上回る口調で楓香さんに勧める。優しく振り向いた風香さんは笑顔で私にささやいた。

「ありがとね、じゃあ、貴女の初めては私のものだね、なんて」

歳上に見えないけど、この色香は大人の女性だと言うことを私に思わせる。これを突っぱねたりんさんは、少しおかしいのかも知れない。そんなことを考えることを尻目にグラスの中身を着実に減らす楓香さん。やがてグラスの縁から口を離して、コトッとグラスをコースターの上に置き楓香さんの目が私の顔を射抜く。私はたまらず聞いてしまう。

「美味しくなかったですか……?」

すると楓香さんはふっと笑みを浮かべて私を撫でてくる。

「美味しかったよ。初々しい味がしたかな。このウイスキーからはそんな若さはないのにね。きっと沙華ちゃんの気持ちがそうさせたのかな?りんくんとか、オーナーの味とも違うし、好きだよ、私。恋する乙女の味がする。それに第一ハイボールすら満足に美味しくできない人はここのバーにいちゃいけない!って思うかな。だからもっと自信を持って。自信がないバーテンダーのお酒は私は飲みたくない」

私はほっと胸を撫で下ろす。張り詰めた糸が切れるように、私は身体の力が抜けた。

それをみておかしそうに笑う楓香さん。私はこの街のバーテンダーとしての第一歩を踏み出したのだった。

「よかったな、沙華」

照れではなく本当にお酒で顔を赤くしたオーナーに褒められる。この店で初めて褒められて、少しの嬉しさと沢山の安堵を胸に秘めて、酔っぱらいのオーナーとそれに付き合う楓香さんを眺めて、一つ心に誓うこと、りんさんみたいなれるように研鑽していこうと。

「沙華ちゃん、おかわり!」

「沙華俺も!」

今夜も一悶着あったけど、酔っぱらい達の讃歌は変わらない。そんな夜更の一幕だった。

「オーナーは自分でやってください!私もりんさんみたいに怒りますからね!」

「そりゃあこえぇな、俺でやるよ、しゃあねぇな」

夜の住人の昼間はまだ終わらない。


朝、時計の針は六時を指そうかというあたり、閉店間際のこの時間に私はふと今日のオーナーの一言を思い出す。りんさんを追いだした時、その理由として、りんさんには言えない事がある。と言っていた。その内容はオーナーの親心がみえる温かい物だった、楓華さんは今し方ふらふらと朝焼け浮かぶ街へと消えていった。無事に帰れるといいのだけど。と少し不安になるが、この時間からくるお客さんもほぼいないし、お店の締め作業を進めることにする、まず看板を片付ける。

そしてグラスを洗って磨く、トイレを掃除して、照明を落とす。最後にお店の机に突っ伏すオーナーの背中にタオルケットをかけて店を閉める。

そうして、初めてお客様に出したお酒を褒められた充実感とバーテンダーとしての第一歩を踏み出せた実感を噛みしめながらお店に鍵をかけて、ドアポストに放り込む。

扉の前で一礼。

「改めて、これからよろしくお願いしますっ!」

そう言い残して、階段を駆け下りて、最近少しずつ慣れてきた、仕事終わりの朝日を眺めて立川の街へと降り立って、自分の住処へ帰る。

私のりんさんに対するこの気持ちに、いつか名前をつけれる日が来ることを願って。


「クソっ、またここで寝ちまったのか」

肩がいてぇな。はぁ、全く年甲斐もなく飲むもんじゃないわ。と身体を起こすと、パサっとタオルケットが床へ落ちた。沙華の仕業か。まぁ、なんというからしいと言えばらしいな。あいつにも謝らんといけんかもしれん。まだ少し酒の残った体に鞭打って片付けをしようと周りを見回すと、グラス類も綺麗に磨かれ元の位置に置いてある。念のためトイレも確認するが、

綺麗に磨かれていた。なんなら普段の儂たちより綺麗に掃除されていたのかもしれない。

(そいえば、沙華に言うこと言わずに寝とったか。まぁ、今日言えばええか、どうせりん以外は暇になるやろうしな)

お通しの仕込みも昨日の分が残っているし、

頭も痛いしもう一眠りするとしよう。起きたらねぐらに戻って湯浴びでもするか。そう思ったのも束の間儂は再び睡魔に任せて床の上で石のように眠るのだった。


カーテンの隙間から太陽の日差しが差し込んでくる朝、ではなくすでにお昼頃、この世で一番縁遠い光と若干残る酒の副作用に辟易しながらも起床する。

「クソが、眩しいわ……」

起きがけに手だけを布団から出してガサゴソと周囲を物色する。そして、煙草の箱を手元に引き寄せ箱の中から一本抜き取り、ベッドから抜け出し横の出窓に腰掛けて、使い古したオイルライターで火を点す。

「けっ、最後の一本かよ」

鬱陶しい陽の光を浴びて癖のように起きがけに一本の煙草を吸う。これから煙草を買いに行くか、悩みながら手元のスマートフォンのメッセージアプリをタップするが、相変わらず広告やクーポンといった通知しか来てはいなかった。友達なんかほとんど居ないしな、けど、たまに連絡が来るからこういった類のものは面倒だと思う、面倒だと思うが、ただでさえこの世の流れの外で生活している身であるため、表世界と自分を繋ぐ唯一のツールであると思っているので辞めるに辞めれないのが辛いところである。

煙草を根元近くまで吸ういわゆる「貧乏吸い」で限界まで味わったあと、寝ぼけ眼で男の一人暮らし感のある部屋を横切り洗面台兼風呂場に向かう歯を磨き、うがいをするついでに顔を洗い髪を濡らして寝癖を取る。タオルを取りにリビングに向かうと、数本と飲み切った酒の缶と飲みかけの缶チューハイが机に散乱しているのを見て、昨日のじいさんの一言を思い出す。

今でも思い出すだけでイライラしてしまい、ドライヤーではなく飲みかけに缶チューハイを手に取り半分近くあるぬるくなった中身を、一気に飲み干すと微妙な温度の炭酸の抜けた人工甘味料とウォッカ系の酒の味が口の中に留まる。起きがけにはきついものがあるが仕方ない。そのまま飲み切った缶をイライラを込めて握り潰し、机へ放り、返しの手でドライヤーに持ち帰る。濡れた髪を乾かしながらふと思う。

(昨日の俺はあの缶チューハイみたいに、気の抜けたやつやったってことか。クソムカつくけど)

ブローが終わり次はワックスを手に取り鏡の前でセットしようと思うが、昨日は仕事着まま帰ってきたことを思い出し、新しいワイシャツを引っ張り出してワイシャツとスラックスに紺のジャケットを着る、ネクタイはカバンに丸めて突っ込み、改めて今日は自分メインになるであろうし、いつもより気合いを入れるためにセットする。いつもなら寝るためにこの時間も惜しいので、余程のことがない限りはセットはしないが今日は別。金土だけはこの作業を欠かさない。そうして起床から一時間ほどの準備を済ませて家を出る。太陽もまだまだ勤務時間のようであるそんな昼下がりであった。


いつもより一時間ほど早い時間に立川の街へとたどり着く。モノレールの駅のホームから階段を降り、改札を抜け、道ゆく人の間を抜け、夜とはまるっきり表情の変わる路地を歩く、そしていつだろうと変わらず薄暗い階段を登り、自分達の城の門とも言える煤けた扉を開く。開けた瞬間酒の匂いが鼻腔を支配する。

「うっ、くせぇ……。あのじいさん昨日だいぶ飲んで寝よったな」

その匂いの元はカウンターの椅子に座り、そのまま机に突っ伏していた。床には誰かが、じいさんにかけたであろうタオルケットが落ちていた。昨日の事もあり少し気は進まないが、その突っ伏している匂いの元もとい、オーナーを揺り起こす。

「おい、じいさん!酒の匂いがすごいけぇ、はよ起きてシャワーでも浴びてこいや!今のあんたは邪魔や!」

昨日この酔っ払いに言われた、言葉をそっくりそのまま耳を揃えてお返しすることにした。

「うっさいのう……。まだ寝とってもええやろうが」

「もう三時やぞ!飲み過ぎでボケたんか?」

「ちっ……。ちょいとならシャワー浴びてくる。お通しは今日も燻製や」

まだ酒が残っているであろうじいさんはふらふらっと起き上がり、そのまま頭を抱えて店をでる。

歩いて二分の立地に住んでいるじいさんなら大丈夫だろう。じいさんが家へ帰ったあと、カウンターとじいさんが陣取っていた椅子を拭き上げて、店の掃除をしようとトイレを開けると、違和感に気づく。普段以上に綺麗なのだ。誰かが掃除をしてくれたのか。他にも見て回ると、シンクも店もグラスもじいさんが座っていた椅子以外の椅子も床も全て綺麗になっていた。じいさんがこの調子で掃除をすることは考えられない。第一、店の金勘定すら俺に任せるような人だし、自分のスペース以外を掃除するところは見たことがない。お客さんに布巾を投げつけ、机を掃除させたことなら見たことがあるが……。そんなこんなでここまで綺麗に掃除するのはじいさんではない。となると一人、頭に思い浮かぶ。

「沙華か……。ありがてぇな」

感謝を感じながら煙草を吸おうとポケットを弄ったときに起きがけに煙草が最後の一本だったと思い出す。じいさんの煙草を探すが箱ごと持って帰ったようだ、普段は置きっぱなしなのに、こんな時に限って持って帰るとは運がない。

多少億劫ではあるが、コンビニに買いに行こうと、カバンの中を漁り財布を探しているととネクタイが出てくる。

面倒で家では締めなかったが、いずれするなら今しておくかと思い立ち、手早く締める。多少曲がっているかもしれないが後で直せばいい、それよりは今は煙草だ。手元にだした財布をポケットに突っ込み珍しくワックスとスプレーで硬さのある髪を掻きながら店を出た。


「ありがとうございました〜」

コンビニで186番のタバコとこれから必要になるものを買い、千円程支払ってコンビニを出る。店を開けたままにしているため早く帰らなくてはと少し早足で道を横切り、大通りから路地へ入ろうとする時だった。

「りんちゃんお疲れ。今日はバチッと決めとるね、アフターの予定でもあるんかい?」

フランクに挨拶するすこしイカついおじさんこと峰浦慎二に引き止められる。

「おぉ、峰さんお疲れ様です、どうしたんですか、今日は早いですね」

「いや、野暮用があってな、それよりさっきオーナー見たで、大分お酒の匂いしたけど、昨日も激しくやってたのかい?」

「さぁ、昨日は途中で帰ったし、よう分からんのんですけどね」

昨日揉めて、無理矢理追い出されたとは言えずに適当なことを言ってしまう。すると峰浦さんも何かを感じ取ったのか

「まぁ、そう言う日もあるだろうしな」

気の良い返しをしてくれる。伊達に夜の世界で客引きをしていないなと思わせる押し引きの上手さである。

「そんじゃ、俺行くわ。あ、これやるよ」

行きがけに中身の入ったコンビニ袋を投げられる。中を覗くとブラックの缶コーヒーと先程自分が買った銘柄の煙草が入っていた。あの人煙草吸わないのに。

きっとたまたま会ったフリをしたのだろう。俺に気を使わせないために。

こういう所がこの街で長いこと上手い客引きの一人として数えられる人の能力なのだろうと感服する。きっとあのじいさんの様子を見て昨日何かあったのだろうなと察してくれたのだろう、今度あったら一杯とびきりの酒をご馳走しようと、心に決めてお店へ戻る。


カウンターに座り先ほど買った煙草を吸いながら貰ったコーヒーを一口。そして今日使う物。競馬新聞を袋から取り出して、念入りに目を通して愛用の赤ボールペンで印をつけていく。ウイスキーやリキュールがディスプレイされた棚の奥から数枚のホワイトボードを取り出して、競馬場の地名とレース数、そして数字と横棒や矢印の羅列を書き込み、最後に、買い目と書き足して、カウンターに並べて立てる。金曜、土曜日限定の前日予想。そうして、ホワイトボード書き終えた頃には午後五時に差し掛かろうとしていた、ブラインド越しにもうじき暮れようかという西日が差し込む。

不意に訪れる睡魔に抗おうとするが、強烈な睡魔に負けそうになる、昨日飲み過ぎて寝付きが浅かったなと反省するのも束の間、意識が途絶えてしまったのだった。


ベットと机、それに簡単な椅子しかない殺風景な部屋、人が住むことを念頭に置かれてなどいない様な生活感皆無のレイアウトの部屋の主、それが私。

元々はお母さんのものだったこの部屋は今や私の止まり木になっている。数週間前までの私に『きっと夜の世界でバーテンダー見習いをしているよ。』なんて言ったらどう言う反応をするだろうか。きっと驚かない、だからと言って、それもそうかという反応でもないだろう。諦観。諦め、流れに逆らわず身を任せる姿勢をとるであろう。現に今の私がそうだし。


回顧もそこそこに私はベットから抜け出して、カーテンを開けて朝の日差しを浴びる。時刻は十時、少なくとも数か月前の私なら今頃は世間では"箱入り"と呼ばれる子達と共に二時間目の授業を受けている頃であろう。

(今頃学校ではどう言われているんやろう……。)

けれど、今の私はこの街でやることがある。

お母さんの愛したこの街で、私は自分のルーツを見つけなくてはならない。そのために学校を捨てた。名門と言われる学校を捨てた。恐らく勝手に退学か休学か、もしくは無断欠席となっているだろう。はたまたあの人が適当な理由をでっち上げて欠席扱いにしているかもしれない。いや最後の理由は無い。どうせあの人は私の事などもう眼中にないのだろうから。きっと私の身辺にすら興味はないだろうし。そうやってモヤモヤとした気持ちがふつふつと湧き上がるのを抑えて、私は唯一、高飛びする際に持ってきた制服とその上にパーカーを羽織る。そして、当面の小遣いだと言われ、オーナーから無理矢理渡された幾ばくかのお金の入った財布を持って、朝ご飯かお昼ご飯かわからないオシャレに言えばブランチと呼ばれる食事を取るための買い出しにコンビニへ出かける。職場までは徒歩五分。最寄りのコンビニまでは徒歩三分と、広島に住んでいた時には考え難い便利さである。便利さと引き換えに人の温かみは薄れているのかもしれないが、今の私には居場所がある。無茶苦茶なおじさんオーナーと、それに付き合っているようなすこし大人びたお兄さんがいるあのお店、クレリューナ、フランス語で大きな月と言う意味らしい。お母さんも月が好きだとよく言っていたし、私も母の愛した街の月を見たくて、そこに意味を見出したくてやってきたし、この月を冠したお店に厄介になるのも何かの縁かもしれないと、一人考えていると、目の前から来た大きく、すこしイカつい、グレーのスーツに赤のネクタイという、いかにも夜の人という人にぶつかってしまう。

「ごめんなさいっ!私が前見とらんかったけぇ、当たってしまいました!」

私は素早く頭を下げるとぶつかられた男の人はすこし笑いながら返してくれる。

「いいって、いいって!それより君ここらじゃ見ない制服だね、それに言葉も。その方言、俺はよく聞いてるよ、あそこの路地の奥のバーの"親分と若頭"からね」

「私、最近あそこで勤めるようになった沙華っていいます」

私があの店の関係者であることを伝えると、大きな体を縮こまらせ、漫画みたいな姿勢で腹を抱えて大笑いし始めた。

「っく、はっはっ!やっぱりあの店面白いな、JKバーでも始めようってのかよ。確かにお嬢さんは可愛いってか綺麗系だし価値ありそうだもんな」

私は、自分が売り物みたいに言われるのをすこしムッとしてしまう。それを見たおじさんがすぐさま謝ってくる。

「あー、すまねぇ、冗談だよ、お詫びになんか奢るよ。あの店にはたまに世話になってるしな」

「知らない人には施しは受けません」

私はすこし強めに突っぱねる、初対面でこの距離感の近さ、この街の人はみんなそうなのか?と思わず頭を抱える私。すると再びおじさんが私に語りかける。

「その意気やよし!おじさん、生きのいい若い子好きだからな。あの店の、ふざけてるが腕はいいバーテンダーいるだろ、りんって呼ばれてる。あいつと初めて会った時と今のお嬢さん、そっくりだよ。俺は峰浦慎二、ここらの夜の街の案内人ってやつだ。よろしく」いくら失礼な人とは言え、挨拶出来ない大人にはなりたくない私も改めて、大きくて無骨なまさしく男の手と言える手を握る

「私は沙華です。さんずいに少ないで『さ』、難しい方の華で『な』です」

「よし、それじゃ今日は俺の奢りだ。つっても大したもんじゃないけど。行こうか」

そう、言って先を行く峰浦さんという男の後を追いコンビニへ入るのだった。


「なんだ、そんだけでいいのか?遠慮は無しで大丈夫よ?」

奢ってくれるという峰浦さんの持つかごに、レタスとハムの挟まったサンドイッチとカップの抹茶ラテを放り込むと、そう言われた。

「私、これで大丈夫ですから」

「まぁ、いいか、なんというか。奢り甲斐がないというか。外で待っといてくれ」

私は自動ドアをくぐり外で待つ。遠目に中の様子を伺うとレジはすこし混んでいて、まだまだ出てきそうになかった。私は手持ち無沙汰に風に舞う髪の毛を耳の裏へ掻き寄せ、しばし待っている時であった。なにやら視線を感じる。私は周囲を見回すと、赤信号の横断歩道の先に視線の主はいた。ひょろっとした体躯に紺のヨレヨレのスーツにくたびれた黒の革靴にすこし曲がったネクタイ。普通の昼の人間の様であるが、見かけ以上の恐怖感を私に与え続ける。これほどまでに赤信号に感謝することはない。なるべく長く止まっていて欲しい。車の往来の切れ目からも私を射抜くその目。私を神待ちの女子高生と勘違いしているのだろうか。

しばしの時、信号が青に変わるとその男はゆっくりと近づいてくる。私は逃げ出そうかと考えたが、恐怖感から足が竦んでしまう。その場を動けずいる私を射殺すかのように、一直線で私へ向かう男。そして男が立ちはだかり私に手を伸ばしてくる。私が思わず後退りして、目蓋を落とす。誰かっ、助けて、りんさん……っ。

私はあの夜のように颯爽とやってくるりんさんの姿を脳裏に描く、私が襲われそうだというのに、周囲の雑踏に乱れはない。なんと冷たいのだろう。

私は声の出ぬ叫びで助けを求めるのも虚しく手首を掴まれそうになる、その時だった。

「俺の連れになんか用かい?」

男の手を弾き私と男の間にたつ大きい背中の男性。背の高めな例の男よりも大きな峰浦さんだった。

「峰浦さん……っ」

「すまんな、居ない間に怖がらせたな」

そう言って、私の頭をポンと一撫でして、男へ向き直る。

「そんで?こいつになんか用か?」

気のいい表情は形を潜め、今はその筋の人かと思わせる威圧感を放つ峰浦さん。これには周りの人達も足を止める。その周囲の乱れた空気に飲まれたのか、何も言わずにその男は駅の方向へ走り去っていく。それを見届けて、地面にへたり込んでしまう私を見た峰浦さんが手を貸してくれる。周囲の人の雑踏も元通りに戻っている。

「すまんな、これ、お待たせだったね」

「い、いえ……。ありがとうございました」

そういって、私のサンドイッチと抹茶ラテ、それに何やら波線の入った白い紙袋が入ったビニール袋を手渡してくれる。

「これは?」

「あ〜、ホットスナック?ってやつだよ。全然食べないのが不安だったし、待たせたからな、その延滞料金代わりだよ。いらないなら俺が食べるよ」

そう言って先ほど自分用に買ったのであろうブラックと書かれたコーヒーを啜る峰浦さん。恐らく大して買うものもなかったのだろうな、ずいぶん気のいい人で、どこか優しさ漂う姿に、夜の薄暗い階段の先の店でバーテンダーをしている優しくも冷めた男性の姿を重ね合わせる。

「コーヒーとは食べ合わせ悪そうやし、私にくれるなら喜んでいただきますよ、ありがとうございます」

そうお礼をいって私は踵を返して帰ろうとする。

「そいや、沙華ちゃん、まだ時間あるかい?」

「まぁ、まだお店に行くには時間ありますよ?」

「そうかい、ならちょいと付き合ってくれないかい?」

そういって再びコーヒーを一口啜る峰浦さん。私は先程おまけで付いてきたサクサクの衣を纏った鶏肉を頬張りながら、どこに行くのだろうか?さっきのことでなんか言われるのだろうか。そんなことを考える。多少不安に思いながら残った鶏肉を一口でむぐっと口に押し込んで、駅の方角へ歩く峰浦さんの後を追うのだった。


立川という街は駅を中心として、北と南に分かれており、駅の周囲に駅ビル、家電量販店、百貨店、映画館、歓楽街などが区画ごとにある程度秩序を持ち存在している、そんな中私は先程買ってもらったサンドイッチと抹茶ラテ、それに中身のない少し油に濡れた紙袋の入ったコンビニ袋を手に駅ビルの中に来ていた。

「峰浦さん、こんなところに用事があるんですか?」

「そうだな、実は入れ込んだ子に服をプレゼントしたくてよ、髪色がお前さんにそっくりで、上背も同じようなもんだからよ、ちょっと試着して見せて欲しいんだよ」

「そういうことなら……まぁ」

「ありがと!助かるわ」

先程ご飯を買ってもらっただけでなく、襲われそうになったところを助けてもらったのもあるし、断るわけにも行かないだろう。

「さっきの男、知り合いか?」

駅ビルのテナントを物色する道すがら、不意に聞かれる。私はその問いに対して首を横に振る。何かを考えるように一瞬難しい表情を浮かべる峰浦さん。なにか懸念でもあるのだろうか。それともあの男と知り合いだったのだろうか。

「そうか、いや、つまらんことを聞いたね。行こうか」

そう言って峰浦さんが立ち止まるその先に、目的地のテナントがあった。

そこには女子大生と思われる女性達や、カップルといった人達を中心に盛況だった。

峰浦さんが入れ込んでいる人はどうやら若い女性のようだ。実際マネキンにディスプレイされている服もよく街中で見かけるような色合いとデザイン。

私とは違い、都会の中を謳歌する人によく似合いそうな、色合いのコーディネートがされていて、どこか引け目を感じてしまう。

「本当に行くんですか?」

「大丈夫だよ!沙華ちゃん可愛いから!」

相変わらず独特の軽さの口調で私を乗せて、店を物色する。そして気になる服を片っ端から私に渡して、試着室へ案内する。その都度唸りながらも全て褒めてくれる峰浦さん。余程慣れているのか、私一人であれば港に群がる海鳥の如く寄ってくる店員さんすらも近づける隙を見せない。そうして、まずは服を各パーツ二セットほどまとめて買う峰浦さん。僅か三十分程で終わってしまう。ホッと一息つこうと思ったのも束の間、大量の紙袋を抱えた峰浦さんがレジから戻るや否や、再び峰浦さんは違うテナントへ歩き出す。

「次は靴!ヒールのある靴は大丈夫?」

「あまり履きませんけど、低くて太めのやつなら……」

「りょーかい!」

しばらく物色し、数足の靴を持ってきては試し履きさせては、私に意見を聞いてくる峰浦さん。

私は「可愛い」や、「いいですよね。」しか言えないのが申し訳なくなってきて、居心地を悪くして、お店の中にあるソファーに座っていると、すでに二足ほど買い込んでいるのが見える。服はともかく、私の靴のサイズなんか参考になるのかな……。一体あれだけの物を貰うのは誰なのかと少し邪推しようとしていると、会計を済ませて新しい紙袋を再び抱えた峰浦さんがこちらへ向かってきた。

「ごめんね、お待たせ!いこうか」

「全然待ってないですよ、お買い物すごい早いですね」

「まぁ、悩んでも仕方ないしねぇ。結婚相手だけだよ悩んだの、結局、誰ともせずにおっさんになっちゃったけどね」

そう言っておどけてみせる峰浦さん。ずいぶんスパッと思い切りの良い性格なようだ。

そうして、秋物の服と靴を買って沢山の紙袋を抱える峰浦さんと共に駅ビルを後にする。

「付き合ってくれて助かったよ。ありがとね、沙華ちゃん」

「こちらこそ、東京のお店を見れて楽しかったです、こっちに来てからこんな事したの初めて出したから」

「だとしたら、こんなおっさんが相手ですまんな、りんちゃんとかならよかったかな?」

「あの人は多分、服に興味なさそうですよね。だからこんなデートとか出来なさそうですよね」

「確かにな。違いねぇ」

今ここに居ない人をネタに笑い合う二人。そろそろ家に帰って支度をしなくては、何やら今日はりんさんが主体の催しがあるようだし。そう思って広島から身につけてきた思い入れのある腕時計を見る。

「今日は金曜やから、そろそろ支度しないといけない時間かな?女の子は時間かかるからな。家はあのコンビニの近く?」

私が時間を気にしていたのに気づいた峰浦さんが促してくれる。つくづく気の回る人だ。

「そうですね」

「なら、近くまで送ってくよ。俺もそっち側に戻るから」

そういうことならと、私は二人で先程歩いた道を行く。お互い無言のまま多少の気まずさに包まれたときに、峰浦さんに諭される。

「この街は変な輩も多い。昔に比べたら大分マシだけどね。だから今日みたいなやつには気をつけな。まぁ、気をつけてどうにかなる物でもないけどな」

身も蓋も無いことであるが、前半部分は確かにその通りである。

「そうですね、気をつけます。それでも無理な時はまた助けて下さいね」

少し茶目っ気のある返しをする私をみて、頭を書く峰浦さん。照れているのか、めんどくさがっているのかは分からない表情を浮かべる。

「そうだな、けど、次は俺よりもっと適任がいるだろ?」

そう言って少しばかり悪戯な笑顔で私をみる峰浦さんに、私は思わず目を逸らす。この人には私がりんさんに名前のまだつけられない気持ちを抱いていることを見抜かれているのだろうか。出会った当初に比べて打ち解けた会話を広げていると。出会った私の家の近くへ到着する。

「私この辺なので、それじゃあ、ありがとうございました!」

私は峰浦さんの方を向き手を振る。すると峰浦さんは、今まで買った袋を私に手渡し、困惑した私を見下ろして続ける。

「今日退屈せずに過ごせたお礼。平日の昼間に制服着て歩くくらいだったら、その服達を着てやってくれ!」

恐らく、あの服を見に行くと言うのも嘘だったのであろう、けれどこれほど優しい嘘をつく人がいたとは、これを返しても、今までのやりとりを考えても峰浦さんは受け取ってくれないだろう。ここはありがたく頂戴することにする。服に困っていたのも事実だし。

「私の方こそありがとうございます!」

足早に元来た道を再びコンビニがある方面へ戻っていく峰浦さんへ手を振ると、峰浦さんが振り返る。

「袋の中に入ったりんちゃんに封筒渡しといてくれ。領収書入ってるから!」

再び悪戯を企てる子供のような笑顔を浮かべる峰浦さん、角に姿が消えるまで見送った後、沢山の紙袋を持って自らの住処へ戻る。先ほど買ってもらった服と靴を取り出してタグを切りながら、あの人みたいな人も居るんだと暖かい気持ちになる。思えば、りんさんの周りにいるひとはみんなとても暖かい人ばかりである。どうしてなのかは分からないけど、それもいつか見つけれるといいなと思いながら、真新しい服を身につけて身支度を整える。少し気恥ずかしくもあるが、今日もあの店に立つために私は何時もより少し早めに準備を始めるのだった。


昼間に暖かさを与えていた太陽もすでに勤務時間終了間際になったのか、立ち並ぶビルの後ろへ姿を隠し、残光のみが西の空へ残るほどになっている。その夕暮れ時の薄暮に包まれる部屋で今日買ってもらった服を身に纏い、少し新鮮な気持ちで私はあのお店へ向かう。部屋を出て、大通りを少し歩く。今日峰浦さんと出会った例のコンビニの手前の路地の先、そこで異変に気づく。看板とランタンが出ていないのだ。私は薄暗くて急な階段を、ガンガンと音を立てて駆け上がり、伸ばした手でドアを引く。

「りんさんっ、何かあったんですか!」

私はドアを開けると同時に様子を確認する。するとどうであろうか、私に心配の種を植え付けた本人は気持ちよさそうな顔をして、机の上で自らの腕を枕にして夢見心地の様子であった。心配して損した。と思うのと、普段は気を張っているのか気怠そうな中にも凛とした振る舞いでお客様を楽しませている彼の気を抜いた邪気のない子供の寝顔のような場面が見れて少し微笑ましくなる気持ちが同居する。

「りんさんってば、可愛いなぁ……。人が心配したのにっ」

寝ている彼の頭をポンとひと撫ですると、整髪料で固められた少し硬さのある芯の残ったパスタのような髪の毛に私の手は押し戻される。時間は六時を回ろうかと言うところ、営業するには少し早い時間。もう少し寝かせてあげようと、私はバックヤードからタオルケット取り出して、りんさんの肩へ優しく乗せる。

あの時の逆だ……。私はここのお店に初めて訪れた夜を思い出す。

目覚めた時には、ここのお店の唯一のソファーでブランケットをかけられていたあの夜の出来事。そこからまだ一月も経っていないと言うのは未だに信じられないが、それだけ時の流れが早く濃い時をこの場で過ごせて、素敵な常連さんやオーナー、そしてりんさんに囲まれて過ごせて居ると思うと、この人に拾われたのは本当に幸運なことだったなと、無邪気な寝顔を眺めて思う。気持ちをそっと心へ留めて、一つ息を吐く。大きな伸びをして、ぱちんと両頬を叩く。このお店に入って一日も欠かすことのない動き。まだルーティンと呼べる程の年季は入っていないが、いつかそう呼べるようになるまで、ここで頑張っていくという気持ちも込める。

「よしっ!」

自分の声のみが反響する。オーナーの話では金曜と、土曜はりんさんメインの日で通常営業とは異なる日でもうすぐ人でいっぱいになるだろうこの場所も、煤けた自分の地元の喫茶店のオフタイムのような静寂に包まれている。今までは忙しくなるから、私の面倒を見切れないと戦力外通告となっていたが、オーナーとりんさんの会議の結果、今日が私のデビュー日となったのだった。夜のカウンターに立って数週間程となって初めての日程の緊張がなくなって来てはいたが、このオープン前の静けさが私に緊張感を与えてくる。私は店内を落ち着きのない子供かのようにウロウロとしてしまう。

そこで不意に普段は本日のお店のオススメドリンクが書いてあるホワイトボードを見つける。そこには少し不格好な字で『中山 11R』と書かれており、その下に数字の羅列、さらに『各500円 6点』

と文字が記されている。その横には何やら赤いボールペンと緑のボールペンでさまざまな書き込みのされた新聞が置かれていた。そこで合点がいく。少し、りんさん、そしてそれをイベントにするこのお店には少し幻滅してしまう。ギャンブルをやる男は身近にいた、自身の父である。あの人が嫌いだから、あの人の事を好き物は嫌いに見えるという物。本来は良くない事ではあるだろうが感情論でしか語れない物もこの世には存在するのも事実であるのだろう。そうやって自身の気持ちとお店の事で悶々としている時、勢いよく店の扉が開かれた。

「おい!店の看板出とらんやないか!どうなっとんじゃぁ!仕事せぇや!ボケ!」

凄まじい地ならしかの様な大声の罵倒と共にオーナーが姿を現した。

「あ、オーナーおはようございます」

「おう!沙華おはよう!あのバカは?」

私は私の影の椅子であの音量の声を聞いても未だ目の覚めないりんさんを指さした。

その先で寝ているりんさんにオーナーはカウンターの中をガサガサと漁り出し、どこからともなく取り出した風船と、ボールに空気を入れる空気入れを用意する。

(なんでもあるよね、この店……。)

私が思うより先に、空気が漏れないようにテープで口をぐるぐる巻きに縛ってイタズラ好きの少年のような笑顔でポンプを上下に動かしていく。見る見るうちにパンパンになる風船を見て私は両耳に両人差し指を差し込み破裂に備える。だんだんと膨らみ、キュ、キューっとゴムが囀る(さえずる)音がし始める、さらに強く空気を押し込むオーナー。そこから五回ほど空気入れを押し込んだ瞬間、パァンッ!と大きな音がお店に響いた。

「ぅぁっ!?」

「ふっ、ははっ、みっともねぇ声あげよって。目覚めたか?」

腰を抜かして床へ落ちたりんさんを見下ろしたオーナーは相変わらず先程の大笑いの余韻の尾を引いた表情を浮かべている。

「っつ、もっとマシな起こし方あったやろうが!鼓膜破れたらどうしてくれるんじゃ、クソジジイ!」

「お前がここで寝とるのが悪いんじゃろうが!もう店開けるで!今日はお前の主役の日じゃろうが!シャキッとせぇや!」

相変わらずの二人を見て私はどこか嬉しくなる。昨日はあれほど剣呑な雰囲気であったが、あれだけの事で崩れる関係ではないのだろう。と言っても、こうなってはお店の中がぐちゃぐちゃになってしまうので、私は少し仕掛けていく。

「けど、オーナーだって昨日、りんさん追い返した後にここで酔い潰れたじゃないですか、あの後私一人で大変だったんですからね」

「ふっ、ジジイも老けてザマァねぇな!」

「なんやと、もっぺんいってみいや!」

「りんさんも、今日私が来た時には寝てて、私、調子が悪いのかって心配したんですからね!」

お互いに痛いところを私は交互に突いていく。この二人、私より遥かに歳上の大人でオーナーに至っては私の三倍に近いほど生きているにもかかわらず、中身は中学生、下手すると小学生のまま時が止まっているような人達で、こんなんでいいのかと私はよく心配になってしまう。

「「すまねぇ……やり過ぎた」」

そう仲良く、反省する二人。どっちが年上かわからない状況である。

「私看板出してきますね。」

「手伝うか?」

「大丈夫です、りんさんはオーナーと中の方お願いします」

二人の暴走を止めた私は、手書きで描かれた看板と、ランタンを持ち急な階段をすこし重さにまけてふらつきながらもゆっくり降る。

「これでよしっ!」

看板もランタンをセットして、両頬を再びひと叩き。

時間は七時前、今日も空には月が浮かぶ、少し赤みの帯びた不思議な色の月に私は一抹の不安を覚えながら二人の待つお店へと登っていくのだった。


店に戻ると、りんさんとオーナーがなにやら話し合っていた。

「今日は、沙華の独り立ちの日や」

「そうやな」

「……まぁ、ゲートの出たとこ勝負じゃ、あいつも基礎はあるし、後は揉まれて強くなるしかないってもんじゃ。あいつはなんだかんだプライド高いけぇな」

「まぁ……。プライド高い奴こそバーに立つ人間ってじいさん言ってたやろ」

「……そうじゃな。じいさんって自分は誰に口聞いとるんじゃ!」

「すまんって、冗談やって!それよか、今は沙華やろ!」

扉越しにやりとりをを聞く私は無意識だろうか、肩に少し力が入ってくる。私は今日何度目になるかわからない両頬を叩くルーティン。これだけ叩くと頬がチークを乗せなくても紅くなると自嘲して、扉の取手を握って一呼吸。そして蝶番が高い音で鳴くほど思い切って一気に開く。

「なんですか?喧嘩してたのに、仲直り早いですね」

私は二人の絆や縁など分かりきった風を装いながらお店に戻る。

全く同じタイミングではっとした顔を浮かべる二人をみて、私は笑ってしまう。結局どこまでいっても親子のように反応する。口を開く間まで似ているのだ、この人たちは。なぜ私が笑っているのか理解できない二人の顔は少しだけ間抜けで面白かった。

しばらくして、煙草を咥えたオーナーがふぅーっと気流に乗せた煙を吐き出して、切り出した。

「りんはわかってるはずだが、今日は、忙しくなる、沙華は今日が見習いの卒業試験みたいなもんだ。つっても忙しいのはさっきまでそこで寝てたやつくらいだがな」

卒業試験なんて言われてしまうと冷めていた緊張の熱が再び加熱するのを覚える。

「頑張ります!」

「おい、じぃさん、あんま沙華を追い込むなや。沙華も、今日は大変かも知れんけど、今の沙華なら大丈夫や、いざとなればそこのオーナー様がなんとかしてくれるさ」

意地悪げな視線をオーナーに向け、励ましてくれるりんさんの言葉に少しだけ安堵する。

「おい、寝坊や、おまえはどうせ煙草吸うんやろ?やったら看板もついでに見てこい、ビールは俺が診てやるよ」

「ほいよ、任せたぞジジイ」

いつも通り軽快なやりとりをする二人、昨日あれだけの事を言われたりんさんも、悩んで呵責に溺れ酔い潰れたオーナーも、一夜にして元通りになった姿を見て、どこか頼もしさを覚える。ビールのガス圧を調節とは名ばかりにガブガブ飲んでいるオーナーと、口だけで器用に煙草を吸うりんさんを見て、私は少し羨ましく思うのだった。


薄暗い急階段を煙草を咥えて降ってゆく。煙草の煙が目に染みて涙目になりながらも無事に降りる。するとランタンに灯りは燈っていなかった、沙華の付け忘れであろうか。

「あいつ、緊張しとんかな」

そうぽつりと吐き捨てて、ランタンのつまみを回して灯を燈す。

そしてランタンの光に負けぬほどの輝きを放って今日も出勤してきた月を見上げて、煙草を吸う。ふぅっと吐いた煙が雑居ビル群の間からわずかに覗く空へ登ってふっと消えていくのを見て、決戦の時を待つ。そして、新しいタバコをソフトパックを上に弾いて叩き出し、そのまま口にくわえて、先ほど吸っていたタバコの火種をオリンピックの聖火の様に今のタバコに移す。初めはGⅠレースのみの遊びのようなもので、物好きのおっさんが冷やかしにくる程度、これを目的に来てくれるような人は全くいなかった。それが着実に的中と手痛い敗北を繰り返して、今のような名物イベントとして作りあげられた事に誇りと、いつも消えぬ緊張を抱き、二本目のタバコを根元まで吸い切って、靴の裏で擦り上げ残火を消す。今日もいつも以上にお店が賑わいますように。空を揺蕩う月にそう願って、一層暗い階段を上がっていった。


「幻滅したか?まさかギャンブルで人寄せしてるなんて。ってな具合で」

「そうですね、それは少しあります」

私はオーナーの問いかけに僅かな気の迷いを見せながらも同調した。

すると、オーナーは何も言わず、煙草に使い古したチャッカマンで火を付け、淡々と語る。

「あいつは、本当の親父を知らねぇんだ」

「えっ……」

私の驚きをよそにオーナーは続ける。

「そしてあいつが大学進学した時に母親は死んじまってよ、そんでその時、保証人やらなんやらを全部引き受けてくれた気のいい親族のおっさんがいるんよ。母親の従兄らしいが、その人は福山競馬の元騎手にしてその時は調教助手でよ、相当変わり者やったらしいけぇ、親族でだいぶ煙たがられたみたいやけどな、多分、色々揉めて、火種になって親族で煙たがられた依月の事を放っておけんかったんやろう。

自分の子みたいにめちゃくちゃ可愛がってたみたいでな、依月も、もしかしたら馬乗りになるんじゃないか、なんて言われるくらいには馬が身近なところで育ったらしい。まぁ、あいつは自分の事は全く喋りたがらんやつやから、俺も人からの伝え聞やけどな。そんでだ、ある時福山競馬は事業再編で廃止、その母親の兄ちゃんは、めちゃくちゃ落ち込んで、セミの抜け殻みたいになっとったらしい。それからしばらくして、やつが大学へ行ったと知った一ヶ月後。競馬場の調教場があった地で、その兄ちゃんは自殺した。依月が狂ったように泣いたのは初めてみたよ。けどよ、そんなやつがこの店を盛り上げたいって、自分の大事な人を失った原因の馬を、自分の強みは馬だと言ってやってんだ、やからよ、まぁあったかくみてやってくれや」

一人訥々と、りんさんの過去を語ってくるオーナー。

一通り、人の過去を本人の居ぬ間に話して、煙草を半分ほど吸ったところで火をもみ消して、私に頭を下げる。

私は初めてみるオーナーの振る舞いと、自らの父親の関係するものを嫌う習性に葛藤し、ただ、静かに頷く。

別にりんさんの事を、依月さんの事を嫌いになるどころか、最近は、自分でも初めて感じる気持ちを抱いているというのに、尊敬や憧れとも違う感情、私を買ってくれた、見つけて、拾ってくれた事への恩返しなのかはわからない。けれどこの身を焦がしても力になりたいそんな気持ちを抱いて押し黙るのだった。

煙草の箱を胸にしまい、店の扉を開ける。すると、静かに煙草を蒸すじいさんと、なにやら複雑な顔を浮かべる沙華がカウンターを挟んで座っていた。

「どうしたんだ?二人とも、もう営業はじまるで。それに今日は忙しくなるって言ったのじいさんやろ」

「あぁ、そうやな……」

「ですね。」

いつもジジイと呼べば灰皿を投げ、激昂するオーナーが同意し、いつも自分達を諫める沙華は努めて明るい同調を見せた。おかしい、明らかに様子が変だ。

何かあったのか、はたまた、俺の知らぬ間に二人の会話の中にそうさせる要因があったかわからないが、月は着実に登りお客さんがき始める時間に差し掛かってきた。

よっしゃ、今日も頑張ろうで!と言う前に店の扉が開いた、いつもこの競馬予想を楽しみに来てくれるお得意さんだ。

「いらっしゃい」

「「いらっしゃい」」

半拍ほど遅れて聞こえてくる声、おかしい。

いつもなら揃うはずなのに、沙華はともかく、オーナーとは息が合わないことなんてないのに、例え酷い喧嘩をして口を聞かなくなったって、タイミングが合ってしまうのに。不審に思いながらもこのお店にも今宵のピークタイムが訪れようとしていた。


「沙華、オーダー!ビール、ターキー白ソーダー!」

「はっ、はい!」

初めのお客様が来てから奥のテーブル全部以外のカウンターはものの三十分で埋まって、先程までの蛇口の水滴が、ぽたっと垂れる音まで聞こえてきそうな静寂など嘘のような賑わいを見せる店内。一軒目にうちを選んでくれた仕事終わりの方から、この時間にして早めにほろ酔いになったおっさんまでがごちゃ混ぜになり、皆一様に昼間の立場など関係なく、馬の話を肴に酒を飲んで盛り上がる。

「お兄さん!明日中山メインは6-9の馬連が本線なの?僕は来ないと思うんだけどね。しかも対抗馬なんて結構穴馬じゃない?どうして?」

「うーん、負け方ですかね。たしかにこの6番のフラップクラウンって馬は1600万条件前走13着でしたけど、敗因は逃げ馬二頭が競りかけ合ってハイペースにしたこと、この馬ペースが早くなると脚がたまらないんですよ。けど、今回は逃げ馬もいなくてスローになる。元々三歳時にスローからの瞬発力勝負では後の重賞馬も倒した経歴があるんで、1600万条件で相手もそんな強くない今回なら一発合ってもいいと思うんですよね。馬場も荒れてきて前が止まって差しも決まりやすいし」

「なるほどねぇ、もうちょっと考えてみるよ!あ、ホワイトホースおかわりね」

「オーダー、ホワイトホース!濃い目でレモン有りのソーダー!」

「わかっとるわ!、先に作ってるからレモン入れて完成や!」

俺は手の空いてそうなオーナーに伝達する。

普段はオーダーを受けた人が責任を持って出すと言うのが通例なのだが、誰かがメインの人はメインの人は話に集中、場を回すことだけを考え、控えの人がオーダーを作るというフォーメーションを取ることになっている。

先ほどのお客さんからオーダーをとってわずかな時間、某有名ステーキチェーンも驚きのスピードでいきなりホワイトホースのソーダ割を渡される。

「どうぞ、おかわりです」

「僕レモン入れてって言ってないけど?」

少し、意地悪げな態度でクレームを入れられてしまうが、それも理解済み。この人は予想もそうだが、性格も頑固一徹、自分が強いからこそ、大企業のポスト取締役と言われているほどまでに登り詰めて来たのだろうが。

「シャドーロール代わりですよ、今のお客様掛かってますから、少し味を変えて、スッキリしていただいて、思考も変えて、明日の予想をしてもらいたいなと思って」

シャットレモンの三日月のような型をシャドーロールという馬具に見立てたという、

少し、頓知を効かせた返しにいいスーツを身に纏うお客様は意地悪げな態度はなりを潜め、素直に笑って頷いてくれる。そんなやりとりをしている間にもあちこちで予想に熱くなって掛かり通しのおっさん達があーでもない、こーでもないとの水掛け論を繰り広げる。いやいや、今宵の忙しさはまだまだ続きそうである。


「沙華!」

飲み物の催促に、私は頭がごちゃごちゃになりながらもなんとか食らいつく。今日は私の見習い卒業試験も兼ねていると言われてしまった手前、ここで踏ん張らねばならない。と言いつつ、早速グラスを落としてしまう。カシャァッン!と高い音をたててグラスが粉々に砕け散る。

「ごめんなさいっ!」

「後で片付ける!お前はそれ作れや!」

私が今オーダーを受けたお酒を作っているのを見たオーナーからも檄が飛んでくる。私は必死に喰らいつき、受けたお酒を作っていく。涼しい顔して私の三倍は早いであろうスピードでドリンクだけでなくつまみのフードや、お通しの配膳までもこなすオーナーと、喋りながらでも今話している人の周囲三人程のドリンクの面倒を見るりんさんを見て、改めてこの二人のすごさを見せつけられると共に、今の私が如何にお荷物なのかをより克明に見せつけられているような感覚に陥る。仕事中なのにも関わらず、店内の暗い照明を浴びて煌めく涙が溜まる。ここで泣くわけには行かない、悔し泣きは後でもできる。そう強く思い、その涙を瞬きでぐっと押し戻した。

「オーダー、上がりました!」

もう一度、強く頑張りたくて、何時もより大きい声でりんさんに伝え、グラスを渡す。

私が目を合わせなかった事をりんさんは訝しく思うだろう、けど見られるわけには行かない。このお店に拾われた時に決めたのだ。ここでその恩もいつか返せるその日まで、頑張ると。私もいつかこの人の隣に立って、いつか自分の気持ちと向き合いたいから。


一人目のお客様が来店してから、どっと店内が朝の通勤ラッシュのような混雑具合とオーダースピードを見せた店内も、月がそろそろ真上から俺達を見るような時間帯に差し替える頃には、半分ほどは帰り、残りの半分もお酒の魔力に当てられてペースも落ち着いていた。そんな時、カツカツと、階段を上がってくる音、しかも複数、誰だこんな時間に?と思いつつ、どうせあのうちのヘビーユーザー達であろうあの人達の顔を思い浮かべる。

「じいさん、多分楓香さんと、谷川さんだ」

「おう!あとじじさんじゃない、不義理な事言っとったら頭かち割るで?」

「やめて下さい、外でしてください!」

俺たちの即席漫才にも満たないじゃれあいを肴に残った酔いどれ達の笑い声が聞こえてくる。

そう思ったのも束の間、予想通り扉が開く。

そこには予想通り楓香さんと谷川さん、と今夜はもう一人、峰浦さんまでいた。

「「「こんばんは〜」」」

僅かな間があって、三人が息をそろえたように、挨拶をしてくれる。まさに常連客をこえた、最早友達かのような感覚である。一人を除いて。

「お、峰さん、珍しい。いつもは女に振られた時くらいしかこんのに」

「お〜、りんちゃん、久しぶり!今日はここにお客さん持ってかれて商売上がったりだからね、復讐もかねて。それに、楓ちゃんと谷川くんにあったしね」

「けっ、言ってろ。峰には駆けつけ消毒液でも飲んでもらうか?」

「マスター、そりゃ勘弁してくださいよ。死んじまいますって」

「あ、峰浦さん、いらっしゃいませ!」

「おー、沙華ちゃんもお疲れ様〜」

「二人、面識あったか?」

「りんさんには内緒です」

軽快なテンポで、話す六人。最後の沙華と峰さんの雰囲気には少し気にかかりつつも、先程まで使われてこなかった、奥のソファー席に案内する。

「峰浦さんは、私達と一緒でいいんですか?」

「そうだね、僕らは別にあれなんだけど」

「いいよ、いいよ、たまにはみんなで飲むのも悪くないでしょ」

峰浦さんに気を使う常連二人に意にも返さず、どかっとソファーに腰掛けてポンポンと叩き、座るのを促す。珍しい、この人がうちに来るときは大抵入れ込んだ女に振られたかひどい捨てられ方をした時、自棄酒を浴びに来るくらいしか出没しない。他に何か用事でもあるのだろうか。そう勝手に勘繰っているとオーナーが例の三人に問う。

「何飲むよ?」

「うーん、お任せかな?」

「私も!」

「俺もそれでいいや」

「おう、それじゃ、とっておきを出すか。とっておきの場所で。りん、もう俺ら居なくても回せるだろ?店」

「まぁ、このくらいなら大丈夫だ。どっか行くのか?」

意図が分からず、惚けた顔でオーナーに聞く。

「ちょいとな。おい、みんな、ちょっとついてこい」

そう言って、カウンターの下を漁り、一本のボトルを手に取るオーナー。そして、手慣れた様子でロックグラスを六つ、それを一人一人に配る。

「よぉっし、じゃあ、上いくわ、りん。あとは頼んだ、なんかあったら呼びにこいや」

そういって、バックルームへみんなを通す。しばらくして、ドンドンっと風雨に晒されて金属が疲弊した古びた非常階段を上がっていく複数の足音。どうやら今夜は屋上で宴を開くらしい。

「お兄さん、上にも、席あんのかい?」

まだ残ってくれている、今日のお客さんに問われる。

「いやぁ、特別な席なんですよ、まぁ、席なんか無いですけどね」

「なんだ、そりゃ、謎かけか?」

「そんなことよりゃ、馬券の話でしょ、それが出来ない位酔ったなら、早いとこ帰った帰った!」


オーナーに連れられて、以前、私が勝手に楓香さんに妬いて、駆けて行ったバックルームの奥の扉へ通される。

「楓ちゃんと、沙華は先いけや」

そう言って、オーナーはバックルームのあまり整理されていない物置のようなクローゼットをガサガサと漁り中身の詰まった袋を六つと取手のついた大きい板を取り出し、袋の方は谷川さんと峯浦さんへ投げつけた。

「とれよ、お二人さん」

「おっとっ」

「物をなげないで下さいよ。結構重いし、これ」

袋を三つづつ投げつけられ、それを抱えたおじさん達を尻目に私と楓香さんは扉を抜けて先に上がる。

錆びかけた非常階段を上がった先、お店のあるビルの屋上に来ていた。私は、以前ここでりんさんの胸の中で慰められるという思い出すだけで、頬がほんのり熱くなり消してしまいたい記憶を思い出してしまう。遮るものがなく一面に空を見上げることのできる屋上。

「へぇ、たまには外で飲むのもいいかもですね」

「そうだね、秋の夜長の月見酒だね」

「この街でそんな洒落たことするとはね」

突発的な事故で来た私と違って、初めて来たであろう三人は、それぞれ個性あふれる反応を見せる。

「ほら、さっきの袋開け」

オーナーは先程持ってきた板を開き、机にしている。

そのあと、ぐずぐずする二人から袋を奪い取り、テキパキと中身を取り出し組み立て、椅子にする。

「くそ、つかえねぇな!」

などと手こずる二人にぶつくさ文句を言って、奪い取り手早く椅子も組み立てる。

即席のテーブル席の完成である。なんでもあるよね。このお店。

「たまには、外で月見酒ってのも悪くねぇやろ。そんなことより、酒だよ。」

そう言って、封の空いていない瓶を得意げに出すオーナー。何やら茶色のウイスキーのような液体である。

「ウイスキーですか?」

「いや、これはラム酒だ。うちにはあんまおかねぇけど。たまにはな」

オーナーは、手慣れた様子で瓶の蓋を弾くように開け、そのままロックグラスに適当に注いでいく。

「よっしゃ、じゃあみんな、早よ持てや!」

オーナーに促され、私達はグラスを持つ。

「沙華の見習い卒業おめでとう記念や!乾杯っ」

「「「乾杯!」」」

オーナーの思いもやらぬ言葉を聞いてはっと、なる私を置いてけぼりにして、酒をあおる大人たち。

今日の私は、最悪の出来だった。グラスも割って、オーダーも止めて、自分の不甲斐から、光に反射して周りのお客さんに見られてしまってはいけないからと、耐えていたものの、目に涙まで滲ませてしまったというのに、それをオーナーは『ようやった』と評価する。その意味が今の私にはただの当て付けかのようにしか思えない。

「沙華も飲め!この酒はなかなかの代物だ。それにこれは峰の奢りだからな!」

「えっ、うそ?!マスターの奢りじゃないのかよ。でも、それなら尚更、今日の主役にはいいお酒飲んで貰わないとね」

「まぁまぁ、沙華ちゃんも飲みたくないんじゃない?それに、まだそんなお酒も飲み慣れてないんでしょ?それなのに、こんな強いお酒を飲ませようとするなんて、やっぱ男って最低。沙華ちゃんも飲まなくてもいいんじゃない?雰囲気だけで」

私の暗く淀んだ空気を察したのか、楓香さんが私にフォローを入れてくれる。あの日、お店の前の階段でりんさんとキスをした瞬間をみたあの日から、まだ距離感が分からない。もし本当にりんさんの事を物にしたいなら、一緒の職場にいる後輩ポジションの女の子なんて、いかにも泥棒猫ポジションだし、目障りであろうはず。落ち込んでいるところに助け舟を出すなんて持ってのほかであるだろう。私ならそう思っているだろう。などと一人、黒い思惑を勘ぐっていると、ダメンズ男三人衆はゲラゲラと笑い出した。もう酔いが回ってきたのだろうか、それともヤキが回っているのか、どっちもなのかはわからない。

「けっ、言ってろ。てめぇは勝手に飲んで潰れて、行きずりの男と事故ってるだけだろ!」

「俺でも楓香ちゃんとは、ねぇわ。酒癖ひでぇし」

「僕も離婚しても楓香ちゃんとはないなぁ、永遠の飲み友達って感じ?超えられない一戦、やれない聖戦みたいな」

一様に楓香さんの酒癖を否定しているが、貴方達が、言えることではないであろうと思ってしまう。

楓香さんもれっきとした女性である。酒癖は確かに二癖くらいあるけど、などと私も失礼な事を考えていると、横から話し声が聞こえてきた。

「あ、もしもし、りんくん?デリバリー頼みたいんだけど、腐った男三人の息の根止めれるやつ」

電話で下の階のりんさんにオーダーを通す青筋立てた楓香さんの顔を見て、笑顔のまま凍りつく三人衆。私はそれをみて思わず笑ってしまう。なんてしょうもないんだろう。けど、この輪の中にこんな小娘の私が入れることに感謝をしながら、とびきりのラム酒に口をつける。はじめてのラム酒は少し塩味の聞いた大人の味がした。

「ふぅ、良かった、主役が笑ってくれて」

「そうだな、見習い卒業おめでとさん」

「そうだね、楓香ちゃんも笑いのネタにしてごめんね」

笑って済ませようとする三人衆。

「え?それとこれとは話が別ですよ?」

下手すると、私の同年代か、二、三個ほど歳上にも見える可愛らしい笑顔を浮かべているが、全く瞳の奥は笑っていない。

「「「……」」」

凍りつく三人衆。

どうやら、今日もまともに帰れる人は居なさそうだと、先ほどより甘みの増したラム酒を啄みながら、眺めるのだった。


夜も大分更けてきて、熱気と狂気に溢れた競馬ファンの集いも終わりが見えたころ、カウンターの隅に置いた電話が鳴る。

こんな時間にかかってくる電話なんて、いい内容の物はほぼないであろう。かと言って出なければさらに面倒だろうし。極めて後ろ向きな理由でカバーを開き、電話に出る。

「はい、もしもし」

「あ、もしもし、りんくん?デリバリー頼みたいんだけど、腐った男三人の息の根止めれるやつ」

少しかったるいと思う気持ちが出たような口調になってしまったが、電話の向こうのお相手からは陽気な声が聞こえてくる。内容は物騒だが。

「はいよ、適当に見繕っていく」

「なんだなぁ、女か?兄ちゃんも隅に置けないね」

「だとよかったですね……」

このイベントの常連さんの物言いをさらっと交わして、オーダーの条件になりそうなものを探し始める。

「はぁ、俺も巻き込まれんのかなぁ」

明らかに巻き込まれるのがわかっているからこその言葉が口から溢れてくる。俺はまともな状態の人が一人も居ない、嵐の過ぎ去った爪痕残る空間でオーダー通りの酒を探し始めた。ガタガタとカウンター下の有象無象の酒瓶が押し込められた棚をガチャガチャと音を立てて漁る。するとだいぶ奥に果実酒などを漬け込むための年季の入った煤けたディスペンサーが出てきた。油とアルコールが糖化して混ざってベトベトする瓶の中には細い鱗の付いた何かが入っていた。瓶を引っ張り出して、近くにあったダスターで汚れを拭き取っていく。すると中の物体の正体が明らかになっていく。

茶色く靄がかった色をした液体の中に瓶の主が鎮座する。だいぶ年代物のハブ酒であった。なんでもあるなこの店。飲むのはどうせあの三人だろうし、死にはしないだろう。

「ちょいと届け物してくるから、待っといてください」

「あ〜、おう……」

手短にカウンターに座る酔っ払いに言伝をして、発掘した酒を抱えて非常階段を上がる。冷たい冬の気配を匂わせる風が先程までの熱気に包まれた身体をすっと冷やしてくれる。

「さみぃ〜な、じいさん達大丈夫かな」

自然と早足になって階段を上がって行く。次第にやかましい男の野太い笑い声が複数聞こえてくる。どうやらだいぶ喧しくやっているようだ。

「おーい、葬儀屋の登場だ」

最後の階段を一つ飛ばしに登って、少し早足になりながら、先程発掘した香ばしいハブ酒をデリバリーすると場が凍りついた。

「それは殺す気か。少し労われや」

「そうだな、そのまま潰れて、永眠(ね)てろジジイ」

「お前!そんなこと抜かしよってからに!オーナーである以上に、お前をここまで見てきた恩を仇で返すんか!」

そのまま揉みくちゃになる俺とオーナーを、周りの四人が止めに入る。

「じぃさん、りんちゃんも!落ち着けや!」

オーナーは俺の首元から不機嫌そうに手を引き、座っていた椅子に再び身体を投げ出して、グラスの半分残っていたラム酒を一気にあおる。

「けっ、老人を労る気持ちはないんか。お前ら」

(有り得ん速度で灰皿投げたり、今でも俺より腕相撲強い老人がいてたまるかよ)

そう思ったものの口にしては先程の繰り返しになることは分かる。俺も馬鹿ではない。

オーナーの呟きを無視して、話題を変えることにする。

「それでよ、楓香さんからデリバリー頼まれて、おもろそうなもん見つけたからこれ置いてくわ」

「あ〜、ありがとう!」

机の上に置いたディスペンサーにふてくされたじいさん以外の目線が集まる。これから飲む事を考えた二人はバツの悪そうな顔で、そろりと逃げ出そうとする。

「だめですよ、失礼な事言った、お二人さん?」

「あ、おう……」

「いやぁ、ちょっとトイレに……なんでもないです」

あえなく蛇に睨まれたカエルのように縮こまる男二人の背中はいつになく小さく見える。そんな二人を尻目に沙華はビンの中身をしきりに気にしていた。

「これ、なんですか?てか、飲めるものですか?なんか居ますよ、これ」

「ハブ酒だろ、多分、下の棚の奥に眠ってたから持ってきた、息の根止めれるってオーダーだったからな」

「これがハブ酒……」

初めて見たであろう代物をみて、興味津々に中のハブを見つめる沙華。蛇や昆虫類といった物を嫌いな女性はおろか、男ですら多いのにこいつはどうやら平気なようだ。これで、怯えてくれたり、派手なリアクションをしてくれれば可愛げがあった物だが、どうやら見たかった反応は見れないらしい。

「……そりゃあ、お前と同い年だよ。二十五年物になる。お前とこの街に来たときに仕入れたんだよ。まぁ、記念樹みたいなもんだ」

ふてくされたじいさんが煙草に火をつけながら語ってくる。赤ちゃんが生まれた時に桜や桐を植えて、その子が結婚する時に切って箪笥や家具にするなんて、風習のある記念樹代わりにハブ酒とは、相変わらずであるな。この店らしいけど。

「へぇ、じぃさんがそんなことするとはな」

「たまたまだ、仕入れた後で知ったんだよ」

「ふっ……。言ってろ」

俺の牽制に面白くないと言わんばかりの顔をして煙草を蒸すオーナーを尻目に

俺は近くにあった、グラスに少し、ハブ酒を注ぐ。そして、ぐっと一口で煽る。

「っくっ、きっついなぁ、けど、いいやつだなこれ、臭くねぇ」

「そりゃあ、ちゃんと管理してたからよ。お前だって初めに比べたら青臭さも抜けて、野良犬から飼い犬になったじゃろうが」

今度は俺が不機嫌な顔をする番だと言わんばかりの返球に少しばかり反応に困っていると、沙華がオーナーにねだる。

「じゃあ、私にも同じようなことがあるんですかね、何年か後に」

オーナーは、少しばかり口角をあげて答える。

「まぁ、そうだな」

まぁ、この掴みどころのないじいさんの事だ。なんか考えているのだろう。その時までの楽しみなのか、覚悟を決める時間なのかは分からないが。


随分長いこと話して身体の芯に応え始めてきたので、俺はそろそろ店に戻ろうと、片手を上げた。

「そんじゃ、店戻るわ、風邪ひくなよ〜」

非常階段を降り、半階ほど降りた踊り場で煙草を取り出して、火をつける。

「きっついって!」

「これすごいよ、飲めないって!」

「こりゃきつい。りんのやつよく飲んだよ!」

先程デリバリーしたハブ酒を食らったであろう峰浦さんと谷川さんそしてオーナーの断末魔とも言える感想が聞こえてくる。

楓香さんの逆鱗に触れた三人の喧騒を聞きながら火種が手元まで来て短くなった煙草を、いつものように靴裏で擦り上げて消した俺は、軽く伸びをして降りかけの階段を再び降りだす。先程の酒が効いたのか一瞬足がふらつくのをこらえながら。上の奴らは気になるが、今は自分の事だ、残り少ない今日のイベントをいつも通り無事に終えるため、すこし酒でふわっとする頭を抱えて店の裏口を開いたのだった。


「じゃあ、お兄さん帰るよ。明日勝ったらまた来ることにするよ」

「はい、また!明日はあんまり自信ないですけど」

「そう言って当てるのが兄さんだからなぁ」

「たまたまですよ」

「おっと、また長居しちゃいそうだから今度こそ帰るよ、ご馳走さま!」

「はい、また!」

改めて、最後のお客さんを見送って、一人、息を吐く。

扉が閉まり切った瞬間、ふらっと目の前が揺れる。仕事中では気を張っていたが、終わった瞬間に気が抜けて酒が一気に回ったようだ。棚からグラスを手に取り、水を一杯注いでそのまま飲み干す。ぼやけた視界がすっとピントが合って見えてくる。酒を知って間もない時は楽に水なんか飲まず、よく自分の限界にぶち当たりトイレの床を汚したりと、色々と無茶をしたものであるが、今となっては水ほどありがたいものは無いと思う程にはお世話になっている。携帯で時間を確認すると三時七分の表示、いい時間である。こんな時間まで外で酒盛りをしている五人が少し心配になる。もう晩秋の深夜と早朝の境界線のこの時間帯の風は体に障るだろうし。

酔っ払いがいてもいいように酒の空き瓶に水を詰め、ブランケットを二枚棚から引っ張り出した。

うちの野郎どもは頑丈だけど、沙華と楓香さんは少し寒さに堪えているかもしれないと、要らぬ心配かもしれないが。

両手が埋まった状態で半開きの裏口を体で押し開いて、階段を登る。ぎぃぎぃと一歩踏み締めるたびに軋む金属音を響かせながら登っていくと、次第に金属音をかき消す男女の爆音の笑い声が聞こえて来る。近所迷惑にも程がある。

「うるせぇよ、もう店閉めたぞ、あと、水。それと、沙華と楓香さんにはこれを」

そういって、女性陣にはブランケットを差し出す。

「ありがと〜、りんくん。好き!」

「あ〜、はいはい。ありがとうございます」

酒臭い身体をまとわりつかせようとする楓香さんを椅子に戻す。大分不服そうな顔をしているが、面倒なので、あえて反応しない。

一方、おそらくお酒をほとんど飲んでいないであろう(飲んでいるのも不味いけど)、沙華はブランケットの中に体に埋めながら震えていた。瀬戸内育ちの沙華にはこの時期の立川の夜風は大分堪えるのかもしれない。俺は上着に羽織っていたジャケットから、煙草とライターだけを取り出して、そのジャケットを沙華へかけた。絶対キザだと思われるが、風邪を引かれるよりマシだと自らを納得させる。

「二枚しかブランケット持ってきてないからそれで我慢してくれや」

「…っ、タバコ臭いです。私の服までタバコ臭くなるんですけど?クリーニング代。立てて下さいね?」

突然の事で目を丸くしたのも束の間、いつもの口調を取り戻した沙華の一撃。人の好意に仇で返すとはなんと失礼なやつだ。まぁ、タバコ臭いのは事実であるので、言われても仕方ないと思っているところで、八つの視線が集まっていることに気づく。

「けっ、かっこつけしいことしよってから」

「りんちゃん、キザだね〜」

「次は私だね!」

「若いっていいよねぇ〜」

歳上の奴ら各々が好きなことを言ってくる。一人おかしいのが混じっているが、思わず今自分がやったことをした事を思い出して、羞恥心に火が灯る。こうなるのは分かっていたが、先程のハブ酒の力に押されていると思いたい。

「やっぱ、返せ!」

俺は自分の上着を沙華から回収しようと手を伸ばすと沙華にかわされてしまう。

「やですよ!寒いし」

「けっ、言ってろや」

そう吐き捨てて、先程ジャケットから取り出したタバコのソフトパックから一本取り出して片手でラターを擦り、シャッと火をつけ、ひと息。

「りんさんって、気難しくなった時にタバコ吸いますよね」

突然の沙華の指摘に俺は心臓を掴まれたかのような錯覚に陥って、思わず動きが止まる。

「図星ですか?」

「そんなうぜぇ顔で見んなや」

たしかに図星だった。俺は無駄な足掻きをする。無駄だと分かっているのにしてしまうのは何故だろうか、男のプライドなのかもしれない。

俺の足掻きをみて、不気味さと優しさの織り合わせた笑顔で俺を見る大人達。つくづく不快極まりない。今日は俺が肴になるようだ。

「なんですか?」

「別に?今日は若いウイスキー飲んでるみたいだなって」

「確かに!」

「峰の癖にええこというのう」

「峰の癖にって!そりゃひどいですよ!」

「りんくんと、沙華ちゃんの若さに乾杯だね」

「けっ、言ってろや。あー、酒くれ!あのラム酒俺まだ飲んどらんのんやけど?」

「お、ええで!これ飲んで色々忘れろ、後で倍になって返ってくるけどな」

オーナーの一言には聞かぬふりをして。一時の気恥ずかしさから今日も今日とて酒に魂を売るのだった。


俺が酒に魂を売り払い、初めに飲んでいたラム酒だけでなく、後から(勝手に)持ってきたボウモア・テンペストの十年もみんなして飲み干して、酩酊期に近くなって、視界も揺れ始めた頃、遠くの空が微かに明るくなるのを感じる。

「もぅ、朝やぁ、帰ろうで〜」

「りん、お前飲み過ぎや!みっともない〜、俺みたいに+$¥%#$……」

「オーナーも人のこと言えませんから!捨てて帰りますよ、二人とも水飲んでください」

酔っ払った子供のような大人二人に呆れる沙華に水を渡される二人。その光景を見て常連さん達が沙華に絡む。

「まぁまあ〜、沙華ちゃん。オーナーはともかく、りんちゃんは仕方ないって〜、こいつだってキザなことして恥ずかしかったんだと思うよ〜……うっぷっ」

少し飲み過ぎ感のある峰浦さんに谷川さんと楓香さんが同調する。

「そうだね、りんくんもいろいろあるんだよ!たぶん!」

「りんくんが酔っ払ったとこなんて〜、わたしみたことない〜!」

「皆さんも水!」

そう言って、強引にでも水を飲ませる沙華の成長著しい姿を見て、アルコールの副作用である睡魔に主導権を乗っ取られ、俺は眠りに落ちるのだった。


おかしい。私が主役だったはずなのに。

私はなぜ、介抱しているのだろう。私は一体、何を悩んでいたのだろうかと思わせるほど混沌とした様相。普段とは違うりんさんの一面を見れたことは、少しはこの場に馴染めた証拠なのだろうけど……。

少しイメージの変わった先輩に目を移すと、この一瞬で静かな吐息を吐いて寝ていた。

「りんさん!外で寝ない!風邪ひいても知らんよ!」

「うるせぇ〜……ぅっ……」

少しイラッとした。私の心配を無碍にするとは、明日もこの人メインの日なのに。

「オーナー、灰皿」

「お、おう?ほらよ」

少し険しい顔をしたオーナーだったが、新しい灰皿を私に貸してくれる。その薄いステンレス板をプレス形成で作られた灰皿を私はりんさんへ投げつける。

渾身の私の立川での初球は見事にりんさんの頭高めに決まりカァァンっと、どこぞの新喜劇のトレーで殴られるコントのような甲高い音が響く。

「っ、いってぇ!!」

その音とりんさんの痛みの叫びを聞いて、ギョッとした表情を見せるその場に居る酔っ払い四人組。

「りんさん……目覚めました?」

こくこくと力なく縦に首を振るりんさん。

「良かったです、他の皆さんも、起きました?」

「お、おぅ、寝てねぇからな!よしゃ、帰ろうや!」

「そうだね、片付けよ!」

先程の音を聞いて目が覚めたらしい四人はすでに若干西側が明るみだしてきた空の下でバタバタと片付けを始めだす。

一方、りんさんは、何が起こったのか分からないといった表情のまま固まっていた。そこで私は先ほどかけられたジャケットの上着をりんさんの肩へかける。

「風邪ひかれても困ります。明日もあるんだし。でも、少し意外な一面も見れて、私も仲間になれたのかなって、思えたから。たまになら悪くないですね。」

「すまん……。飲み過ぎた。けど、俺はお前を拾って、この店で働くようになったその時から仲間やと思ってる。やからそんな外から見んな。もっと中に入ってこい」

少し間の悪そうな顔のりんさんは、ポケットをガサガサと漁りタバコを取り出して口にくわえた。

「タバコ、やめたらいいじゃないですか?この上着タバコ臭いですもん」

私は、くわえられたタバコをりんさんの口から抜き取る。

ハッした表情をしたのも瞬間的で、すぐさま不機嫌そうな吊り目で睨まれ、一瞬の早業でひったくられて再びりんさんの口に戻り火をつけられるタバコ。

「ほっとけ、俺の勝手や」

「まぁ、ですけどね」

「先戻ってろ、吸ったら戻るよ」

「おい、お前ら、帰るで!先降りとるけぇ、すぐ来いよ」

「はーい、すぐ戻ります!」

オーナーから帰投命令に、私は応える。無言で煙を吸うりんさんは相変わらず無反応。

「りんさん、先戻りますね」

「おう」

素っ気ない返事に、もう少し愛想良く出来ないのかな、私も人のこと言えないけど。心の中で悪態をつきながら私はお店へ繋がる錆びた非常階段に足をかける、その場を動かずタバコの煙を薫らせる先輩バーテンダーを一度見て、私はお店へ戻る。

心の中で一つ決意して。

『明日は今日より、りんさんに並べるように』


沙華が非常階段を降って行く音を聞きながら煙草を吸う。先程かけられたジャケットは少し暖かさを感じる。沙華の温かみなのかと我ながら気色悪いことを考えてしまったと、煙草の煙を大きく吐いて考えを切り替える。今日は酒に呑まれたと少し自己嫌悪と、呑まれた姿を沙華に見せて、叱られてしまったと、まだお酒の残った頭で自らの今日を顧みる。風が凪ぐ前の最後の夜風に煽られて、ぽとっと落ちる煙草の灰が地面に落ちる時、先程の投げられた灰皿でタバコをもみ消し、少しふらつきながらも立ち上がる。

徐々に明るくなる空に背を向けて、明日も来る夕暮れ期に向かうため、俺は店に戻るのだった


りんを起こした沙華と、しばらくしてフラフラしながら手伝うと降りてきたりんを無理矢理追い返し、足取りが怪しい楓ちゃんを谷川に任せ、峰と二人、店の閉店作業に勤しむ。「最近は二人に任せきりやったから、たまには俺がやらんと」と峰を無理矢理残して売上げ計算をしている時、カウンターを磨く峰が耳の痛くなる一報をくれた。

「そいや、今日、昼間に男に近づかれましたよ、沙華ちゃん。俺は初め平日の昼間だってのに、ここらじゃみない制服姿で街を歩いてたから、援交かなんかを狙ったサラリーマンかと思ったんですが、奴は顔しか見てなかったし、援交なんかするなりをしてなかったんですよね。一応、沙華ちゃんに制服以外の服を見立てたんですがね。もしかしたら付けられてたのかもしれませんね」

まぁ、こいつの言う事が本当なら少し厄介なことになる。

「……それで、制服姿じゃなくて垢抜けた格好で帰ってった訳か、そこまで気が付かなかった俺にも責任があるかもな、あいつも年頃だしな」

そういって、俺は財布から乱雑に万券を数枚抜いて手渡した。

「お前のことや、請求書あるんやろ。直接やなくてりんか沙華から回してくるんやろうが、やったら先に渡したるわ」

「やっぱ見抜かれてましたか。だって、オーナー怖いですもん。けど、これは気前いいですね、これ儲け出ちゃいますよ」

ひょうきんな笑みを浮かべ上機嫌の峰を。俺はにやりと不敵な笑みを浮かべながら、横目に睨みつけた。

「それでよぉ、頼みがあるんだけど、聞いてくれるか?」

「あ〜、そう言うことか、じゃないとこんな気前よくないよなぁ、きついことだけはやめてくださいよ?」

まんまと罠にハマって先程の笑顔から一転、苦笑いを浮かべる峰に一つのお使いを頼んだ。

いずれ必要になる時だしな。その時合いがすぐそこまで来たそれだけのことだ。と、少しのお使いを頼む。

「区間はこれですよね、分かりましたよ、買ってきますよ。面白そうだし」

「助かるよ。流石、立川夜の便利屋だな」

「脅しとしてよく言いますよ」

ブラインドの隙間から一日の終わりを告げる朝日が差し込み始めた時間の一日の終わる間際の一瞬の談合であった。


「はぁ、りんくんは沙華ちゃんの事どう思ってるんですかね?」

「さぁね、けど後輩か妹くらいに思ってるんじゃない?今日はりんちゃんの方が弟ぽかったけど」

あの店の特等席でいいお酒をタダで飲んだ帰り道、西の空にやや明るみが見えて、まだもう少し太陽の出勤には猶予があるといった時間帯、私は谷川さんと共に、線路下の地下道を北に抜ける途中、少し愚痴っていた。

「私、なにやってんだろ」

ぽろりと、谷川さんにこぼす。

「まぁ、キスしても、何してもりんちゃん興味なさそうだもんね、なんかお客さんだからって一線引いて踏み込まないタイプじゃない?」

谷川さんは私が思っている通りの分析を私に返してくれる。それを思うからどうにもなんないってのに。

使えないなこの男。よく二回も結婚出来たものだ、私ならお断りだ。まぁ、様々な相手からお断りされて私は売れ残っているわけだが。

「まぁ、そんなところがいいんですけどね。二回も離婚するような男には分かんないかもしれませんけどね」

「まだ、離婚してないけど、調停中!」

意味する事は同じ事であると思うが、面倒になりそうなので油は注がないでおく。

「は〜、分かんない!あれだけ気を回すも読むのも上手い癖に、人の気持ちは見て見ぬ振りなんて!」

「まぁ、そんなもんだよ」

「うっさい、バツ2」

「だっ……まぁ、いいや」

「この歳になるまでまともな恋愛してないからなぁ、その場その場な事ばっかり。」

「まぁ、悔やんでも仕方ないよ。俺だって、婚姻届出した時に戻りたいし。」

どうやら、ここで話していても出てくるのは互いの愚痴だけで、自分の求めた答えは無いようだ、何を求めているのか自分でも分からないけど。

「飲みますか」

「そだね、飲み直そうか」

そう言って、答えの出ぬ問答をする二人は日が高く登るところまで酒の力で回答を求める

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