第3話 コロナの覚悟
「お父さんとお母さんもコロナは怖い?」
テレビの画面ではコロナに感染した人が苦しそうな息をしながら喋っていた。
お父さんは口に運ぼうとしていたワイングラスを空に浮かせたまま少しだけお母さんの方を見た。
お母さんは食べ終わったお皿を持とうとしてお父さんの方を見た。
口を開いたのはお父さんだった。
「怖くはないな。それはお父さん達の病院に感染した人がいないからじゃないし、お父さんが感染しないと思っているからでもない。」
「そうなの?感染した人いないの?」
お父さんは静かにうなづいた。
「でもそれは、まだ感染が判った人がいない、という事だ。わかるかな?」
わからなかった。だから正直に首を横にふった。
「テレビで言っている感染者の数というのはPCR検査というものをして、身体の中にコロナウィルスが存在している事が分かった人の数なんだ。だけどね検査をしていない人の中にもウィルスを持っている人はいるし、そういう人の中には、まるっきり症状のない元気な人もいるんだよ。だからお父さん達の病院にも、ひょっとしたらもう感染者はいるのかもしれないし、ひょっとしたらお父さんもお母さんも、すでに感染しているのかもしれない。」
「マスクもしてるし、あんなに手洗いや消毒もしているのに?」
私が聞くとお父さんは言った。
「ウィルスは目には見えないからね。マスクをしても医療用の特殊な物をきちんと付けない限り、完全にウィルスを防ぐ事は出来ない。手洗いにしても、どんなに丁寧に洗っても本当にウィルスが除去されたかどうかなんて分からない。ウィルスが目に見えていれば毎回手洗いをするたびに確認する事ができるけれど、そうじゃない。もちろん流水で20秒間洗浄したらほとんどの細菌やウィルスは洗い流されるというデータはある。けれど毎回完全に除去されてるとは限らないし、人のやる事には限界もある。10回手洗いして、その10回ともが完全に出来てる人は何人ぐらいいるだろうね。仮に10回が完璧に出来ても、100回だったら?」
私は1日に何回も手洗いしてガサガサになったお婆ちゃんの手を思い出した。
「かと言って手洗いやうがいが、まるっきり意味が無いわけではない。そうだな…手洗いやうがいはね、感染する確率を下げる行為といえるかな。丁寧にやればやるほどウィルスを除去する確率は下がる。でも100%除去できるわけがない。だからほんの少しのウィルスが手から物へ物から別の人の手へ移動してしまう事はある。そして感染が広まってしまうこともある。」
私はうなづいた。何となくわかったような気がした。
「でも、だったらお父さんは何で怖くないの?」
お父さんは今度は少し長く考えた。ワイングラスをテーブルに置いて顎に手を当てている。私はこたえを待った。
「怖がっても意味がないから…かな?お父さんがコロナを怖がって病院に行かなかったら患者さんやスタッフが困ってしまう。だから病院に行かないわけにはいかない。じゃあ、どうしたら良いのか?とにかく感染する確率を下げるための行動をきちんとする。できるだけ感染する確率を下げるための行動をとって、それでも感染してしまったら…それは運が悪いと思って引きこもるだけ。症状が酷ければ入院だし、そうでなければ県が用意してくれたホテルとかの施設かな。じっと大人しくして他の人に感染を広げないようにする。それだけだね。それに感染を怖がってはいないけど…」
お父さんは少し間をあけてから言った。
「お父さんもお母さんもね、コロナを怖がってはいない。けれどね感染する覚悟はできている。そういうところかな」
覚悟…?感染する覚悟ってなんだろ?どういう意味なんだろう。キョトンとしてしまった私を見て、少し笑いながらお母さんが言った。
「お父さんもお母さんも、自分が感染したらどう行動したらいいのか常に考えてるって事よ。」
え? お父さんお母さんが感染したら…-⁉︎
どうしたらいいの?私…
「大丈夫!お婆ちゃんもいるし、お婆ちゃんの家にはおじさん達もいるんだから。」
それでもお父さんお母さんが感染したら…
「さあ、大丈夫だから。もうお風呂入っちゃって…あなたも、感染した時に備えて体力をつけなきゃね。お酒はほどほどに…」
お父さんに話し続けるお母さんに背中を押されて私は浴室に向かった。
けれど急に現実味を浴びたコロナウィルスの存在に私は初めて不安を覚えた。
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