第一章
奉仕活動1
晩秋のセクリタナには白銀の時間というものがある。
夜明けの乱反射する陽光に目を細め、早朝の冴え渡った空気を胸いっぱい吸い込む頃合いのこと。
――どこで? 決まっておる。大空のうえだ。
空に浮かぶ飛空艇に乗った船乗りだけが、その奇跡のような瞬間をあじわうことができる。
日の出とともに地平線を見下ろす高さ。わずかに湿った雲のうえ。それこそがアドルフたち亜人族に与えられた仕事、労務の現場であった。
命じる側は労務を奉仕活動と呼んでいる。総統時代の彼なら強制労働と呼ぶだろう。どちらにせよはっきりしているのは、アドルフたちは自由を奪われた囚人であることだ。
そんなアドルフに任されているのは操船作業の要である、帆の張り替えだ。その際彼は、シーラという力学魔法を用い、分厚い布に魔法をかけて上下させる。非詠唱なその魔法は、ろくに魔法を扱えない彼が囚人になってから会得した唯一の魔法だ。
とはいえ現在、アドルフは甲板が見渡せる場所に立ち、全体を隈なく見渡している。目つきは少々おぼろで、何も見ていないようでいながら、あらゆるものを見通す独特な目つきだ。
年齢は一七を数えた彼は、辺境の城塞都市ビュクシと金鉱の町トルナバを往復する日々を過ごしている。命の危険と隣合わせで、冒険とかけ離れた心の擦り切れるような毎日を。
それでも先に述べたとおり、アドルフは妙に威厳のある態度をとっている。ひっきりなしに瞳を動かし、男にしてはうざったい長さの黒髪をなびかせ、愛用のマフラーを口許まで引きあげる。
――ふむ、特に問題はないか。
小声でつぶやいたアドルフに囚人特有の鬱屈した無力感はなく、口ひげのあった場所を触るしぐさは貴族的だった。いったいなぜ身分の低い囚人ごときにそういった不遜な真似が許されるのか。ちょうどこのとき、答えを示すのにうってつけの男が甲板を斜めに横切りつつ彼のそばへとむかってきた。
「――こら、アドルフ!」
そのがなり声は怒りを含み、あっという間に駆け足で接近してくる。男の着衣は
「貴様、班長のくせにぼさっとしてんじゃねぇぞ! お前だけじゃねぇ、みんな頑張ってんだ。いつでも機敏に動けるよう身構えとけ、この怠け者野郎!」
眉根を寄せ、不満げに罵声を浴びせてきた男。彼こそはつい先週、人事異動で辺境州東部地区の収容所へと赴任してきた魔人族のゼーマン主任だ。
ゼーマンは、見るからに屈強な男だった。魔人族の特徴である鋭角な二つの短い角をもち、灼けた鉄のような赤毛を後ろに撫でつけ、服の上からでもわかるほど筋肉質な体つき。
本来囚人は、彼のような存在にはひたすらへりくだるしかないのが相場だ。
ところがアドルフは、こうした聞き分けの良い態度をとらないばかりか、黄土色に統一された兵士用軍衣を手で払い、いささか尊大な様子さえ見せながらゼーマンに接するのだった。
「言われるまでもない。貴公らの指導を受け、準備は常にできておる」
そう言ったアドルフは、敬礼などはせず、悠然と微笑んでみせた。囚人でありながら、まるで自分たちが対等の関係であるかのような接し方。そんな真似ができる理由は、おおまかに言ってふたつほどあった。
ひとつめは、この異世界で暮らす住人のうち大多数が用いるゲルト語は敬語表現が乏しいため、上下の違いを言葉で表すことにむいてないことだ。支配人種である魔人族は、これとは逆に豊富な敬語表現をもつセルヴァ語を使うが、収容所でそれを用いる決まりはない。なので発言だけに着目すれば、関係性はあたかも対等に見えるのだ。
しかし問題はふたつめであった。たとえ敬語を用いる必要がないとはいえ、アドルフの様子は他の囚人とも明確に異なっていた。その理由は彼に与えられた肩書きにある。同僚たちを統率する班長という職責にくわえ、アドルフはもうひとつ別の肩書きをもっていた。それがいったい何であるかは、彼を見下ろすゼーマンが苦りきった声で口にした。
「クソッ、生意気なツラしやがって。貴様が将校でなけりゃ、ぶん殴ってガス室送りにするところだぜ」
その台詞は半分脅し、半分は本気だったが、着目すべき点はそこではなく、ゼーマンがアドルフのことを〈将校〉と呼んだことだ。
そう、アドルフは囚人でありながら、普通は分不相応な将校の地位を与えられ、なおかつその階級はゼーマンと同じく〈少尉〉だったのだ。
ちなみにゼーマンの階級に関しては、アドルフはその情報を宿舎で隣り合う班の囚人から入手した。
奇しくも同じ階級をもつ囚人を魔人族はどう扱うのか。唐突に怒鳴り散らしたゼーマンではあったが、ひとしきり文句を言ってすっきりしたのか、水平にあげた手を馴れ馴れしくアドルフの肩に置いた。
「まぁ、くれぐれも妙な真似だけはするなよ。こっちは貴様らを監視するのが仕事なんだから、勤勉かつ実直に働き、オレたちに楽をさせろ、なっ?」
拳にして握れば、薄い部屋の壁など簡単にぶち破ってしまうような、大きくて分厚い手。そんな手に肩を揺すられながら、アドルフは心のなかでゼーマンにたいする評価をつぶやく。
――なるほど。屈強といえば聞こえは良いが、こわもての陽気な筋肉バカという噂は、案外本当なのかもしれんな。
そう、実のところ、この現場主任がビュクシの収容所に着任してからまだ一週間すら経っておらず、アドルフ班の監視に就いたのも今朝が初めてだった。けれどこのわずかな期間に、新任職員であるゼーマンの評判は口の軽い囚人たちのあいだに広まっていた。
こわもての陽気な筋肉バカ。それがゼーマンについた囚人たちの悪評である。
とはいえアドルフはその真偽をまだ見きわめていない。したがって彼は曖昧なレッテルで満足することなく、情報の精度を上げるため細かい配慮をきかしていた。新任のゼーマンを値踏みするための撒き餌。彼が裏で餌を撒いておいたのは収容所を司るカフカ所長だ。
カフカは収容所のトップでありながら、アドルフがもっとも親しく付き合う魔人族だ。つまりこの瞬間、肩に手を置いたゼーマンが唐突にカフカの名前を出しても、アドルフに不自然なことは何ひとつなかったのである。
「ところでアドルフ。ここのカフカ所長から興味深い話を聞いたんだが、貴様は絵がべらぼうに上手いんだってな。絶賛だったぜ、普通に頼んだら一〇ギルダは下らない肖像画をタダで描く絵描きが囚人にいるってよ」
そのひと言は、あきれるばかりに期待どおりの発言だったので、アドルフは思わずほくそ笑んでしまう。確かに上等な肖像画は、写真のないこの世界では大きな価値をもつ。おそらくゼーマンは、幹部職員たちからアドルフについて聞き取りをおこなったのだろう。そこでは彼の狙いどおり、肖像画に関することが話題の中心にのぼったと思われる。
「貴公の依頼とあれば、いつでも引き受ける。何なら明日の奉仕活動は休みだ。遠慮なく言ってほしい」
必死に笑みを押し殺しつつ、わずかに謙虚な姿勢を見せ、アドルフは相手を気持ちよくさせるひと言を添えた。
「フン、特別扱いされた野郎がどんなやつかと思えば、素直なところもあるじゃねぇか。せっかくだし、貴様の言うとおり明日にも頼むわ。とびきり男前なやつを頼むぜ」
にやりと笑ったゼーマンだが、うざい絡みはここまでだった。
満足げにきびすを返した彼は、元々座っていた船首にある椅子へと歩き出す。その広い背中を見送りながら、アドルフは心のなかで思った。
――こいつはこいつで我のことを気にかけておったわけだ。当然だが、注意が必要だな。陽気な筋肉バカという評判も、鵜呑みにはできん。自分の目で確かめるまでは。
あからさまな疑念をつぶやき、口ひげのあった部分にかるく触れ、アドルフは考える。ここはひとつ、罠にかけてみてはどうだろうかと。
一気に思考を進め、アドルフは小声でひっそりとつぶやく。
――思いきってゼーマンの心を暴いてやろう。やつの見えない一面を示唆する、隠された心を。
そうと決まれば、彼の行動は早かった。
何を思ったかアドルフは、風圧に変化があったわけでもないのに、突然不必要な帆を張り、飛空艇の速度を徐々に上げた。
慌てず、焦らず、ゆっくりと。イメージするのは、異世界に棲む狡猾なヒタキツネを捕らえるべく、仕掛けた罠を息をひそめながら見守るときの心境。ゼーマンに気づかれてはならない。全ては水面下で、秘密裏におこなわねばならない。
そして数を増した帆が風を受け、飛空艇の速度が上がっていった瞬間を見計らい、今度はそれらの帆を畳み、急激に速度を落とす策に出た。
結果として、何が起こるだろうか。アドルフをはじめ、飛空艇で働き慣れた者たちはその程度の急減速に動じることはない。対戦する魔獣によっては、もっと激しい操船で敵の意表をつくときもまれではないからだ。
しかしゼーマンは違う。彼は今日の監視が輸送業務に携わる例外的な機会だったはずだ。交通手段としての飛空艇と違い、労務の操船はかなり荒っぽい。事実、アドルフがいくつかの帆を外し、急停止をかけたことで、小さなクジラほどの船体は前につんのめり、右舷の方向へと大きく傾いだ。
アドルフは反射的に姿勢をかがめ、船の揺れに対処した。他の班員たちも、おのおの最善の措置をとったことだろう。不意討ちを食らって慌てふためいたゼーマン以外は。
はたせるかな、反動で船が左に揺れたとき、一〇メーテル近く離れた場所から絶叫が聞こえた。
「あぶねぇだろうがクソ畜生! おい貴様ッ、アドルフ!! 船を元に戻しやがれ!!」
その声に合わせ、船はもう一度揺れる。見ればゼーマンは、帆を張るマストにしがみつくのがやっとで、完全に泡を食っていた。
彼の動きを冷静に目で追っていたアドルフは、たった数秒にも満たない時間で目当ての情報を強引に掘り起こし、手中に収めていた。ゼーマンの人間性に錨を下ろす特性、人間としての弱さを。
――情報がなければ戦えん。逆にいえば、情報さえあれば戦いを挑める。
そう、アドルフはこの鉄則ともいえる言葉を厳密に用いて、最後の数年間を除けば、一度目の人生を勝利につぐ勝利で飾ることができた。
政敵はたくさんいた。ナチス党の反乱分子たち、コントロールの利かない突撃隊、そしてボルシェビズムを撒き散らす共産党。自分の言うことを聞かない連中をぐうの音が出ないまでにねじ伏せるには、武力よりも情報、とりわけその精度が重要であった。
アドルフが政敵を一掃する際、裏で支えていたのが親衛隊の情報部だった。
責任者はラインハルト・ハイドリヒ。彼と彼の部下たちがもたらすピンポイントで正確な敵情報がなければ、粛清も暗殺もできなかったはずだ。
情報さえあれば戦いを挑める。その鉄則を、たったいまアドルフはゼーマンに適用した。その結果ゼーマンは、アドルフの評点をかなり下げた。
もしも帆の張り替えが魔獣との接近戦を避けるための回避行動であった場合、ゼーマンの喚き散らした「船を元に戻せ」という指示は的外れとなる。
このとき、満点の解答があるとしたら、それは「魔獣が見えたのか?」とアドルフにたいし確認をとることだった。
――フン。やつの本性がわかっただけでも収穫はあったな。所詮、立派な体を持て余した木偶の坊か。
そう、囚人のあいだに流れたゼーマンの悪評、すなわち陽気な筋肉バカという見立ては結局、正解だったのだろう。
ひとを試すという腹黒い行為を苦もなくやってのけたあと、満足げに笑った口許を隠しつつアドルフは小さく息を吐いた。動機がバレたらガス室送りになる真似までしておきながら大した度胸だが、言うまでもないがわざとやった証拠はどこにもない。「遠くの空域に敵影が見えたので、回避行動をとった」と言い訳すれば、反論はできまい。
――この世は想定内が九割。想定外は一割。
たった一〇分にも満たない攻防をくぐり抜け、彼はおよそ九割の確率でゼーマンの行動範囲を予測できるようになった。問題解決能力の向上は圧倒的である。
――それにしても今朝は寒いな。早く労務に一区切りつけ、温かい食事が摂りたい。
艇身を揺らした動きを事後的にフォローするかのごとく、アドルフは双眼鏡に眼をつけ、どこでもない場所を冷めきった気持ちで眺めた。
だがこのとき、恐ろしく心配性な人物がいて、一連の行動に注意をむけていたら、彼のふるまいをどう捉えただろうか。以前から似たような場面を目にしていたとすれば、なおさらそこに故意を読みとろうとしたに違いない。したがって本来、対魔獣戦闘要員として定位置にいるべき班員がアドルフのそばに歩み寄ってきたとしても、それはまったく場違いなことではなかったのだ。
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