扉が開かぬ夜
桐島衣都
主人と私の最期
石造りの城がゴウゴウと赤黒い煙を出して燃えている。
中庭の大木。闘技場に、書庫。秘密の階段とふたりだけの秘密基地。永遠の忠誠を誓った聖堂。
人生の半分以上を過ごした場所を失うことになるとは。しかも自分自身の手で火をつけ、主人もろとも葬り去ろうとするとは、純朴だったあの頃には想像もしなかっただろう。
***
戦も、権力の大きさも知らず、良いことを貫けば全て国民を豊かにできると本気で思っていた。
書を漁るのを手伝い、主人を無能扱いする者がいれば静かに排除する。
主人よりも一歩早く世の中の汚れを知った私は、主人に綺麗な面ばかりを見せてきた。
心優しく、責任感の強い主人に、人間の野心や羨望による荒んだ面を見せてはいけないと思っていたのだ。
しかしそれが為政者にとってはいけなかった。
国王が崩御し、主人が王位に就き実際に国を動かすことを知れば、自ずと主人に群がる人間が増えた。
もともとが無能と評価された男が、優秀な兄弟を差し置いて国王についたのだ。
散々意地汚く、主人の母君の後ろ盾を壊そうとしていた者たちが、掌をくるりと翻し、主人の兄弟たちを罵り、忖度をするようになった。
兄弟たちは嫉妬や不満から執務を怠るようになり、兄上様に至っては反乱を興すとまで噂された。
それに加え、東方の国々が次々と新興国の傘下に入り、いくらこちらが大国といえども圧力だけでは足りず、軍事力行使も迫られる緊迫した状況だったのだ。
書で見たよりずっと貧しい国民の暮らしぶり。見せかけだけの忠誠の将軍ども。
主人は執務以外の時間を全て知識を詰め込むことにかけた。
睡眠も足りず、終わることのない高い目標に向かって、喘ぎながら苦しんでいた。
執務室には私以外の者を入れなくなり、ふたりだけの秘密の部屋はいつのまにか埃が積もるぐらい行けていなかった。
主人は必死だったのだ。
本だけの知識の主人に人を纏める才はなく、将軍どもには卓上の戦に意味はないと嗤われ、国交のあった国々には足元を見透かされ不平な取引を余儀なくされてしまった。
国民の生活は傾き、財政も火の車。
新興国との戦になんとしてでも勝たなくてはならない状況に追い込まれ、主人はとうとう正気を失った。
将軍どもに言われるがまま、無理な徴税、徴兵を行ってしまった。
国民からは当然ながら猛烈な反発。
屈辱的な風刺画やテロまで巻き起こった。
しかし主人にはもう手がなかった。
月に一度、国王と法皇の国民代表の3者で行われる会合で、土下座までしたのだ。
教会も国民も国王の座礁しきった姿に負け、泥舟に乗り込んでくれた。
結果的に、新興国を撃退することには成功した。
しかし、当初の目的の、国民の生活は保障できなかった。
新興国であるが故、賠償が十分にできなかったのだ。
得られたのは当面の世界平和と、わずかばかりの痩せた土地のみ。当然ながら国民は怒り狂い、城門前に毎日大量の人々が押し寄せ、国王の更迭を求める抗議が行われた。
その頃になると主人はもう、執務に全く手をつけなくなっていた。
自信の喪失と打開策のない現状を嘆き、悲しみ、自暴自棄に陥った。
毎日私に向かいやり場のない怒りを、あれだけ大切にしていた本を投げつけることでぶつけ、夜になれば人が変わったように謝り出して、私に傷一つでも見つければ、童のように泣き出してしまう。
お前以外に味方がいないと泣かれると、兄弟同然に育った幼少期を思い出し、私もついつい甘やかしてしまった。
ほとんど為政は将軍どもに任せ、主人は塔の1番上に引きこもった。
主人が望むまま、異国の物語を味わい、夜が明けるまで理想の生活を語り合った。
時には自ら腕を振るって料理し、宮廷料理人の腕の良さを讃えた。
実は私も主人と同じように疲れ切っていたのだろう。久しぶりの休息は心身に染みる。
幼少期に戻ったかのように、豊かで、なにもかもを忘れられる、楽しい時間だった。
あの時間、私と主人はただの友人だった。
それがいけなかった。
気づいた時にはもう何もかも遅かったのだ。
主人は私に内緒で、中立国への逃亡の企てをしていたのだ。よっぽど恐ろしかっただろう。民の反乱に、将軍からの罵倒。優しい主人に耐えられるはずはなかったのだ。
それが新興国を中心に結成された連合軍に暴露されてしまったのだ。…そこで私は我にかえった。
私は今まで主人を肯定することしかしなかった。
努力を称え、将軍どもからひたすら主人を守り、批判の矢面に立たせないよう、柔らかい繭のベッドで包み込んでしまっていた。
民の暮らしの厳しさ、弱いものの、本当の強さ、大切な者を守るために湧き上がる力。
そして、人は死ねば戻らないこと。
それを、身をもって教えることを怠った。
民に負荷がかかるような政策は止めるべきだった。ひとつの策の成功を祈るのではなく、複数用意することを教えればよかった。
…国王は、最後まで民の幸せを考えなければならないことを。
忠誠とは、尽くすことだけでなく、主人を正すことでもあったのだと、遅くなって気づいた。
この国はもう破綻してしまう。
民も、将軍どもも国王を糾弾する。
将軍どもはこの機会に乗じて政権を執り、新興国への報復を企てている。そんなことになれば、この国の民は死んでしまう。
ーー……そうして、私は連合国に城を攻めさせたのだ。
「…ご協力、感謝いたします」
敵国の、国王の側近である私を立ててくれる。このような人間が我が国には必要だったのかもしれない。
民には傷一つつけないこと。今後一切この国の将軍どもを為政に関わらせないこと。この国の王族を全て、滅すること。国の象徴たる城を燃やし、燃えかすさえ残さないこと。
この男なら全てを守ってくれると、信じられる。
「こちらこそ感謝いたします。無理な要求を聞いてくれてありがとう」
「本当に行かれるのですか?あなたから学ぶべきことが我が国には多すぎる。是非将軍としてお迎えしたいのです」
「敵国の側近を将軍にするなど、古来からうまくいった試しがないでしょう。…それに、私は主人と共にいると誓ったのです。最後まで、ね」
そうして私は燃え盛る城へ一歩踏み出す。
主人は私の裏切りに気付いていただろうか。敵襲に、私が側にいないことに、怯えていただろうか。
…なにを考えて亡くなっただろう。
寝間着のまま、聖堂の前で倒れてらっしゃった。私を探してくれていたのだろうか。
ここに着いた時、すでに事切れていた。
美しい、御身のまま。涙もなく、幸運にも傷もなく。
なんとかまだ無事である聖堂の中へ主人の亡骸を抱えて入る。
その時点で、もう私の意識も朦朧としている。
熱い。喉が焦げたようだ。もうすぐ私も事切れるだろう。
最期になって、神に祈りたくもなった。
主人に味方してくれなかったキリスト。
主人の願いを裏切り続けたキリスト。
神どころか、親も将軍も、そして私も主人を裏切ってしまった。側にいると、守り抜くと誓ったのに。
戻りたい。幼少期の無垢な私たちに。
幸せだったあの頃。大人になれば主人の支えになれると信じていた頃に。
神よ、最期くらい馬鹿な私の願いを聞いてくれ。
主人の首元のロザリオを握りしめ、かすかに息を吐く。
「来世こそ、永遠の忠誠を」
目の前が霞む。脳の灯篭がひとつひとつ消えていく。願いを口にできたかさえわからん。主人を抱きしめる感触も、熱さも、痛みもわからん。
ただ、これだけははっきり聞こえた。
「承ろう」
そうか、聞いてくれるのか。
そうして、私は死んだ。
扉が開かぬ夜 桐島衣都 @ito-kirishima
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