一章 夜露に濡れる彼岸花

午後七時、この店の正装であるワイシャツと黒のスラックス、そして茶色の革靴へと着替えて、煙草に火をつけ、まずは一服。そしてその煙草を口に装備したまま、階段を降り、目の前の通りギリギリの敷地内に看板を出す。その下にランタンを置き灯りを灯す。オーナーの趣味で未だに白熱灯のランタンを使用しているが、これがなかなかに面倒で、寿命が早い上に、LEDに押され、今時なかなか手に入らない代物である。

「ふぅ〜、とりあえず今日も一日頑張りますかね」

煙草を根元近くまで吸い、靴の裏で消そうとした時。

「りんちゃん、お疲れ様!」

フレンドリーに話しかけてくる、身体がゴツく、身体の大きさ以上に威圧感のある30代後半の男、浦峰慎二が話しかけてきた、ここらの夜のお店の案内人、キャバクラなどの夜の店の客引きである。

この人とは休憩中にこの街の情報交換をしたり、たまにこの人の担当のお店へ遊びに行ったり、逆にうちで一杯煽ってくれる仲、いわゆる夜の付き合い程度の仲である。

「あ〜、峰浦さんこんばんは!今日は早いんやね、まだ七時ですよ?」

まだ夜の帳も落ちきらぬ時間、この人の活動時間にしてはちと早い。

「あ〜、今日は野暮用があるからね、ちょいと引く前に寄るとこがね、つってもコレじゃないから」

慎二さんは笑いながら小指を上げる。

「どうだか、まぁ、また今度お店に寄ってくださいよ、なんかサービスしますよ」

「おたくのマスターにきついやつ盛られそうだから、マスター居ないときに息殺して行くよ!鬼の居ぬ間になんとやらってな!」

よっぽど、うちのオーナーが怖いのか、それとも先を急ぐのか、そう言い残して、まだまだ夜の深まる兆しのない街へと消えてゆく。

火の消えたタバコを近くの水と吸殻の溜まった缶へ投げ入れ、薄暗い階段を登る。

(そいえば、昨日のあの子は来てくれるんかな……)

希望的観測も込みで、心のどこかで普段の開店時とは違う心持ちで俺はお店の扉を開けた。

この店に来てまずやるのは、ビールのガス圧を調節することである、ビールの樽に、気温によって反応するガス圧を測るシートを押し当てる、おおよそのところまで調節した後は、自らの舌を信じ、ビアタンブラーに二口分ほど次飲んでは、調節を繰り返す。

「ふぅ、今日はこんくらいにしとくかな」

何も返事もない中(あったら怖いが)、お決まりのセリフを吐きながら煙草に火をつける。

今日は調子良く、五分ほどで秋に合わせて気持ち弱めなガス圧に調節し終えてから、次はオーナーが仕込んだ、酒のアテとなる物を実際に出せるようにする。

いつもはお昼のうちにオーナーが作るのだが、稀にオーナーが休みの日は俺自身が仕込みからする、料理はあまり得意ではないのだが、これを楽しみに来てくれる変わったお客さんも居るため、手は抜けないのである。

「今日は、貝柱の時雨煮か、一口つまんでやろうっと」

貝柱を一つ箸でつまみ、鍋の火を見ながら口へ放る。

「やっぱ、うめぇな……、悔しいけど」

味は男らしい濃い味のものが多いが、お酒と一緒に味わうことを前提に計算されているところがまた腹の立つ男である。バーテンダーとしての腕も確かで、ジジイのいる日には、その酒の味を求めて、様々な企業のお偉いさんも足を運ぶ、ちなみに自分の時間には変わった常連さんか、若い社会人、ませた大学生や、仕事終わりの夜の蝶と言ったような、いかにも地方都市のようなバーの客層へと様変わりする、ムカつく爺さんではあるが、流石は師匠と認めざるを得ない、認めたくはないが。

ジジイを認めたくないと思いながら、そのジジイが作った貝柱の時雨煮をつまんでいると、階段から足音がカツン、カツンっと小刻みに聞こえてきた。

(この足音は女性物のパンプスか……?誰だ、こんな時間に)

このお店にまだ夜も更けぬままの時間、周りの飲食店に一番活気のある時間に来るお客さんなどそうは居ない。

ジジイの知り合いのお偉いさんか、はたまた時間も日付も関係ないうちの常連か。はたまた、たままた迷い猫の様に迷い込むご新規さんくらいである。

次第に明確に足音が聞こえるようになり、ドアを見つめると、程なくしてドアを開けて、身長は155あるかないか、ダークトーンでややショートの茶髪、主張の強いピアス、ややベージュのような淡いピンクのようなコートを纏ったロングスカートのある意味で狼のような八重歯が特徴的な女性がこちらに手を振りながら顔をだす。常連さんその一である。

「りんくんやっほ〜、暇してる?」

「そりゃ、お店開けてまだ一時間も経ってませんから暇ですよ。誰も来てませんから」

そう言って、先程あっためた貝柱の時雨煮を小皿に数個乗せて楓香さんへ差し出し、飲み物を聞く。

「何飲みます?一軒目ならカクテルでもロックでも俺セレクトの日本酒でもなさそうですけど」

「うーん、どうしようかなぁ……。あっ、今日時雨煮なんだ?ん〜ならビール!ビールにする!」

お通しを見て、普段あまり飲まないビールを注文する楓香さん。なかなかに珍しい。と思いながら、さっき、ガス圧も調節したビールをサーバーから注ぎ、上辺の泡をバー・スプーンで取り除き、泡だけを少し落差をつけて注ぐ。

今日も綺麗な黄金比で注げたと自画自賛し、ビールとコースターを差し出す。

「はい、ビール、今日は秋も深まって寒いし、ガス圧少し弱くしてみましたから、いつもよりちょいと違うかも」

「じゃあ、いただきます!ぬるくなると美味しくないもんね」

そういって、グラスを傾けて炭酸の調節を効かせたビールを飲んでいく楓香さん、美味しそうに喉を鳴らし、いい歳をしたサラリーマンの晩酌のような飲みっぷりである。

「ふぅ〜、美味しい〜!やっぱり、喉が渇いたときはビールだよね」

いつもハイボールなどのウイスキーをメインに飲んでいて、ビールを飲む姿があまり馴染まないのだが、本人がそう言うのだ、そうなのであろう。

ひとしきりビールをグラスの半分ほど流し込んで一息ついている楓香さんに尋ねる。

「こんな時間に珍しいですね、待ち合わせですか?」

「ん〜、そう待ち合わせ、もうじき私の友達が来るんだ〜。だからそれまでだね」

このお店に誰かと共にくるのを見たこともない身からすると不思議な感覚である。

「……友達居るんですね」

ぼそっと思った事が口から出てしまう。この業界で働く身からすると悪癖なのは言うまでもないが、この悪癖を楽しみに、時には笑いのネタとしている変わり者のお客様もいたりするのである。目の前で時雨煮をつまみながらビールを飲んでいるこの人とか。

「うるさいなぁ、私にだって友達の一人や二人居るから!そう言う、りんくんの方はどうなの?いかにも友達と飲みに行ったりするタイプじゃないでしょ」

手痛い仕返しである。人間中途半端に自覚している部分を刺激されるといい気がするものではない。

「俺だって居ますよ!たまにこの店に来てくれたり、休日は遊びに行ったり、飲みに行ったりしますし、確かに数は多くないけど、俺は狭く深くの交友関係なんですよ!中途半端に何人も仲良い人がいるのも難儀でしょ」

「はいはい、でもお姉さん安心した。ちゃんと友達居るんだね、良かった、良かった」

絶対信じてないし、普段全然お姉さんキャラではない人からお姉さん目線で話をされるとこうもイラつくのか。まぁこの楓香さんだけに限らずうちの常連さんはみんなどこか、こういった面があるため折り合いをつけてある程度で引くのも大事であると学んでいる。

でないと沼に嵌ってしまう。普通の沼ではなくバイカル湖よりも深い底無し沼に。

「っけ、なんとでも言ってください。どうせ楓香さんも俺をおちょくれるほどの交友関係してないでしょうし?」

いつも通りのジャレ合いを演じている時、「コツ、コツっ」っと、恐らく女性物の靴のかかとが床を叩く音が階段からが聞こえる。八時も回っていないこの早い時間新しいお客様がくるとは考えにくいどうやら楓香さんの友達とやらが来たようだ。

数秒後、自分の想像通り扉が開く。そこに立っていたのはオフィススタイルの出で立ち、薄手の紺色のコートを着て、黒のパンプスのいかにも仕事が出来そうな風貌で、

身長は160後半くらいはあるであろうすらっとしたスタイル、凛とした目元、しっかりメイクをしているのであろうがそれを感じさせない女性であった、その姿は飛行機や空港の中で見かけるCAさんの様な、そんな印象を持つ。この人が楓香さんの友達……いやいや、そんなことはないはずである、確かに楓香さんも美人の部類であるとは思うがあまりにもタイプが違いすぎる。確認の意味も込めて尋ねてみる。

「いらっしゃいませ、ご新規様ですか?それとも……お待ち合わせですか?」

一瞬楓香さんの方を見て尋ねた、随分不服そうな顔をした楓香を視界の隅に捉えた。

「待ち合わせです。そこのお方と」

「こちらの席にどういっっ……!」

案内した際後ろから思い切りお尻をつねられた。

流石にあの露骨に知り合いじゃないと決めつけたような聞き方が気に食わなかったのだろう、実力行使を仕掛けてくるとは。

「ちょっと!楓香さん今はやめてくださいよ!」

「だって、不服だったんだもん……」

「なんなんですか!『だもん』って、さっきからお姉さんぶってみたり、可愛い子ぶってみたり!」

ひとしきりツッコミを入れたところで本分を思い出す。

先にオーダーを聞かないと。いつまでもこっちのキャラブレブレ系歳上女子にかまけているわけにはいかない、スイッチを入れて仕事をしなければ。イマイチつながりの分からない楓香さんの友達であろう人に対面する。

「初めのドリンクどうしますか?」

おしぼりを差し出し、続いて灰皿を出す。と灰皿は手で制されたので煙草は吸わないのだろう。ひとしきり考える様子を見せた後に手を拭きながら答えた。

「ビールにしよっかな、楓ちゃんビールみたいだし」

「私次はハイボール!とりあえず白州で!」

「かしこまりました、あ〜はいはい、いつも通りレモンは抜いときます」

まずは、ご新規の楓香さんの友人のオーダーを優先する。冷やしたグラスにビールを注ぐ。そしてコースターを置き、注ぎたてのビールを差し出す。そしてお通しの貝柱の時雨煮と箸を用意し、ビールの泡がへたらない内に差し出す。

「ビールと今日のお通し、貝柱の時雨煮です」

「いただきます」

そう断って綺麗な箸使いで貝柱を口に運ぶ。所作が一つ一つ無駄がない、明らかに年下な自分にも礼節を欠くことがない、色々なところで楓華さんとは正反対の性質の女性である。なぜこの二人は仲がいいのだろうか、とても気が合いそうにはない、決して混じり合わない二人のように思える。いや、正反対だからこそ互いの違う部分が歯車の様に噛み合うのだろうか、それとも水と油を結びつける卵の様なそんな何かがこの二人にはあるのか、謎が深まる。二人を観察していると前方から視線を感じる、まるで古美術商が売り込まれた壺の価値を測っているような視線、自分の値打ちを測られている。そんな感じ。顔を上げると、ちょうど目の前の女性、楓香さんの友人と目線がぶつかる、三秒ほどの間、一瞬であるが目線を切ることができない。まるでたまらず俺は口を開く。

「そいや、お姉さんのお名前は?」

咄嗟に名前を聞いていないことを思い出しありきたりな質問をしてしまった。

「お見合い?」

楓香さんは余程耐えきれなかったのか、笑いながらそうツッコまれてしまう。確かに言われてみれば先程の測られるような視線や俺の質問は、確かにお見合いかのようであった。

「ごめん、自己紹介がまだだったね。私は河重咲、仕事は秘書、楓ちゃんとは中学の時からの友達なんだ。だからちゃんと友達だよ。さっきはごめんね、不躾にじろじろ観察しちゃって」

楓香さんの友人改め、咲さんが先程の謝罪の意を示しながら、自己紹介してくれる。慌てて俺もそれにならう。

「すいません、僕は、栗原依槻。この店だと凛とか凛くんって呼ばれてます」

自分の自己紹介を返すが、この後ほぼ100%来るであろうというか確定で聞かれる質問がある。この質問に答えるのが面倒なため、普段は自己紹介では、年齢と出身くらいしか言わないのだが……。

「名前はいつき、だよね?なのになんで『りん』って呼ばれてるの?」

やはり、来た。この質問である。それはそうだろう。

自分の名前と呼び名、ニックネームと呼べるものがここまで本来の名前と遠いと、疑問に思うだろう、逆に疑問に思わない方が甚だ疑問である。

「まぁ、なんて事無い理由ですよ、ここのオーナーとは前からの付き合いで、初めて一緒に働いたときに付けられたんです。やから、理由は自分でもよくわからないですよ」

なぜそう呼ばれ始めたのも分からないのでそのままの経緯を話した。この手の質問をした人には決まってこのように『オーナーの気まぐれで決まったのでは、多分。知らんけど。』と話す。そしてそれを聞いた方は、大体は特に込み入った理由も無く、けれどこの先、話を掘りづらいという少しだけ気まずそうな、霞のかかった空色の感情をその顔に浮かべ閉口する。例に漏れず、咲さんもその表情を見せたが、元の素材もあって夜長に物思いに耽って、そして悩ましげに唸る美しさは絵になる。

そんなしょうもない妄想を脳内で繰り広げていると、今度は楓香さんから睨まれる、特に何かしたわけではない、が、理由はわかる、恐らく自分が咲さんばかりを相手にしているように見えるからであろう。事実その通りだが。蛇が出ると分かっている藪をつつくほどけったいなことはない。

正直、面倒くさいが仕方ない。初めて来てくれたお客様と言うだけでも何かと会話をして、静かにお酒を飲みたいのか、話しながら飲みたいのか、お酒の嗜好を見極め、リピーターになってもらい、さらには常連さんになってもらいたい思いもある。けれど楓香さんは自分とは違うタイプの美人といった風貌に飲まれてしまったというのもあるが、咲さんにかかりきりになったのだから、いくら友達とは言っても、楓香さんは面白いものではないだろう。俺が蛇に睨まれるどころか捕食されそうになっているのを知ってか知らずか分からないが、その様子をお酒のアテにして、咲さんは面白そうに笑っている。

「でも、そっか、この子が楓香のお気に入りなんだね、たしかに多少不器用かもしれないけど、いい子だね、そりゃあ、狙いたくもなるか。お互いそろそろ適齢期だもんね、結婚。私は彼氏とそろそろ考えてるけど」

よくスマートフォンの画面や薄氷が割れる時のピシッという擬音はこのためにあるのではないかというほど綺麗に、この一言で楓香さんが凍りつく。

最早、家より長くうちにいるのではないかと心配になるほど来てくれて、真面目な話から下世話な話までチャンポンでしていたが、その実、詳しい年齢の話はしたことはあまりない。女性にそのような話をするのはあまり良くないという文化もあるのだが、うちのお店のお客さんには年齢不詳の夜の蝶、もとい、俗に言う『夜職』の方もたくさん居る。

万が一でも語る年齢と酔っ払った際に口から出た真の歳とに差異があり、それが知られては困る人、例えば、その人が抱えているお客さんである。

そんな事情で、この目の前にいる可愛らしい酒豪のお姉さんの歳は知らないのである。

今の反応で首都圏の平均結婚適齢期と言われている、おおよそ30前後ほどであるのは読み取れる。苛立ちとも不安とも恥ずかしさとも言えない表情。お酒が入った時の彼女しか知らないので、なんとも言えないが、表情の入れ替わりも言葉も激しい楓香さんの口からどんな言葉が出るのか、気が気ではない。

すると楓香さんはおもむろに立ち上がり、俺を真っ直ぐに見つめて、

「もう、いいや、とりあえず咲も来たし次のお店行く、またもしかしたら戻ってくるかも、さっきのことで咲と話したいから。咲の分も出すから、お会計お願い」

咲さんはそのやりとりを笑いながら見つめ、その都度噛みつく楓香さんをいなしていた。

(ほんまに長い付き合いなんやなぁ……)

楓香さんのいなし方の教科書があればいいに、と思いながら俺は急いでお会計を出すと、楓香さんはちょうどぴったりのお金を置いていた。流石、最古参の常連さんである。

「ありがとうございました!」と言う俺の声も聞かぬ間にコートを引っ掴んで扉の外へと出てしまう。すると咲さんが耳打ちしてきた。

「ごめんね、私のせいで。けどあの子がここを気に入っている理由の半分以上は君だと思うよ?あの子あんな感じなのに恋愛は全然本気でやった事ない子だから。まぁ、扱い辛いし、いつ爆発するか分かんないような子だけどよろしくね」

片手を顔の高さまで上げて端正な顔立ちに似合わないお茶目な表情を浮かべて謝罪される。

なんと大人な対応なのだろうか、そんな女性を扉の前へ先回りし、扉を開けて見送る。

「ありがとうございました!また、よかったら今度は好みのお酒を用意しますから」

「ありがと、これからあの子よろしくね」

社交辞令のテンプレートのようなやりとりを咲さんとしていた時だった。カツカツカツっとすごい勢いで上がってくる人影、楓香さんしか居ない。なにか忘れたのだろうか、目線を咲さんから切って、階段の下にいるのであろう楓香さんに目を向けようとしたその瞬間。

襟を両手で下側に引っ張られる。慌てて手摺りに手をかけて体勢を整えようとした時、唇に何か温かく柔らかい物が触れる感覚を味わう。すこしアルコールの香りの残る感じ。間違いない楓香さんにキスされたのだ。今一瞬の、カメラのフラッシュのような瞬間速度で起こった、余りにも想定になかった事態に遭遇し、茫然と自分の身体を手摺りと壁によって支えている俺に

「ごめんね、私結構本気なんだ。人生で一番。りんくんから見たら、確かにもうおばさんかもしれないけどね、一応考えといて。それじゃまたね、いつきくん」

落ち着いた声色がやけに鼓膜に残った。咲さんの手を引き階段を駆け下りていくのが視界に入る。さっきの瞬間速度のノックバック。時が早回しになるような感覚に犯されながら、心ここにあらずの状態で身体を立て直す。それほどまでの衝撃を受けた。

午後八時に差し掛かろうかという夜職としては早い時間、さきの衝撃を引きずるままに店に戻る今日の夜は、どうやら長く濃い時間となりそうだった。


今日も一人、母が好きだった夜の立川で、昨日の事をぼんやり思い出す。死ぬつもりなんかなかったのに、ただ私はあの街の月をこの手に掴みたかっただけなのに。

広島の窮屈な世界に居たくなかった。それを言わずに飛び出して、母から譲り受けた雑居ビルの一室の合鍵とここまでくるのに数千円となってしまった持ち金が今の私の生命線。お金の切れ目は縁の切れ目とは言うけれど、私の生命線も切れそうである。あてもなく歩く、ただ歩く。お金が無いのだから無駄遣いは出来ないし。

気がつくと昨日無造作にセットの決まったような、決まってないような冷たい水の中に棲む川魚のような雰囲気を持ったお兄さんと不思議な出会いをしたあの通りの入り口に立ち止まる。街灯があるのに薄暗いこの通りに灯るランタンとそれに照らされる看板とメニュー表。昨日、ある種運命的に、意識のないままあのお店に行った。人生初めてのお酒を飲んだ。あのお酒のアルコールは大分薄かったのだろうけど、アルコール独特の苦味を感じて、少し大人な味がした。ブラックのコーヒーは飲めるのに、アルコールはまだまだ未熟な私には早いものなのだろう。或いは、家出同然でこの街に訪れた私に、自分がいかに馬鹿げた事をしているのかを分らせようとしているのかもしれない。

けれど、最後はどことなく優しく柔らかい味がした。

お兄さんの優しさの様な何か。優しさそのものなのかもしれない。人知れず東京に来た私に声をかけて来るのは夜職を紹介するお兄さんか、援助交際待ちかそれに似た職だと勘違いした大人が話しかけてくるだけだった。少しでもその優しさを知りたくて、優しさの味の意味を知りたくて、その路地へと足が向く。

あのお店のビルの前、階段に足を掛けようとしたその時、女性二人と男性一人の人影を見る。思わず立ち止まり身を引いて再度観る。ラブロマンス映画を観ているようなシーンである。キスシーン。生で初めて見た。男の人影は昨日のお兄さん、それを引っ張ってキスをしている人は昨日もお店にいたあのお姉さん、確か名前は、ふうかさん。彼女なのか、お兄さんの俗に言う身体同士の微妙な関係の人なのすら知らない。けれど私だけが感じた優しさの様な味を他の人も知っていたなんて。すぐ考えれば思いつきそうな物なのに。優しさに飢えたわたしにはそれが見えなかった。そう感じるとさっきまでの優しさに触れる前のぼんやりあったかい感情がサッと消えて、寒流の様な冷たい感情が流れ込む。私だけの物と思っていた物を他の人も持っていたなんて。やるせなくなる。雑居ビルとビルの間の隙間の土地で、一人息を吐く。涙がぽろりと流れていく。やっぱりこの街は苦くて辛い。大人の街。徐々に欠けゆく月だけが私を狭い隙間から見つけてくれる。

「私だけの物じゃないじゃんか……じゃああんな優しい味にせんでよ……あほ」


楓香さんと咲さんが帰った後、俺は心ここにあらずの時を過ごしていた。それもそうである。不意打ちのキス。そして相手は常連の少し子供っぽい女性だったのだから。まるで意図しない大穴馬が馬券になる様な、或いはそれ以上の驚き。腰が抜けると言うものを初めて味わった。キスという行為は共に愛する時を過ごした人とならば気持ちを通わす行為として幾らか経験はあるし、それ以上の一晩を共に布を纏わず過ごしたことだってそれなりにある。それでも、あの一瞬は衝撃だった。脳内の脳内伝達物質、ドーパミンだかエンドルフィンやらは知らないがとにかくあの瞬間時が止まる様に見えた。

その反動が今重くのしかかっているのか、何も手につかない。

「訳わかんねぇ、なんなんじゃ、あれは!訳わからんわ!」

一人、愛用の煙草に火をつける。相変わらず閑古鳥が鳴いている店内。時間的にまだ午後九時にもなっていない時間ではいつもの事なのだが、閑古鳥も鳴いているどころか最早叫んでいるのではないだろうか。そのくらい人が来ない。煙草を吸い落ち着きを多少取り戻す。先程の余韻の残り香の様にカウンター上に残ったままのグラスと食器を片付けていると、ふと別の事が頭を過ぎる。昨日拾った(?)緋色の髪の女の子。何の為に広島の名門女子校の身分を捨ててまで広島からこんな街に来たのか、歳の割に大人びた成熟した女の子に見えた。楓香さんとは対極の“歳に似合わなさ”があった。

「『また来ます』かぁ、ほんまにくるんかな」

一人呟いて煙草をもみ消し、グラスと食器を吹き上げる。

頭の中で、あの名も知らぬ緋色の髪の少女を思う。不安である。危ういとも思う。

俺がここのオーナー兼クソジジイに拾われた時とそっくりだと感じたからである。人を警戒する捨て猫か、或いは初めから野良なのか。前の俺も恐らく今の少女も人の悪意しか信じていない。善意なんて物など無いと思っているように感じるから。

今でもおおよそはその通りだとは思う。けれど少なからず善意を信じてみるのも大事なことなのであると気づいたから。カクテルやハイボールのレモンやライムの様にアクセントをくれるもの。それが善意だと今はなんとなく身に染みているから。そう思いながら再び煙草に火をつける。気がつけば一時間、煙と共に思案していた。時計は午後十時に差し掛かろうとする時間。活気ある居酒屋から客が引き、夜の住人の狩場へお客さんが移動する。夜の帳が落ち切って、明け方までのピークタイム。そろそろここにもお客様がくるだろう。頬をひと叩き。煙草をもみ消す。今日も普段と変わらぬ夜がくる。

いつもと変わらぬ夜がくる。と思っていた時が俺にもあった。三十分だけ。訂正する。いつも以上に暇な夜になると。


「けっ、もう煙草ないんかい。買ってくればよかったわ。ジジイの一本パクろうかな」

あとで吸った分以上のお会計を請求されそうな気もするが、暇で暇で仕方がない。新作限定品の試作をする気にもなれない。となればヤニに取り憑かれた男がするのは一つである。何も考えず煙草を吸う。これに限る。そう思い立って店の引き出しという引き出しを漁る。空き巣もびっくり程に棚を漁る。

すると、たまたま前の俺が置いたままのサラピンの愛用の煙草が角の棚に見つかった。包装をむいて中に付いている銀紙の前だけをちぎりとる。家捜しの末に見つけた命の一本に手元にあるチャッカマンで火をつけようとした時、異なる足音が二つ。ドンドンっという男性の足音が一つ。もう一つは気が進まないようなコッ…コツン…という足音。

(誰や?ご新規さんか?それか谷川さんがどっかの女でも連れてきてんのか?)

とりあえず、煙草をしまい、扉へ意識を向けるが開く気配がない。気になって扉を開けた。すると相変わらずの谷川さんと、少し手負いの獣のような雰囲気の緋色の髪の少女。似ても似つかぬコンビである。今の谷川さんはコンビでなくシングルになる寸前なのだが。こんな事はまた面倒な事になるので言わないのが優しさだろう。

「いらっしゃい、とりあえず中どうぞ」

初めて会った時より危うさが際立っている、気にはなるがとりあえず中へ促す。

よく見ると瞳が少し腫れている、何か涙を流す事があったのか、俺の顔を見るなり複雑そうな表情を浮かべ、立ちすくむ女の子。いい言葉が思い浮かばず黙って目線を迷わせる俺を尻目に、谷川さんがポンと少女の背中を押した。

「まぁ、話したくなくてもいい。ここはどんな人でもどんな時でも、悪ささえしなければ、受け入れてくれるお店だから」

いい意味で空気の読めなさのあるこの男。伊達に歳を重ねた訳ではない事を、俺に示しているようである。さっき心の中で笑いのネタにした事を少し後悔しながら二人が入店すると同時に扉を閉める。時計の針は二十二時半を指した所。再び訂正。

今日は、どうやらいつもとは違う夜になりそうだ、と。


店内に入る瞬間に一悶着あったせいなのか。店のボスが、のそっと奥から現れていた。

「おぉ、今日も来たんや、良かったわ。どっかのバカが酒飲ませてヘソ曲げられたかと思っとったから、安心したわ」

「そりゃあ、違うやろ!あの一杯は俺が気持ち込めたんやけ。ヘソ曲げられる意味わからんわ!」

いつも通りの親子喧嘩のような物を繰り広げる広島人二人。こうなっては誰も手もつけられない。不定期で行われるウチの名物でもあるし、これを肴に飲む猛者もいるほどである。お店のイベントに限った事ではないが、ある程度の傾向はあるにせよ何がウケるのか全く分からないのはどの世界でも同じことである。と思う……多分。

「あの〜、飲み物いい?」

果敢に話しかける谷川さん。

「「やかましい!黙っとれ!今この不孝者の!(クソジジイの!)相手で手が詰まっとるんじゃ!」」

しかし、バトルモードに入った二人にあえなく撃沈する谷川さん。不憫である。カウンターの中で灰皿と暴言が飛び合い、ついにはインファイトが始まる二人の間に入って怪我するのは保険の降りない自己責任の領分である。


いつものイベントバトルも休戦した頃合い。オーナーと俺、二人してハッと思い出す。「あれ、オーダー聞いてない?」と。その頃合いを見計らって、谷川さんが先程より気持ち優しく再度問う。

「あの〜、そろそろオーダー聞いてもらってもいい?」

「お、おう、すいません……」

「悪い、ちょっと熱が入りすぎちまった」

二人して揉みくちゃになっていたシャツの襟を正してオーダーを聞く。

「僕は〜、どうしようか、オーナーのオススメのラム酒にしようかな、今日はラム酒飲みたい気分だからね。君は?なんか飲む?一杯くらい僕が持つよ」

そう言って、緋色の髪の少女へ目をやる谷川さん。

少女は、沈黙を貫く、時折苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたり、何か言いたげに口を少し動かしたりする。玉虫色の表情のまま、動かない。

それも仕方ないかもしれない、前は意識がない状態で起きたらこんな魔境のようなところに連れてこられて、目が覚めたら店内だったので、戸惑う間もなかったのであろう。今日は一度しか顔を合わせてないような人に連れてこられたのだから、戸惑っても仕方がないように思う。

(なんか緊張しとるみたいやし、前回は酒やったからなぁ、なんか甘いもんの一つでものんで落ち着いて貰うか)

俺はロンググラスを手に取りハチミツを入れ、レモンを絞り、絞ったレモンもグラスに放り込む、そこに少しのジンジャーシロップとグラナディンシロップを垂らし氷を入れる、最後にソーダを注ぎ優しくステアし、バー・スプーンで少し掬い味見。

(うっ、甘えぇ……、けどこのくらいがちょうどいいのかな)

口に合うか少し不安な気持ちで、コースターを差し出し、少女の目の前にグラスを置く。即席の甘口ハチミツレモンサワーである。

「ほらよ、決めるの遅いから俺が勝手に作っちまったよ。甘かったら言ってくれ」

先程から一切様子の変わらない少女へ言う。

「なんで……」

少女が声を漏らす。一度漏れた水が勢いを増すが如く少女の声が店内に響く。

「どうして、私にも優しくするん。さっき女の人にキスされとったじゃないですか。優しくするのは彼女さんだけでええのに、私をかき乱すのは辞めて欲しいわ!」

激しい感情の発露。男三人静かに聞いていた。静寂。

その静寂の凪の中、オーナーが新たな波を立てる。

「まぁ、落ち着けぇや。キスの件は後でゆっくり聞くとして、とりあえずこいつが作ったもんを飲んでやってくれ、それはうちのメニューにはねぇもんやからよ、きっとこいつなりにお前さんの事を考えとんやろうよ」

そう言って促しながら、近くにあるタバコとチャッカマンを手元に引き寄せタバコを吸い始めるオーナー。そうして、少女が飲み物に口をつけるのをただ見守る。恐る恐ると言った感じで一口飲んでくれる。

「やっぱり、優しい味ですね……」

一粒の涙がつぅーと少女の頬を撫でる。山奥の寒暖差のある地域の朝露に濡れた彼岸花のような、簡単には手の触れられない、美しさ。

彼岸花には強い毒がある。美しいから毒があるのか、毒があるから美しいのか。目の前の少女は美しい。秋も深まるこの時期に立川に咲く彼岸花がそこには居たのだった。

俺はタバコを咥えて、店を出る。夜も深まるこの時間。タバコに火を灯し、空を見上げて月を見上げてそっと呟く。

「あれ、見られてたんか……気をつけんとな」

そう自分に言い聞かせて、靴の裏で煙草をもみ消す。

(店に戻ったら、めんどくせぇやろうなぁ……)

煙草を吸い、気持ちを切り替えて、あの少女が待つ店への階段に足をかけるのだった。


店に戻ると、少女の頬に光る物も無くなっていた。

よかった、とりあえず安堵するのも束の間、下卑た笑みを浮かべて俺に聞く。

「それで、お前さんは誰とキスしたんや?俺の店の前で」

やはりきた、この質問。無防備にお店の前で不覚?を取った自分も悪い上に、この人に相手に隠し事も分が悪いので、素直に話してしまうべきなのだろうが、ここでそんな会話をするとしばらくはダシにされてしまう。と自分のプライドと楓香さんのプライベートを護るのが優先か、この場を切り抜けるが先かを思案し、悩んでいると、横から少女の声が差し込んでくる。

「あの、前もいた女性です。歳下の私が言うのもおかしいですけど可愛らしい感じの」

「可愛いらしいねぇ……楓香ちゃんか。あの子ずっとやもんな、ついに行動しよったか」

「まぁ、彼女も結婚考えてもおかしくない歳だからねぇ」

俺が必死にこの場を回そうと頭を回していたのに、わずか三十秒で全てが露見してしまった。ため息でこの二人が止まるならいいがそういう訳にも行かないようである。

「別に誰とキスしようが、セックスしようが関係ねぇけどよ、問いただされて歳下の女の子に先に言われるってどうなんや……呆れるわ」

説教とは違う、諭すような言い回しのジジイ。それに釣られたのか谷川さんからも一言。

「そうだね、この一瞬でいい言い訳も出来ないのに詰まっちゃダメだよ。そんなことしてると上手く行かないからね、色々と」

どこか実感のこもったお言葉を人生の先輩達から頂戴してしまう。

なんか、すごく悪いことをしてしまった気分になるな、これ。実際、俺からした訳ではないのだが、隙を見せた時点で悪かったのかもしれない。世が世ならそのまま首を掻き切られていただろうし。

色々と不服ではあるものの、素直に受け入れることにする。

「悪かった、たしかにそうやったわ。楓香さんとしたわ。てか、されたの間違いやけどな」

「お前こん時くらい俺がしたとか言えや、そんなんやから愛想尽かされて振られるんじゃ」

「うぐっ……っ、昔の話やろうが!それ!今そんな話せんでええやろ!」

手痛い一撃である。この爺さん腕だけでなく口も達者なのが厄介極まりない。まぁこんなんだからこそ、世代も職業も関係なくさまざまなファンがいるのだろうが……。

「まぁ、ええわ後で。それよりお嬢さん、このバカが作ったのはどうや?美味いか?」

さりげなくひどいことを言われている気もするが、とりあえず標的が移ったことに安堵する。それにこの子に聞きたいこともあるしな、名前すら知らないのは問題だろう。そう思い、静かに少女に目線を向ける。すると、相変わらず伏し目がちに答える。

「美味しいですよ、優しい味がします。この味でいろんな女性を口説いてたと思ったらモヤモヤしますけど」

名も知らぬ少女からも痛烈な一言を頂戴してしまうとは。広島の人はやっぱりはっきり言うなぁ、忖度とか空気を読むなんてことは無いのか……。自分も人の事を言えないけど。

「っ……ぷっ、はっはっは!!ダメだ我慢できねぇや、お嬢ちゃんからもきついのもらって世話ねぇよ!」

おじさん達も爆笑している。ここまで来るともうなんとでも好きに笑ってくれ、と言う気持ちになるのだから不思議である。なんかどうでも良くなった。

話題も移り変わったと思ったのにまさかの急旋回からのUターンなんて。どうしようもない。居心地が悪くなって、手持ち無沙汰になったので煙草を手に取り、近くのチャッカマンで火をつける。気持ちをリセットする意味でも大事な時間である。おじさん達もとい、オーナーと谷川さんの笑いの熱が冷めた時、再びオーナーが尋ねる。

「そいや、前は名前内緒って言われたんやけどな、お嬢さんの名前を聞かせてもらってもええか?いつまで経ってもこいつが聞きやがらんから」

少女はこの日初めて顔を上げて、口を開いた。

「そうですね、流石にずっと内緒ってわけにはいけませんしね、沙華です。さんずいに、少で、『さ』、『な』は難しい方のはなで『な』です」

沙華というのか、この子。確かに花というよりは華が似合う子ではある、一人納得していると、谷川さんもなるほどねと呟きながら静かに首を縦に揺らしていた。

「沙華か、お嬢さんらしいええ名前やな。大分愛されて名付けられたんやろうな」

オーナーはというとベタ褒めであった。孫娘に優しくするおじいちゃんにしか見えない、とは口が裂けても言えない。

沙華という少女も流石に照れ臭そうな、居心地の悪そうな表情を浮かべているようだった。そんな少女にオーナーが一言告げた。

「じゃあ、沙華、お前さんここで働く気はないか?」

時計の針は長針と短針が重なり合って0時を指した頃、

なにも変わらぬ一日から、二人の運命が重なり合う特別な一日へと変化しつつあった。


『じゃあ、沙華、お前さんここで働く気はないか?』

オーナーの突如放ったこの一言に俺は言葉を失ってしまう。第一、この子は高校生だ。俺も場所は違っても同じような経緯でバーテンダーとなった訳だし、人の事は言えないが。

「じいさん、正気か?」

「おう、正気や、この子おもろそうやし、それに一人で生きていこうとするなら金も居るやろ、お前やって広島の時にそうやって拾ったんやからよ、今更じゃろうが」

相変わらずである。こういう時に頼れるのは基本、この異世界の中では現世寄りの考えの谷川さんくらいなのだが、

「ん〜、そうだね確かに、この子面白そうだもん」

ダメであった。期待した己をただ恨む。

「それに、りんくんみたいな前例もあるでしょ?よかったじゃない。こんな可愛い子が後輩なんて。あと、第一こうなったオーナー止めれる?僕は無理」

「まぁ、そうやな、じゃあないか」

俺は渋々納得して、沙華という少女に目線を振る。すると肯定とも否定とも取れない微妙な表情をする。

確かに少女からしたら、夜の世界で働くのは抵抗もあるだろう、この子がもしこの制服通りの学校に行っているとしたら、尚更夜の世界とは縁がない生活をしていただろうし、これからもするはずであっただろうから。

少女が悩む仕草をしている時に、オーナーがさらに畳み掛ける。

「時給はこれだけ出す、危ねぇ奴らは俺らがなんとかしてやる」

近くにあった紙に一五〇〇+αと書いて少女に提示。

俺と同じじゃねえかよ!めちゃくちゃ高待遇だな、初めは単純計算したら最低賃金以下からのスタートやったぞ俺!なんなんだこの差……。

「わしは、おもろいと思った事しか雇わんから。つまりそういう事や」

そして、一瞬の静寂。束の間、空気が張り詰まる。

張った糸が切れるように少女が口を開いた。

「分かりましたよ。じゃあこれからよろしくお願いします。制服とかは可愛くてかっこいいのがいいです!」

彼女が根負けしたのだった。

「おう!すぐに発注してやるから、好きにしろ。そんで、後で苗字と今の住所だけ教えてくれ、お前さん毎日お風呂には入ってるんやろ。それに神待ちや援交なんかしてホテルに泊まるような子でもないやろうし、今住んでるところがあるんやろ?この近くに。それに親には言わねぇから安心しな。なんか理由でもあるんやろうし」

オーナーの鋭い観察眼だけでなく、最後にフォローを入れるとこまで恐れ入る。

「よっしゃ、そんじゃ新たな仲間のために祝杯じゃ!」

「じいさんが飲みたいだけやろうが!」

「まぁまぁ、りんくんいいじゃないの。今日くらい!」

俺が巻かれている間に、強烈な匂いが立ち込める。与那国島では祝いの席に飲まれるというあのお酒。確かに今日にはぴったりかもしれないが60度は強烈である。

賑やかに〈どなん〉が注がれたグラスを四人して手に取った。

「「「それじゃ、沙華(ちゃん)これからよろしく!」」」

「私も飲むんですね……、この匂いのお酒……まぁ、仕方ないか……、私からもよろしくお願いします!」

「「「「乾杯」」」」

みんな思い思いに祝いのお酒に口をつける。

沙華はうっ!という顔をしながらも意外とすぐに慣れていたようだった、これは将来化け物になりそうだな。オーナーと谷川さんは二杯目に突入していた、これはいつも通りなので気にしない。一方、俺はと言うと

これまでの夜の暮らしで一番の変化が起こった事に期待と心配を抱きながら静かに飲むのだった。

不意に、二人から離れてこっちに来た沙華が一言。

「これからよろしくお願いします、先輩っ」

「っうぐっ……」

思わず顔が熱くなる、あざとすぎるのにこれは卑怯だろ。

「あれ?照れちゃいました?可愛いとこありますね、りんさんって」

「酒だよ!こんな酒飲んだら誰だって顔赤くなるわ!」

そんな見え見えのやり取り、早くも力関係が決まりそうである。祝いのお酒に当てられて、夢現に更ける夜。案外これも悪くないのかもしれない。先のことはわからないけれど、それでも夜のネズミはネズミなりに生きていく。改めてそう心に思い、今日を楽しむのだった。


先程の馬鹿騒ぎも終わり、時計の針は午前五時、

結局あのまま、三時過ぎまで行われ、オーナーはいつも通り酔っ払い、谷川さんは飲み過ぎでトイレに立て篭り、先程のふらふらと千鳥足で家路へ着いた。

意外と言うかやっぱりと言うべきなのか、あのお酒を飲みながら沙華はケロッとして帰って行った、しっかりせぇよ、おっさん二人。

そんなこんなで一人でお店を締め、いつもの通りの

お店の前の細い路地、月ももうすぐ沈み、若干明るい時間にタバコを蒸し、これからの行く末に想いを馳せる。

「ま、なるようにしかならんか!」

誰も返事が返ってくるわけもなく空へと消える。

立川の夜の街にも晩秋の朝の空気が訪れる。家へと帰るとしますかね。始発のモノレールの改札へ足を運ぶのだった。


呼び出し音が一分間、相手がようやく出る。

「ひさびさにやな、元気にやっとるか?橘よ」

「久しぶりやの、まだ生きとるんか、じいさん」

「お前さんも歳そんなに変わらんじゃろうが」

「まぁ、カッカすんな、それで何の用や」

「お前さん娘がおったやろ、元気しとるか?」

「いきなり何や、出て行ったよあいつは」

「大方、子供嫌いで移ろい癖のある喧嘩っ早い親父に愛想つかしたんやろうな」

「やかましいんじゃ、それに今は新しい子供がおるしな、別にどうでもええわ」

「やったら、その子ワシがもし見つけたら引き受けたろうやないか」

「おうおう、そうしてくれや、今なんしとんか、どこにおるんかも分からんけどな」

「そのうち出てくるやろ、今はまだその時合じゃないだけや」

「わかったわかった、そんじゃあなクソジジい」

「おうおう、またの。牙の折れた狼さんよ」

電話が切れる、先程の酒も引き、手の焼く子供も今頃家路についているんやろう。煙草を一服する。

「やっぱり、あいつの子供やったか、そっくりやもんな、あの女によ」

そうとだけ呟き意識が途切れる。

どうやら今日もこの店が寝床になるようだ。

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