引退公演と、焼きそばパン。

らべる

引退公演と、焼きそばパン。

 それは高校3年の7月の終わり頃の出来事。高校演劇部最後の引退公演が幕を開けようとしていた昼下がりのことだった。

 「将吾先輩、今絶対暇ですよね」

 ガヤガヤとした喧騒を切り裂くように突然、弾んだ声が頭上で響いた。

 「絶対ってなんだ」

 「暇ですよね」

 準備関係で人が忙しなく動き回る控え室の長机に突っ伏して死にかけていた自分のことを微塵も気にかけた様子のない後輩の一年生・日菜子のために、演劇部の先輩であるはずの三年生、藤岡将吾はゆっくり重い目蓋を開ける。

 本番前の緊張とストレスで彼の胃の中は今メリーゴーランドのようにグルグルしていた。劇で重要な役を担うことになっている時ほど公演直前、このような症状に襲われてしまう。

 「うわ、おぞましい顔。死んだシーラカンス」 

 シーラカンスの死んだ顔という喩えはよく分からない。

 「俺の胃の中の状態も知らないくせによく暇そうだと」

 「どんな状態ですか」

 「強いて言うならカップ&ソーサー状態か」

 「そうですか」

 夢の国や遊園地には大抵置いてあるあのグルグル回るすごい気持ち悪くなるやつを喩えに出しても、目の前に立ちはだかる強者にはまるで良心というものが欠如しているので無意味だ。

 というか自分から聞いておきながら微塵も関心を持たない。

 なんだこいつ。ちょっとくらい心配しろ。せめて笑え。

 なんだよ、そうですかって。

 将吾は不満で頬を膨らませ目の前にいる年下の小生意気な女を睨みつけた。

 「じゃあ、先輩は今からファミマに行ってください」

 「なぜ」

 そうなるのか。

 「私がおにぎりを食べたいからです」

 自分で行け。

 「自転車がないもん」

 知るか。

 「私の好きな具は焼きハラミです」 

 「そうですか」

 人の話を聞かない彼女は将吾を無視して要求を続けた。銀行に人質とって立て籠もった犯人みたいな横暴さと傲慢さと身勝手さがトリプルクロスしていた。親の顔が見てみたいものである。

 「牛カルビも、捨てがたいよね」

 将吾の眉間にはみるみるうちにシワが寄る。

 「高いやつばかり、お前のような御身分でファミマのちょっと高級嗜好なプレミアムおにぎりが食えると思うな。二個で200円までが限度だ」

 突っ込まずにはいられなかったので突っ込んでしまったのが今日も運の尽き。

 「買ってきてくれるんですね!」日菜子の顔がぱぁっと明るくなる。「じゃあじゃあ、さっき言った具は嘘で、とりあえず高菜と明太子と・・・うーん、あとなんか適当に駄菓子で」

 巧みなセールス技術を目の当たりにした将吾は思わず感心する。最初にわざと難しい要求を突きつけたあとで相手が難色を示すと要求のハードルを一段下げる極めて初歩的な営業テクニックだが、案外人の良い将吾はもう断れない。

 

 そういうわけで、将吾は徒歩5分のところにあるファミマに向かう。

 普段インドア派な彼は直射日光が苦手だが、それに加えて7月の猛暑が作り出す熱波が彼の方向感覚を著しく狂わせる。

 先ほどお礼にと、日菜子に貰ったなけなしのガムをちょうど噛んでいた彼だったが、あまりの暑さにそれが意図せず口の中の水分を奪い取っており、もはや拷問にも近い。

 入店時に鳴り響く独特のメロディが彼の虚な脳味噌を刺激した。

 「将ちゃん先輩、またパシリ?」

 「またってなんだ・・・あ、椿」

 おにぎりコーナーの前で商品を眺めるふりをしつつ、もはや天井から降りてくる冷風を浴びるためだけに挙動不審に動き回って涼んでいると、体操服の上に薄手のジャージを羽織る少女が顔をひょっこり覗かせる。同じく演劇部の後輩、二年生の市ヶ谷椿は、おにぎりコーナーの前で死にかけている不審者のようにやつれた先輩の顔を二度見どころか三度見もした。

 「三度見もしちゃったじゃないですか」

 「知ったことか」

 「知ってますか、三回見たら死ぬ絵・・・まじであるらしいですよ」

 「どういう意図でその話題を出したんだお前は」

 「ううっ」ノリの良い椿はその場で心臓発作の演技をしていた。「チートキャラですか先輩。ゴルゴン的な」

 「あれは一回見たら死ぬ系だろ」

 蛇の髪の毛を持ったゴルゴンは、目の合う相手をたちまち石に変えてしまう能力を持つギリシャ神話の怪物。

 「メドゥーサってゴルゴンの妹でしたっけ?」

 「オカルトにも神話にも大して興味はないよ、あなたほどじゃない」

 市ヶ谷椿という少女は書店に行くと必ずと言っていいほど月刊ムーやその他の雑誌、500円くらいで売ってる怪しいオカルト本を躊躇なくレジに持っていく。そういうベクトルでは日菜子よりもずっとたちが悪い。例えば首相の陰謀論の話などに毎回付き合わせないでほしかった。一般人ならあまり近くにいて欲しくない変わり者な人間で、この人間のせいで去年から今の今まで1年半も振り回され続けることになった。

「今日は誰にパシられたんですか、まさか日菜子ちゃん?」

 「それ以外に誰がいる」

 「真衣とか先輩方とかにもパシられてますやん・・・私にも」

 「椿は、ほら、まだ良心的で・・・」

 そのように言ったあと、椿にこれまでパシられてきた出来事をざっと振り返る彼だが、本番直前になって小道具を失くす彼女のために小道具を大慌てでホームセンターに買いに行かされたりだとか、顧問の先生に空き教室の鍵を返しておいてと彼女に頼まれた際、その渡された肝心の鍵が何故か真っ二つに破損したりとか(なんと破損部がスティックのりで補修されていた)、彼女の命ずるパシリもあながち良心的とは到底言えない・・・どころか、もはや別次元レベルのパシリであったことに気づかされてしまう。

 そんな将吾の心情を汲み取ったのか目の前の彼女まで気まずくなってしまい、二人してその場に立ち尽くし、沈黙した。

 「あ、あの、・・・将ちゃん、ごめんね、その、短い間だけど・・・楽しかったよ・・・」

 椿はぎこちなくだが、しかし精一杯に微笑む。この笑顔のせいで彼女のことはあまり憎めない。

 「素直にそう言えるから他のやつと違ってまだ良心的だ。お前本当にバカだけど」

 本当にどうしようもなくアホだけど。

「でも確かに、先輩をこき使ってる頻度としては圧倒的に日菜子ちゃんか。あの子すごいな・・・まだ入部して三ヶ月しか経ってないのに」

 彼女はたったの三ヶ月でここ2年間の個人別パシリ発動回数の新記録を更新し続けている。

「俺が抜けた後でお前があいつにこき使われるの、ほぼ確定だろ」

「びぇ・・・」

 怖い後輩だけの部で上手くやれる自信はほとんど皆無に等しい彼女だが、その新体制は明日にも始まろうとしている。将吾という奴隷を失った日菜子はおそらくてぐすね引いて待っていることだろう。もはや逃れられぬ運命だ。

「しかしひどいですね、普段の元気の有り余ったうざい将吾先輩ならともかく今のめちゃくちゃな顔したゴルゴン先輩をこき使うなんて」

 「誰がめちゃくちゃな顔したゴルゴン先輩だ。藤岡だ、藤岡将吾」

 「ゴルゴンゾーラ藤岡!」

 「それチーズ」

 それも臭い青カビチーズである。

 「芸名にどうでしょ!」

 「売れない芸人みたいだな」

 「先輩の発言あんまし面白くないですしお似合いです」

 「てめぇ」

 いつものくだらない言い合いをしながら、椿はおにぎりコーナーとは真反対のパンコーナーから焼きそばパンを一つ手に取っていた。

 その動作が、何故だか、鮮明に彼の目の中に焼き付く。

 「・・・椿って、焼きそばパン好きなの?」

 「さぁ、どうでしょ」

 椿は意味深な笑みだけを残して今度はおにぎりを物色し、手に持てる範囲の物をレジに運ぶ。そんなに食べるのかという疑問が彼の頭の中に浮かんできたが、野暮なことは聞かないことが吉。

 一方で将吾の胃の中は、先ほどに比べて幾分マシになっていた。緊張感から解放されたのだろう。飲むと根拠のない自信が付くため毎回御守りのように飲んでる御用達のエナジードリンクを一本手に取ると、日菜子のオーダー通り高菜と明太子のおにぎりをレジに運んだ。


 コンビニの外の喫煙所には、我先に帰ったと思われた椿がスマホを弄りながら壁に寄りかかっている。

 「待っててくれたのか、珍しい」

 将吾が出て来たことを確かめると、彼女は袋の中から先ほどの焼きそばパンを取り出し、それを将吾の袋の中に放り込んでくる。

「は」

「私の奢り」

 椿は満面の笑みを浮かべて言った。

「え、いいの!?そんな事してくれちゃって、俺、調子に乗るぞ」

 思わぬささやかなサプライズに彼は頬を緩ませた。食欲はないが、普段あまり部内では他人に優しくしてもらうことが少ない彼にとって、もはや誕生日プレゼントを渡されるのと同じくらい嬉しいものだった。

 「あ、それ先輩にじゃなくて、日菜子ちゃんに」

 「は?」

 そこで、どうして彼女の名前が出てくるのだ。 

 「日菜子ちゃんにロイヤリティ(忠誠心)を示すチャンスですよ。みんなには先輩が自腹で買ったってことにしておいてあげますから」

 おい、誰が日菜子様専属パシリだ。

 待て、走るな。

 将吾は助走をつけ、その場からそそくさと逃げ出そうと決め込む椿の襟首を捕まえて殴ろうかと思ったが、やめた。

 そりゃ確かに焼きそばパンはパシリの代表格かもしれないけど。

 将吾はガッカリとも何とも言い難い複雑な気持ちを抱きながら、市民ホールまでの道のりを無邪気で馬鹿で騒がしい椿と同じテンションで歩く。二人の息はこうやって毎回不気味に合う。

 将吾は、この騒がしい女をなんだかんだ言っても気に入っており、傍目に見ると二人はまるで兄妹のようでもある。1年間ともに過ごしてきた可愛い後輩の一人であることは間違いなく、明日で引退という事実がのしかかると、今更寂しさが襲ってきた。

 

 「あのぅ、駄菓子がないですよ先輩」

 控え室で、彼女は不満げに呟く。

 人がせっかくこの直射日光降り注ぐムンバイのような気温の中、灼熱のアスファルトを踏み締めて汗だくになって買いに行ったというのに、この態度だ。

 将吾は日菜子を殴ろうかと思ったが、やめた。

 「知るか」

 しかし将吾は渋々と、椿から渡された焼きそばパンを手渡すことにした。

 「炭水化物に炭水化物っていう組み合わせがあんま好きじゃないんで、いいです」

 やはり殴ろうかと思った。

 結局忠誠心を示せなかった無意味で哀れな焼きそばパン(もとからこんな後輩に対してロイヤリティを示すつもりなど微塵もないのだが)。

 これを突っ返すためにも言い出しっぺの椿を探したが、こんな時に限って“奴”の姿はないので、彼は渋々手元のカバンを引き寄せて乱雑に放り込むことにした。

 「でもよかったですね先輩、さっきうつ伏せで死んでた時よりだいぶ顔色がよくなってきた」

 本番まで残り2時間と言ったところだが、日菜子の言う通り将吾の顔色は先ほどよりもずっと良くなっていた。控え室の鏡に映るのは死んだシーラカンスやゴルゴンとは程遠い何かがいる。大体いつもの自分だけど。

 ぐるぐるとしていた胃の痛みも、今は、だいぶ治っていた。

 「私のおかげですね。適度な運動と睡眠は大事」

 そのうち一つの大事な睡眠時間というものを徹底的に叩き潰した悪魔のような張本人が何かをほざいていた。将吾は先ほどまで自分が座っていた長机の前に置かれた、座面のくたびれた回転椅子に腰掛けてエナジードリンクを勢いよく喉の奥に流し込む。

 「演技の前に炭酸飲むんですか?さすが、ベテランは違いますね」

 「微炭酸だからいいだろ・・・」

 彼女の皮肉に辛くも反論する。

 「じゃあ私はウーロン茶でも。先輩、いりますか?」

 日菜子にしては珍しく気が利くように思われたが、彼女は、よりにもよって2リットルのボトルから紙コップいっぱいに黒烏龍茶をなみなみと注ぎ、それを一気に飲み干している。

 「・・・要らないわ。お前こそ初舞台のくせにハードモードでは」

 「え、そうなんです?」

 あとで部長に止めなかったことを咎められそうだと思いながら、仕返しのつもりか、彼女が飲み干すまで指摘しなかったのは、烏龍茶は喉の油を吸収するので舞台上で声を上げる人間にはあまりお勧めできる飲料ではないためであった。

 「飲んじゃったじゃないですか〜最低」

 「別に少し飲んだからと言ってすぐ支障が出るものではないよ。いいんじゃね。知らんけど」

 そんな時ちょうど他所で昼休憩をしていた他の部員が控え室に戻ってくる。

「どうだ良英(よしひで)、今の調子」

「まぁまぁ、ですけど」彼より一つ後輩の二年生の久本良英は、演劇部の数少ない、もう一人の貴重な男子部員である。彼は控え室に入るなり将吾の顔をまじまじと見つめる。「・・・なんだか先輩、ゴルゴンゾーラ藤岡感なくないですか?あいつの話と違う」

「なんの話だ」

平静を装いつつも、将吾はエナジードリンクを少し吹き出して、むせる。

「ゴルゴンゾーラ藤岡?」

 椿が周囲の部員たちに自分の新芸名(非公式)を吹き込んだのは明らかだが、肝心の椿はどこにいるのか。いたら、しばき倒す必要がある。

「そもそも、なんでゴルゴンゾーラでしたっけ?」

「俺の顔を三回見たら死ぬらしい」

「変な嘘つかないでください。臭いチーズごときで人が殺せますか」

「いや、俺のセリフ」

「ねえチーズ藤岡、ここにゴミが、ありますよね」

 後ろからさっそく改悪した芸名で、やばい後輩・日菜子が声をかけてきた。嫌な予感がする。案の定将吾がゆっくり背後を振り返ると、彼女は先ほど自分が食べたおにぎりの袋の入ったビニールを片手に握りしめてこちらに差し出していた。

「ありますね」

「このまま私がゴミ袋をここに放置するとどうなるでしょう?地球環境が悪化しますね。不燃ゴミやプラスチックゴミをそのまま放置すると、海は汚染されますよね」

「されませんね」

 ここに海はないので、その理論はおかしい。

「捨てて来いってことですよ先輩・・・」

 良英が後ろからヒソヒソと囁いたが、そんなことは分かっている。

 「うるせえよ、なら良英が捨てて来い」

 「いやですよ」極めて即答だ。「てか聞きましたよ、先輩が日菜子ちゃんのために焼きそばパン買ってきたって。僕感動しちゃいました!忠誠心がすごい。パシリストの鑑ですね」

 諸悪の根源・市ヶ谷椿の悪事と罪状がまたもや追加されていく。

 これ以上悪評が広まらぬよう彼女の口を塞いで黙らせ、なんとしてでも吊し上げねばならない。

「え、きもい」

 日菜子は率直なお気持ちを述べた。

 そりゃ誰だってきもいだろう、と将吾は思う。パシリスト精神を示すため焼きそばパンを買ってくるとか、その発想自体がどう考えても正気の沙汰ではない。

 てか、なんだよパシリストって。



 短い昼休憩が終わり、午後の部がもうすぐ始まろうとしていた。

 「先輩たち、今日の演技で引退なんですよね?」

 日菜子が寂しそうに呟く。

 「三年生だし。しょうがないよ。それより日菜子ちゃんも江梨ちゃんも今日が初舞台なのに、こんなところにいてもいいのかな?」

 演劇部の部長である廣瀬七海は、他校と共同で使用している照明や音響の機材を丁寧に整理しながら、観客席中程に設けられた薄暗いスタッフ席までわざわざやって来た日菜子と、彼女の同級生で新入部員の一年生・江梨を明るいトーンで出迎える。

 スタッフ席には七海の他に二年生の加古川真衣の姿があった。

 「私、先輩とはたったの三ヶ月しか一緒にいれなくて・・・本当は先輩の演技、もう一度だけでいいから観たいって思ってました・・・だからすごく残念ですよ」

 七海の演技を入部後、直に見ることはとうとう叶わなかった。あまり役者をやりたがらない部長の彼女が舞台に上がるのは、年に一度あるかないかという程度。

 「私が演劇部に入ったのは新入生歓迎公演でナナミ先輩のすごい演技を目にしたからです。私の同級生みんなすっかり先輩の演技に爆笑してて、どうして美人なのに、それをかなぐり捨ててこんなに面白い演技が素でできちゃうのかなって、すごく羨ましくて・・・」

 絵梨も熱をこめて口にする。

 「ありがとう。そんなこと思っててくれたなんて、全部初耳なんだけど。恥ずかしいね。でも面白いと思ったのは多分私だけじゃなくて将吾の演技力も大きかったと思う」

 「そうそう、将吾先輩の演技はなんと言っても“ホンモノ”だから。私は尊敬してる」

 七海の隣にいる二年生の真衣も、新入生歓迎公演で感銘を受けて入部を決めた一人だ。彼女は当時二年生だった将吾の怪しげな宗教団体の信者の役で笑いのツボにハマり、中学からずっと続けてきたバレーを放り投げて演劇部に入部した。

 全国大会に行くほどの腕前であっただけに真衣が当時(現在も)変人集団と名高い演劇部に入部したことには彼女を知る中学の時の同級生たちから大変に惜しまれたという。

 「いや、あの人の演技は参考にならないですよ」日菜子は即答した。「下品で。なんか、気持ち悪いし」

 「日菜子って本当に将吾先輩の扱い悪いよね。かわいそうに、あの人いつも一生懸命じゃん。いつ頼みごとしても聞いてくれるし。確かに下ネタ言うし下品だけど」

 日菜子より大人びた絵梨は、今日も昼間に日菜子が将吾をこき使ったことを七海に話して一緒に笑い合う。

「そうだよ。将吾も今日でいなくなっちゃう。あいつの良さは三ヶ月じゃ分からないから。・・・いや、もっと一緒でも分からないか?」

「多分、永遠に分からないと思いますね」隣で概ね真衣も同意する。「私だって尊敬してるのは演技だけ。他はうざいよね、とにかく」

 完全にスタッフ席の女子たちは、将吾の悪口で盛り上がっていた。

「あの人かなり近所に住んでるけど、私が前にインフルで熱出した時、何お見舞いに何持ってきたと思う?水だよ?大量の」

「水・・・???」

 真衣は当初高熱のため、インターホンのモニター越しに幻覚でも見たのかと思ったが、何度も瞬きを繰り返すうちに小さい画面の中で2リットルの水のペットボトルが4本入った袋を両手に提げて、軒先にドヤ顔で立つ将吾の姿がくっきり見えてきたという。

 見えてきたところで意味が分からず、それはもはやホラーだ。

 最初は通報しようかと思ったが、よくよく考えたら将吾だったため取り下げたという逸話まで残されている。

「そりゃあ、まあ、お見舞いはありがたいけど・・・別に水不足に悩む地域でもアフリカでもないのに、私の家がまるで発展途上国のような扱いされたの、なんか癪」

 一同、そんな将吾の知られざる奇行に笑いが止まらなかった。

「七海先輩は一緒にいてウザくなかったですか、あの人?」

「もちろん雑だし適当な男だからね、扱いは今より苦労したよ。あいつも、だいぶこの2年間で成長して少しは大人になってくれたから・・・前より頼れるようになったんだけど」

 七海は将吾に対して何か思うところがあるように、隣にいた真衣に目配せした。

「まぁね〜、七海先輩と将吾先輩、特別な関係だし」

 七海を裏切るかのような真衣の思わせぶりな言葉に絵梨と日菜子はニヤニヤしながら顔を見合わせる。「そうですよね、三年生、男女二人しかいないんだから何も起こらないはずはなく・・・」

「そんなんじゃないってば、やめてよ」七海は必死に首を振る。普段大人びている彼女は、今だけは少女のような純粋さを見せていた。「後輩たちにこっそり内緒で付き合ってたわけないじゃん。部内で恋愛なんて・・・みんなを纏められなくなるでしょ」

「明日以降はどうなるか分からないですよ」

「お互い受験だから、可能性はナシ」

 そう断言した七海の顔は、しかし、僅かに曇った。



 将吾は舞台の袖から照明の当たった舞台を隅々まで見渡していた。

 この目の前には大きな観客席が広がっているし、今日ここには他校の生徒が多く集まっている。本日行われるのは、県内のあちこちから集まってきた他校との交流演劇祭であった。

 この行事は毎年7月に行われていて、大抵の高校では7月に三年生が引退を迎えるので、この演劇祭こそが彼らにとって最後の見せ場となる。

 緊張感を持ちつつ彼が舞台袖から顔をこっそり覗かせていると、背後から誰かに肩を叩かれる。

 「・・・最後の舞台だね。期待してるよ、今日の演技」

 部長である七海が、何を思ったのかこんなところに現れて突然暗闇の中から目の前にグーを突き出したので、将吾も自分の拳を押し当てる。

「なんだお前、スタッフ席にいなくていいのか?」

 なんとなく、七海と二人で話すのは久しぶりのような気がした。自分たちは同じ部なのに。

「様子、見に来ちゃった。みんなと同じ空気が吸いたかったから」

 ホールの舞台裏は、年季の入った独特な木の匂いがする。毎年お世話になってる舞台裏のこの空気が吸えるのも、三年生にとっては今日限りとなる。

 そんな彼女の無邪気さに、将吾の顔にも笑みがこぼれた。

 「まかせろって、絶対審査員の目を釘付けにして拍手喝采も、全部の賞も総ナメしてやるから」

 将吾が麻薬中毒者の演技をすることになっている上に他のメンバーも同様、怪しげな宗教団体の教祖の役であったり、多額の借金を抱え闇金ヤクザに追い回される夜逃げ女の役など、登場人物が全てろくでなしばかりのブラックコメディ演劇だったが、そのために倫理的な問題もあって上位に食い込むのは大人の事情で難しそうな劇ではある。

 「ほんとに誰、こんなひどい脚本書いたの」

 その作者である目の前の彼は、得意げにニヤリと笑みを浮かべる。

 「いつものこと。俺が世に出す脚本は全部がこんな感じ」

 「将吾の趣味、ほんと最悪。そのせいでいつだって振り回されてきたんだよ、この2年間?」

 「俺は別にトロフィーもらえなくてもいいかなってスタンスで生きてるので」

 「・・・ほんとに雑だよね、将吾の生き方」彼女の表情は薄明かりの中でも、複雑だった。表面的には笑っているのかもしれないが、彼女の内面までは見通すことができない。

 その複雑さに、将吾は相変わらず戸惑いを隠せなかった。

「脚本の書き方も雑。お客さんのこととか役者のこととか、スタッフのことだって何にも考えてくれない。ほとんど私が毎回一般の観客に見せられるレベルになるように校正・推敲を繰り返してきたんだから」

 「・・・分かってるよ。感謝もしてる。でもそのせいで毎回俺のオリジナルの脚本とは言い難くなってしまってるじゃん。どうしてくれるんだ、洋画のノリがだいぶマイルドになってしまった。最悪。“ファック”も禁止、どう狂気を再現すればいい?」

 「ほんとに、将吾のバカ」

 七海は調子に乗る将吾の背中を笑いながら、静かに叩いた。

 思えば、いつだって部長である彼女には迷惑をかけ続けてきた。

 演劇部の年に一度の大舞台である10月の全国高校総合文化祭でも、この演劇部は本気で挑んだにも関わらず銀賞・地区大会落ちという結果に終わり、去年から部長であった彼女は悔しさをにじませた。

 落ち込んでいた七海とは対照的な将吾は、そんな彼女を励ますどころか“たかが演劇祭”と言って笑い飛ばしたため、二人の仲は険悪になったこともある。そのような彼の煩雑さが彼女に迷惑をかけてきた。

 だからこそ、きっと自分のことはよく思われていないのだと彼はすっかり思い込んでいる。

 「七海、演劇部は楽しかった・・・?」

 七海は将吾の顔をじっと見つめて満面の笑みを浮かべる。

 こんなにもあどけない笑顔を作った彼女を見るのはとても久しぶりな気がした。

 「楽しかった・・・私、ここで将吾と一緒に頑張ってこれて本当に良かったなって思う、ほんとだよ」

 お世辞だとしても、そう言ってくれる七海の優しさに癒される。本当に、普段は演技指導だってかなり厳しい彼女だが、お互いたった二人の同級生同士、今日まで二人三脚で頑張ってきたのだ。

 将吾はそんな彼女の様子に、今は安堵している。

 「そういえばあの時の私たちの初舞台で、ここで将吾にもらった焼きそばパン・・・」

 ところが、突然の不意打ちじみた彼女の言葉。

 「美味しかった。あれからもう2年が経つんだね」

 「・・・終わったことを、今更蒸し返すなよ」

 「あ、やっぱり・・・」七海の目は薄明かりの中でも、ダイヤモンドのように、キラキラ輝いた。「ちゃんとあの時のこと、覚えてた?」

 しまったな。

 将吾は気まずくなり、突然食らいついてきた七海から思わず目を逸らす。

 「私、ここで震えてたよね」

 七海は鮮明に覚えている。自分の好きな役をオーディションで勝ち取ったと喜んでいたのに、初めての大きな舞台の上で緊張してしまい、うまく言葉を紡ぎ出すことができなかったことを・・・。

 セリフが抜けたところを他の部員がフォローしてくれたおかげで、なんとか劇を続けることができたのだ。

 七海は先輩たちに申し訳なくなったのか、控え室に戻るなり泣きじゃくってしまった。三年生にとっては最後の晴れ舞台を、一年生の自分が、こんな形で台無しにしてしまったのだから。

 「あの後で、将吾がさ」彼女は周囲を気にかけるように声量を抑えながら声を弾ませる。「私をコンビニに行こうって誘ってくれて、焼きそばパン、買ってくれたんだよね」 

 「・・・懐かしいな」

 わざと、ぶっきらぼうに言う。

 「焼きそばパンなんて・・・美味しいけど、変だよね。どうしてそんなチョイス?」

 「今更だよ」理由なんか覚えていないのに。「どうしてでしょう・・・」

 有耶無耶にしてごまかそうと思ったが、七海の真剣な目はごまかせない。

 「他にパンの種類全然なかった、しょうがないだろ」

 「別にパンじゃなくても、飲み物とかでもよさそうなのに?」

 どんな言い訳も、彼女には通用しない。

 「気がきかなくて悪かったな・・・ごめん。今ならもっと気がきく物、渡せる」

 「・・・別に、今は求めてない。そういうの」

 七海はそう言って明るく笑うと、ようやく満足してくれたのか、くるりと踵を返して目の前から立ち去っていく。

 後に残された将吾は彼女の遠ざかる背中を見つめたまま、その場に立ち尽くした。

 あの時の関係には戻れないのに、自分はなんてことを口走ったのだろう。

 普段後悔もなく前だけを向いて生きている彼ですら勝手に飛び出した自分のあまりにも無責任な言葉に、胸の奥が少し痛かった。

 

 本番の20分前。

 舞台袖の暗闇の中、いつまでも続くような長い沈黙の中でひたすら開始を待つ。

 だが、今でも彼の頭の中には彼女が居座り続ける。

 待機時間にこそセリフも演技も、もう一度頭の中で確認したい。一生懸命意識をそちらに集中したいのに、これでは、どうしていいかも分からなくなってしまう。

 ・・・二人を結びつけたあんな些細な出来事があってから、将吾と七海は先輩たちに内緒で自然に付き合うことになるが、やがて自分のことを彼女がどこかで嫌っているように思えたのが、彼女を自分から振ることになったきっかけ。

 部内で将吾の適当さに厳しい彼女の存在が、難しいことを考えず自由奔放に過ごしたいと願う彼にとって、どこか重荷に感じていたのは事実だった。

 狭い部の中でも上手に距離を取り続けてきた。実際に七海の方も別れて以来ずっとスタッフばかりで、常に舞台に出続ける自分とは大きく距離を取られていた。

 だから日々彼女のことを考える機会なんてなかった。それなのに・・・同じ部で一緒に過ごす最後の日である今日に限って、彼女のことで、こんなにも胸が苦しくなるとは思わなかったのだ。


 沈黙を切り裂くように本番開始10分前を告げるブザーが、鳴り響く。

 一つ前の学校の演技が終わると、ようやく自分たちのセッティングが始まる。

 分厚い幕が下り切っている中で、ホールのスタッフと共同で一斉に大道具を舞台の上に運び込んだ。

 将吾は舞台上の最上級学年として、同じ役者たちを指示する役目を担っていた。

「気をつけて運んでくれよ」

 指示通り足りない山台をいくつか舞台に運び込んだ。将吾も他の部員と二人がかりで運んだが、重い山台の片側を持っているのは日菜子だった。

「緊張してないか」

「してませんが」

 既に置かれていた山台の隣に置いた後は、乗っても動かないように双方を金具で固定する。その他の事務机や、一生懸命作った教団施設のハリボテなども運び込まれ、舞台上は瞬く間にカオスな空間になる。

 「相変わらずの変なご趣味ですね、先輩の脚本って」

 一瞬、目の前に立つ彼女があの時の七海に見えた気がして、将吾は彼女の目をまじまじと見つめる。・・・あの日の七海も、自分の脚本を悪趣味だと笑っていた。

 「本当に今回の役、気に入ってる?」

 この劇の練習を始めてから一ヶ月、まだ一度も聞いたことのなかった言葉を初めて彼女に告げる。脚本の制作者が役者に対してこんなことを尋ねるのは、正直気恥ずかしいところはあった。

 「将吾先輩、すぐ調子乗るからまだ言わないでおきますよ」

 日菜子はにやりと笑っただけで、それ以上何も言わない。

 しかし、それは気に入ってる時の反応に他ならないと、十分その答えに満足した将吾もそれ以上追及することはなかった。

 「ヨッシー、セリフ抜けたらぶっ殺すから」

 「椿には言われたくないんだけど・・・」

 近くでは、椿がいつものように良英に暴言を吐いていた。

 「先輩」衣装を着て舞台の真ん中にスタンバイしていると、舞台袖に下がろうとした日菜子が呼び止めたので、何かと思って振り向く。「先輩の書くセリフ、めちゃくちゃ言いづらい」

 「今言うんじゃないよ、アホ」

 将吾は笑みを返して再び正面を見つめた。


 幕が上がるこの瞬間が一番好きかもしれない。

 アナウンスとともに大きくて重い緞帳が上がっていくと、観客席のざわめきが肌に直接伝わってくる。

 舞台上には最初から出ている自分一人の姿のみだ・・・。

 劇はその後も舞台上に役者を登場させて賑やかに、やかましく進行していく。麻薬中毒者の将吾は、喚いたり転げ回ったりして、その凄まじい怒涛のリアリティで観客を圧倒させる。観客たちは圧倒されているというよりかはドン引きして、半歩下がって彼のことを見ているような感じすらある。

 「ふ、本当に薬やってんじゃないの」

 スタッフ席にいた真衣は身を乗り出すように舞台を見つめては、笑いのツボに入っていた。七海は、ただ黙ってじっとそんな将吾の活き活きとした姿を目に焼き付けていた。そして見事なタイミングと慣れた手つきで照明の色を自在に変化させていく。


 最初はあまりのブラックコメディぶりに笑っていいのか周囲の様子を窺い気味だったほとんどの観客たちも、次に出てきた椿の演じる宗教団体の教祖役の狂ったセリフや、夜逃げ女を演じる日菜子との絡みのシュールさで、一部の観客が、もはや隠しようのない笑い声をあげたことをきっかけに、全員が笑いの渦に呑み込まれていく。

 その瞬間、舞台にいた将吾は今回の最後の劇は成功だったと強く確信する。


 –––––見たか、自分の脚本は2年半の集大成–––––––


 まるで自信満々にそう言うかのように、会場全体に向かって彼はセリフを声高く、叫んだ。

 

 ある時審査員の顔がうっすら彼の視界に飛び込む。だが、その場所には四人も審査員がいるのに・・・誰一人として笑っていない。

 あまりの無表情ぶりに、こりゃ今回もトロフィーは無理そうだと、将吾は心の中で笑った。

 控え室に戻ればきっとまた七海に叱られそうだと思いながら、最後まで演技を続ける。


 全てが脚本通りに無事に終わった時、いつものように観客席から拍手が巻き起こる。少なくともお客さんを笑わせることができた彼の胸は、大きな満足感で満たされていた。

 部活人生最後にふさわしいフィナーレ。しかし45分間の劇なんて、本当にあっという間だ。

 終わった瞬間、全身からは汗がどっと吹き出してくる。

 クライマックスを告げる壮大な音楽とともに幕がゆっくり下りていく中でスタッフ席から照らされた紫色の怪しげな明かりが、隙間から差し込んだ。


 あの光の先に、七海がいる。

 緞帳が降りる間の20秒間、彼女のことが、またもや脳裏によぎってしまう。

 あの場所で明かりを照らしてくれる彼女と一緒に舞台の上を歩いたのはいつだったのだろう・・・別れてから彼女と共演したのは、新入生歓迎公演の一度きり。しかしそこでも役の絡みは一切ない。

 本当は彼女だって役者として舞台に出たいと思っていたんじゃないか?

 彼女は自分に遠慮して役を演じることを、ずっと避けてきたんじゃ・・・?

 そんな疑念が頭の中で何度も飛び交う。・・・とうに幕の下りた空っぽの舞台の真ん中で罪悪感に苛まれて立ち尽くしていると、気づいた時には次の学校が粛々と舞台のセッティングを始めていた。


 全ての学校がプログラムを終えたのは午後4時半のこと。

 その後すぐに行われた閉会式では部員全員、観客席に座り固唾を飲んで壇上の審査員や実行委員たちを凝視していた。

 参加した県内14校の演劇部のうち8校が銅、4校が銀、2校が金という結果になるはずだが、審査員による投票と一般観客による投票二つを集計した上で何の賞を獲得するかが決まる。・・・いくら観客席の得票が高くとも審査員票が悪ければ金賞は難しい。

「でも傾斜配点だからね。単純比較なら一般観客の得票数が多い方が強いわけで」

「私たちの演技、お客さんには大ウケだったし」

 部員たちは、観客席左端の客席に横一列になって座っていた。ホールの出入り口に面した通路側には部長の七海、そしてその右隣には将吾が座っている。

 ・・・将吾は何も考えずにじっと真っ直ぐ正面の舞台を見つめていたが、ふと、ちらりと左に座る彼女に目をやる。

 彼女の視線が、そんな彼の視線とぶつかる。

 不意打ちだったから将吾は慌てて視線を逸らしたのだが、もう一度・・・今度は面と向かって、彼女を見つめた。

「何さ」

 他の部員を気にしつつ、小声で囁く。

「・・・怒らないからね、私」

 七海も真っ直ぐ将吾に顔を向ける。その曇りのない彼女の眼差しに、もはや結果発表のことなど完全に彼の意識から欠落してしまっていた。

「何諦めてんの。聞いたろ・・・傾斜配点。まだ見込みはあるし」

「ないよ」

 あまりの即答に、将吾は半分ムキになって言い返そうとした。しかし、

「・・・高校、銀賞!」

 将吾の口元を押さえつけるように、その瞬間、自分たちの高校の名前とともに銀賞という言葉が会場全体に響き渡った。右隣から部員全員が一斉にうなだれる声をあげたのが、彼の耳に飛び込んでくる。

 将吾は現実の儚さに、ただ唖然とするばかりだった。

 「ね。言った通り」七海は呆れるように、彼の肩を優しく撫でた。「楽しかったよ」

 「・・・本当に、怒ってない?」 

 七海はゆっくりと頷く。

 「ごめん、七海・・・」

 「どうして謝るの?」

 「だって・・・」

 最後の最後くらい自分の脚本で金賞でも勝ち取って、七海を喜ばせられたらよかったのにと思って。

 「それと・・・本当は最後くらい役者、したかったんじゃないか?」

 将吾は恐る恐る尋ねたが・・・彼女は少しの間黙り込んだと思ったら、ゆっくり首を横に振る。

 「私にはスタッフの方が合ってる。また、セリフが抜けてみんなに迷惑かけちゃうから」

 その言葉が本音ではないような気もしたが、将吾は、それ以上何も聞くことができなかった。

 

 後片付けも残念会も簡素なお別れ会も、全てが終わったあとで将吾と七海は並んで歩き、ホールを後にする。

 ひぐらしが鳴く夏の夕暮れ時、二人はお互い一言も口にすることなく、駐車場の隅を歩く。

 ・・・そんなに時が経たないうちに、二人はあっという間に自転車小屋の前に着いてしまう。

 「ほんとに・・・終わっちゃったね」

 無言のまま、将吾は自転車を持ち上げて手で押した。その後ろで、すでに七海は自転車を両手で支えて将吾を待つ。

 自分のことを待ってくれるとは思ってもいなかった将吾は上を見上げて、ひとつため息をついた。

 「後輩たちあいつらと最後になんか喋ったりしなくて、よかった?」

 「部室には、また遊びに行くよ。名残惜しさは感じてない。多分向こうも」

 「そうか」

 次の部長は将吾を過度に敵視する真衣と決まっていたから、将吾にとっては行くのが少し躊躇われる。当然、日菜子という巨大なリスクの存在も当然にあるのだが。

 「・・・私たち、立派な老害になっちゃったね」

 彼女らしい答え。あまり最後や終わり方にはこだわらない。むしろ、そのようなことに関しては自分の方がずっと・・・こだわってしまうような気がする。そんな彼女と比較したら、過去に今でも未練がましくしがみついているような自分が嫌になってしまう。

 「将吾はさ、志望校決めてるの?」

 「うん。一応は」

 受験生であることを嫌でも思い知らされる。こうしている間にも同級生は一生懸命勉強に励んでいるのだろう。大事な時期でも勉強の進捗なんてひどいものだから、正直なところあまり話したくもない話題であった。

 「そんな難しいところ受かるわけないでしょ。最近の判定は」

 「E」

 「第二希望のとこは?」

 「E」

 「第三希望」

 「D」

 「・・・滑り止め」

 「そんなもの必要ないだろ」

 「バカじゃないの」

 「まだわからんぞ」

 「しかも、名前だけで大学選んでる」

 「だって、よくわかんない」

 「ほんと、雑に生きてるんだから」

 彼女でもないくせに、余計なお世話・・・。

 喉にまで出かかったそんな言葉を、彼はどうにか押し込めた。


 二人の会話は、それで途切れる。

 無言のままの二人・・・今はまだ帰り道は同じ方角でも、あと二つ先の信号のある大きな交差点に差し掛かれば、そこで嫌でもお別れ。

 明日また学校に行けば会えるはずなのに、クラスが違うというだけで、その別れは永遠のような気がしてしまう。

 将吾の心の中は葛藤に苛まれて、もやもやとしていた。

 交通量の多い道路脇の、あまり舗装されず、でこぼこした狭い歩道を一列になって歩く二人は駐車場の広いコンビニの前に差し掛かる。

 「・・・コンビニさ、寄って帰らない?」

 将吾は振り向いて、少し後ろを歩く彼女にそんな提案をした。

 ・・・でも、彼女は遠慮するように首を横に振る。

 そりゃ、そうか。

 将吾はそれ以上何も言わずに再び歩き続けた。

 もう、これで本当に・・・本当の意味で、お別れなのかもしれない。

 しかし自転車の前かごに突っ込まれた鞄が揺れ動くのを見たときに、彼はその中に焼きそばパンがあることを急に思い出して、その場に立ち止まった。

「・・・どうしたの?」 

 将吾は再び彼女に振り返ると、少し躊躇いがちに七海にパンを差し出す。

 「言っとくけど、俺が買ったわけじゃないから」

 彼女は最初訳が分からないとでも言うかのように無表情だったが・・・しかし、すぐさまその表情はパッと明るくなり、両手で大事そうに包み込んだ。

 「うん、知ってる・・・椿ちゃんから聞いた」

 将吾は、突然現れた椿の名前に胸がどきりとする。

「でもそれ、本当は日菜子ちゃんに渡すつもりだったんじゃなくて?」

 「あいつがもらう気なくて・・・余り物でも、いいのなら」

 意地悪く笑う七海に歯切れの悪い言い訳をする。誰彼構わず余計なことを言いふらした椿を恨みながら。しかし、彼女がこんな馬鹿なことをしなければ今頃手元に焼きそばパンもなかったと考えたら・・・。

 「構わない、私にくれたことは事実でしょ?」

 七海と将吾は二つ目の駅前の交差点を、そのまま真っ直ぐ進むことにして駅前のロータリーに面したベンチに二人並んで腰掛けた。

 将吾の隣で、彼女は焼きそばパンを美味しそうに頬張る。

 「・・・美味しいか?」

 将吾は彼女の顔色を伺うように横顔を覗き込んだ。彼女の目には少し涙が滲んでいるような気がした。

 「うん、美味しいよ・・・もう二度と味わえない」

 「んなわけあるか」

 「本当だよ、あの日と同じ日に、将吾がくれたものだから」

 付き合っていた頃には毎日見えていたはずの純粋な彼女の目が・・・将吾を捉えて離さない。

 「・・・でも、女子って普通はスタバのコーヒーとか、そういうのをさりげなく渡されたいものじゃ・・・」

 「女子が皆おしゃれなものしか口にしないとか、思ってる?」七海は語気を強めた。「そんなおしゃれなものいらない。このくらい、雑なものがいい」

 「うそつくなよ、俺の雑な性格が嫌いだって・・・」

 彼女の反応を確かめるように、尋ねた。膝下に置いた自分の指が微かに震える。自分のダメな性格がこれまで彼女の抱いてきた夢や目標をはぐらかしてきたのだから。

 自分と付き合ったことが、彼女にとって幸せなことではなかったと思ってしまうから。

 彼女は最後の一口を食べ終わるまで無言だったが、手元に残るビニール袋を丁寧に折り畳み、ワイシャツの胸ポケットに仕舞い込むと、将吾に潤んだ瞳を向ける。彼女の肩まで伸びたしなやかな髪の毛が、風に揺れる。

 「・・・私が将吾を嫌いになったことなんて、一度もないよ」

 それでも彼は、そんな彼女の答えを全面的に疑った。

 「本当のこと、言ってくれなくちゃ」その言葉だけじゃ到底納得がいかずに食い下がる。自分の思っていた言葉とはまるで違っていたから。「最後だからって気を使うことは何もなくて・・・」

 「こんなに雑で適当なあんたを、好きで何が悪いの?」

 将吾の期待を打ち消すような彼女の悲痛な声が響く。

 ・・・それがナイフのように彼の胸を鋭く突き刺した。

 七海の目から、それまでずっと我慢してきた涙が遂に頬を伝ってこぼれ落ちていく。

「私は将吾が好きだったよ・・・それなのに、勝手に勘違いして私を遠ざけてきたのは、そっちでしょ?」

 もはやそれ以上、将吾の口から何か言葉が出てくることはない。

「・・・付き合ってる時にはっきり言えばよかったね。もちろんフラれたあとにも。私はずっと・・・雑で、適当な将吾が好きだったんだ」

 彼は後悔のため息をつくと、よろめくようにベンチに深々と身体を埋める。彼女よりずっと小さくなった彼の目には、ようやく少しの涙が滲む。

「・・・焼きそばパンもらって喜んでくれるのは、七海だけだった」

 そんなこと、今更言ったって。

 明日からお互い部室で顔を合わせるわけもないのに。




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引退公演と、焼きそばパン。 らべる @vitebsk

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