奉仕活動2
「――ちょっといいか、アドルフ?」
声は素早く近づき、後ろから彼を呼びとめた。女性のものであるが、低く力強い声で、一箇所に集中していたアドルフは若干意表をつかれた。
わずかに振り返ると、そこにはアドルフ班の同僚、フリーデの姿があった。不機嫌そうな眉毛をつりあげ、切れ長の目で睨み、たえず何かに腹を立てているような面構えの少女である。
「まったく、君というやつは。何度同じ真似をしたら気が済むんだ?」
忠告は、時を置かず説教へと変わっていく。フリーデの階級は上等兵で、アドルフより格下なのだが、まったく物怖じすることなく、口調は厳しめである。
一概に亜人族といっても、その種類は多岐に渡る。アドルフが転生したのは比較的数の多いヴォルフ、つまり人狼である。
たいしてフリーデは稀少種の
そんな物珍しさ満点のフリーデだが、無視してやり過ごそうとするアドルフのベルトをがっちり掴んだまま離さず、再び低音で響く声を放った。
「以前、新しい主任が来たとき、君の煽りが怒りを買ってひと騒動起きた。幸いあのときは処罰をまぬがれたが、同じことが何度も続くと限らない。素直に謝り、争いは回避してくれ」
どうやら彼女は、アドルフの行動に不穏なものを読みとり、しかもかねてより密かに危惧を抱いているようだった。しかも主張を押し通す気の強さは完全に男以上。物静かに詰め寄る低い声はアドルフの意識をそれなりに刺激した。
――見て見ぬふりをし続けたが、今回ばかりは我慢の限度を超えたというわけか。どちらにしても、心配性の女だ。
警告を発するフリーデとのあいだに温度差を感じとったアドルフは悄然と息を吐くが、フリーデの気の強さは飾りではなく、それは明確な実力によって裏づけられていた。
実のところアドルフは、魔導師としては二流どころか三流以下で、位階にすれば最低のFクラス。それは収容所に入る前、しかるべき訓練を受けていなかったことが原因だが、アドルフ以外の班員は一定のクラスを得ており、なかでもフリーデは魔法にかんする抜きん出たセンスの持ち主。位階は上から四番目のCクラスだが、実質的な戦闘力はBクラス以上ともいわれている。
そんな卓越した戦闘員であるフリーデだからこそ、アドルフの行動を普段から注意深く観察し、彼の行動につきまとう危うさをつねに感じとっていたのかもしれない。
けれど肝心のアドルフにとって、それはやはり想定内なのである。だからこそ彼は、じゃれついた子供をあやすような声を神妙に発することができたのだった。
「そう案ずるな、フリーデよ。お前は肝を冷やしたかもしれんが、我にとってあれは全てが予測の範囲に収まるありふれた出来事であった。今回も同じである」
前世の彼を連想させるハスキーなしゃがれ声で、アドルフはフリーデの非難を軽々と押し返す。そんなふうに断ずることができたのは、彼なりの根拠があったからだ。
それはアドルフが収容所幹部との間に築いた太いパイプである。
肖像画の作成をきっかけに個人的なつながりを得て、顔と名前を覚えて貰い、奉仕活動でだれもが認める成果を出し続ければ、よほどの亜人嫌いでなければ、相手はアドルフという男に興味をもつ。
そうして得た関心はやがて信頼へと変わり、私邸で催される晩餐などに呼ばれだし、囚人でありながら特別扱いをされるようになる。その最たる人物はアドルフに少尉の地位を与えたクラフツレ前所長だ。
その関係性は後任であるカフカ所長にも引き継がれているため、収容所幹部たちはアドルフの味方と言って差し支えないのだった。
とはいえ部外者であるフリーデは、こうしたアドルフの目に見えない影響力を意識にのぼらせることはできない。だから彼女は、アドルフの前方へまわり込むと、威圧感のこもった瞳をむけ、懇願するように囁いた。
「言葉は悪いが、勘違いをしていないか。君は少尉になったことで乗り越えたつもりかもしれないが、僕たち亜人族の立場はとても弱いものなんだ。思い上がりと受けとられるような態度は控えてほしい」
声こそ低めているが、言葉は機関銃のような早口。そして顔つきはさらに険しくなった。生まれたての赤ん坊がいまのフリーデを目にしたら、恐怖のあまり泣き出してしまうだろう。
けれどアドルフは、これしきの脅しに怯み、行いをあらためるような男ではない。フリーデの言い分はわかったし、そもそも彼はこのとき、他のことに意識をむけつつあった。
「お前の指摘には一理あるな。次から気をつけることにしよう」
手短に言い放った彼は、着地点の見えない会話をばっさり切り捨て、ずり落ちたマフラーを口許まであげた。
「ちょっと待て。話はまだ終わってないぞ!」
フリーデは精一杯の声で追いすがるが、アドルフはもう耳を塞ぎ、話をろくに聞いていない。視線も遠くに外し、目も合わせない。それは「もう絡みつくな」という意思表示に他ならないが、なぜそこまで突き放すような態度に出たのか。
実はこのとき、アドルフの広い視野には、明瞭に飛び込んでいたのだ。衝撃から立ち直りつつあった現場主任、ゼーマンの姿が。
――ふむ。思いのほか早い回復ぶりだな。
確かにちょっと前まで、ゼーマンはマストにしがみつき、腰を抜かしたかのような有様だった。
しかし甲板に突いた片膝を起こし、肩を荒く上下させた彼は、すでにこちら側を睨み、鋭い目つきをむけているではないか。
その双眸に宿った光は、まごうことなき敵意だ。
風にはためく士官服を腕で押さえ、狭い額を露出させるゼーマン。その表情や動きは、飛空艇に衝撃を与えたアドルフの故意を疑い、因縁をつける前ぶれのように映った。
――はたして〈予想〉どおりに動くかな、あの筋肉バカが。
アドルフは鷹揚な構えでつぶやいたが、彼の言う〈予想〉とはいったい何か。
すでに指摘したようにアドルフにとって想定内が九割だ。相手の特性を引きずり出し、確率を高めた行動範囲は、かなりの精度で予測が可能になる。
囚人の噂どおり、筋肉バカのレッテルを貼ったゼーマンの場合、それはきわめて容易く思えた。知性の劣った人間は、感情的になってキレやすい。したがってゼーマンは、ここからしばらくは荒れ狂う高波のようにアドルフを責め続けるだろう。だが彼にはカフカ所長という後ろ盾があり、そのことを前提とすれば勝負は最初から見えている。
ところが次の瞬間、アドルフはある異変を察知した。
瞬きするほどの短い間に、視線の先でゼーマンが表情を一変させたのだ。奥歯を噛みしめるほどの憤激から、全てを悟りきったような不敵な笑みへと。
それは腹の底に溜まった不満を怒鳴り声と共にぶちまけ、その場限りの衝動に突き動かされた人間の浮かべる表情ではなかった。
――ほう、何やら様子が変わったな。
落ち着き払った彼は意識を切り替えるが、そうこうしているうちにもゼーマンがずんずん迫ってくる。やがてふたりの距離は限界まで近づき、アドルフの鼻先に拳が突きつけられた。
「反省するどころか、やっぱり生意気なツラじゃねぇか? ああん?」
その声色は、腹を立てたものではない。かといって囚人をなめくさった態度でもない。ほとんど同じ台詞だが、さきほど垣間見えた虚勢もない。
ゼーマンに起きた変化をひと言で言い表すなら、それは溢れるような自信だった。囚人の仕掛けた計略など、すっかりお見通しだと言わんばかりの自信。そんな余裕に満ちた感情が、いったいどこから湧いてくるのだろう。
「腑に落ちねぇって顔つきだな、アドルフ。どうして黙ってんだ? 何か言うことがあんだろ?」
謝罪をほしがるように笑ったが、感情的には見えず、ゼーマンはアドルフをフリーデから引き剥がし、首に腕をまわしてきた。
アドルフにとっては想定内が九割。にもかかわらずこのとき、彼の予想はあえなく外れたのだった。一度は筋肉バカと思い込んだ男の予想外な豹変によって。
しかし彼には、物事には必ず想定外が一割あるという達観がある。だからこそ予想が外れたくらいでは動じることなく、最善の切り返しをすかさず口の端にのぼらせることができたのだった。
「いまのは少し危ない操船だったかもしれない。だが魔獣との遭遇率が高いと察したら適宜速度を変えねばならん。したがっておのずと急発進、急停船が増え、搭乗員に負担をかけることになるが、いたずらに船を操っているのではない。いまの操船は必要な措置である」
求められた謝罪をやんわりと拒み、アドルフは輸送業務の班長として隙のない回答を出した。惨めな言い訳を嫌う彼だが、正論にもとづく弁明はその限りではない。
ところが満点の回答を出したにもかかわらず、事はそう都合よく運ばなかった。アドルフの思惑に反し、想定外の展開は依然、続いてしまうのだった。
「おいおいアドルフよ、そんなんで言い逃れできたつもりか? オレはな、貴様が船から叩き落そうとした証拠をもってんだ。〈立派な体を持て余した木偶の坊〉だの〈船外に落ちて死ねばよかった〉だの、こそこそ文句垂れてたのはお見通しなんだよ」
しゃべれば唾の吐きかかる距離で、ひと言ずつ噛みしめるように反論をしてきたゼーマンだが、発言の揚げ足を取られるとはさすがのアドルフも想像すらしていなかった。なぜなら彼の放った台詞はわずかに洩れた一瞬のつぶやきだったからだ。
それほど小さな声を相手が聞き取れるはずがない。アドルフは当然の疑問に到るが、その答え合わせは飄々と笑うゼーマンが愉しげに教えてくれた。
「貴様は読唇術を知ってるか? オレは軍の幼年学校に入ったとき、特別に割り当てられた班で情報将校から習ったのさ。こんな込み入った場面で使える、便利な特技ってわけよ」
おそらくとっておきの切り札だったのだろう。下品な笑い声をたて、ゼーマンは目尻を下げる。
たいするアドルフは拍子抜けしたように黙ったあと、自分の表情を消した。読唇術。そんなものがありえたのかと、心の底でかなり驚いたのだ。
しかしこのとき彼は、特別な反撃を講じることはなかった。読唇術の使い手と論戦を交わしたことはなかったが、ゼーマンを丸め込む切り返しをあっという間に思いつき、相手の瞳を覗き込みながらかすれた息を発した。
「貴公の指摘はだいたい合っておるが、部分的に不正確だ。我は木偶の坊などと言っておらん。それだけ立派な体をしておるのだから、収容所ではなく、国防軍の最前線で活躍するみちがあったのではないかと思い、僭越だが〈立派な体を持て余した男〉と表現したのだ」
こうした開き直りを不快に感じたのか、反射的に眉根を寄せるゼーマンが吐き捨てるように言った。
「盗人猛々しいなこの野郎。船から突き落とそうとしたことの言い逃れはきかねぇぞ!」
けれどアドルフは彼の瞳だけを見つめながら、さらなる弁明を口にする。
「もうひとつの発言もまったくの誤解である。我は貴公に〈死ね〉と願った覚えなどない。知っておるかもしれんが、ビュクシとトルナバの間には魔獣との遭遇率の高い〈死の森〉があり、この船もいま、ちょうどその空域にむかう場所を航行しておる。先ほど我が言ったのは〈落ちて死ね〉ではなく、死の森に〈落ちたら死ぬ〉というつぶやきだ。あの森は特有の毒素を放っており、落下したら命は危うい。そのことを忘れないため、我はときどき、自分に戒めを発しておるのだ」
最後まで言い終わったアドルフは、相手が亜人の仲間ならしたり顔を浮かべたと思う。だが魔人族という支配人種の鼻持ちならない自尊心を逆撫でして得るものはない。現にゼーマンは不快の度を深めたのか、アドルフの謙虚さを無視し、野太い声を荒げるのだった。
「ようするに貴様は、オレが読唇術を使い損ねたと言いたいのか?」
「普通の会話でも聞き間違いはざらにある。ありがちなミスだ」
「はぁん? 聞き間違いだと?」
おそらくゼーマンとしてはこう思ったのではないか。読唇術を披露して痛いところを突けば、アドルフの焦りを呼び込み、彼を窮地に追いやれると。
しかしアドルフは焦るどころか顔色ひとつ変えず、相手の口撃を簡単にあしらってみせた。
こうなると言い争いを続けても平行線をたどるのは確実。ゼーマンが無能な男でなければ、論戦を捨て、力に訴えかけるのは実に自然な流れだった。
「そんな言い訳が通じると思ったか? こいつでぶっ殺してやってもいいんだぜ!」
わざと脅しつけるように叫んだ彼が手を伸ばしたのは、腰に差したサーベルだった。
収容所の職員には、囚人が反乱したときに備え、彼らを屈服させる権限がある。条件さえ揃っていれば、魔法か剣戟に訴えかけ、相手の殺傷を許すという規則なのだが、普通の囚人ならばこのとき、暴力沙汰になることを恐れ、強気な態度を撤回したに違いない。
だがアドルフは、ゼーマンのくり出した脅しに眉すら動かさず、みずからの喉にいつになく強い力をこめるのだった。
「我を殺せるものならやってみせよ」
「なにぃ?」
「殺してみせよ、と言ったのだ。もっとも貴公はそうしない。そうできない理由があるからだ」
凛然とした声を放った途端、サーベルを抜きかけたゼーマンの動きがとまった。その反応を見てとり、能面のようだったアドルフの頬が少しだけ弛んだ。
指摘したように、収容所職員には、囚人にたいして自分の正しさを押し通す権利がある。だが実際のところ、現場主任でアドルフを屈服させられた者はいない。
なぜなら彼らを監督し、囚人の処遇を最終的に判断するのは所長以下収容所幹部たちだからだ。
現場と揉めたアドルフを彼らは支持し続けてきた。金鉱石の輸送業務という危険だが実入りの大きい奉仕活動を率いらせ、現状維持を重んじるため。
最終的に幹部の信頼が支えなのである。そしてゼーマンが感情に身を任せる筋肉バカでないとわかった以上、上官の意向を無視すると思えない。
したがって彼が抜こうとしたサーベルは、アドルフを動揺させるための脅しに他ならないだろう。その証拠に――
「もう一度言う、殺せるものなら殺してみせよ」
念を押すようにつぶやくと、ゼーマンは肩をすくめ、急に大きなため息を吐くのだった。
「クソッ、茶番はやめだ。ガチで威嚇しても微動だにしねぇとか、マジ意味ねぇ。興ざめだぜ」
緊張感のある駆け引きではあったが、ここが引き際だと悟ったのだろう。抜きかけたサーベルを元に戻し、匙を投げたのは明らかである。
ゼーマンの脱力を受け、アドルフもまた張りつめた心を解いた。読唇術という完全な想定外を食らい、図星を突かれた人間にしては混乱に程遠く、呼吸のひとつも乱していない。
落ち着き払った様子のアドルフは、ふいに班員の姿を探した。直前までゼーマンとのやり取りを危惧していたフリーデは、揉め事を回避したことで安堵を覚えたに違いない。
そんなふうに思って周囲を眺めるのだが、肝心のフリーデは船の舳先という一段高い場所に立って空の彼方を眺めていた。その様子は、アドルフたちの諍いにすっかり興味を失ったというよりも、べつのことに意識を集中した姿に映る。
すぐれた戦闘員は魔獣の接近を感じとり、まだ視界に入らない状態でも、待機状態に入ることがある。今回もそうした動きの一種だろうとアドルフが判じた途端、マストに結ばれた哨戒用のベルが「ガランゴロン」と金属音を奏でた。
それは魔獣の襲撃を告げるべく、見張り役の班員が鳴らした警報に他ならなかった。
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