壱 密航者(二)

 同刻、同建物の受付にて。

 モニターの前にだらしなく座る守衛の男は、くわりと大きな欠伸をした。彼の胸元には「滋田」と彫られた名札がついている。

「あーぁ、外はあんなに春らしい天気なのに、こんな建物の中で警備とは。勿体無え」

 つっても、非番でも外に出て日の光になんぞ当たらねぇけどな。心の中で付け加えると、滋田は机の下で操作するスマートフォンに再び目をやる。その机の上にはパンの空袋が転がっている。

 ――大体、こんな真っ昼間に誰がこんなとこ襲おうってんだ。ましてや来客なんぞあるわけが無ぇ。「警備してると見せることが重要なんです」じゃねぇだろ。

 入局時の上司の言葉を思い出し、心の中で突っ込みを入れながら、その間もスマートフォンの操作をひたすらに続ける。

 操作する指の動きに伴い、青色の石が嵌った指輪が滋田の左薬指できらきらと光る。

「あー、また駄目だった!」

 ガシガシと頭を掻きながら、ポケットから財布を取り出そうと手にしていたスマートフォンを机上に置く。それまでスマートフォンを注視していた目が初めて逸れたそのとき、滋田の視界の隅にちらと蘇芳色がよぎった。

 慌てて受付の方を振り返ると、そこには人影があった。

 彼は反射的にスマートフォンと財布を机の上に投げ出すと、急いで受付から顔を出した。

「すみませ…」

「申し訳ありませんが、急ぎのためすぐに通して頂けませんか」

 滋田の謝罪の言葉が言い終わる前に、受付に立っていた男が口を開く。決して声を張り上げている訳でもないのに、そのきっぱりとした言い方と威圧感に滋田はたじろいだ。

「ど、どなたかと約束を…?」

「黙って今すぐここを通さないとあなたが昨晩からほぼ徹夜でゲーム三昧であり、あろうことか任務中にも続けていたことが実名であらゆるところに流れますよ。人の命がかかっているんです。すぐに通して下さい。それとお節介ですが、ゲームに重課金するのもほどほどに。辞めればきっとあなたに幸運が訪れるでしょう。そんなあなたの今日のラッキーカラーは青色です。9月生まれに似合う、秋晴れを思わせる素敵な品を身に着けてね」

「なっ……」

 図星のためか、脅されたためか、真顔で茶化されてためか。驚きのあまり声の出せない滋田に向かって男は更に続ける。

「目が充血していて欠伸をしている。受付に立つ人にすぐに気付けない反応の悪さ。明らかに睡眠不足です。机の上に投げ出されたスマートフォンに映ったゲーム画面と財布。成人男性がたったパン1つだけの食事。たかだかゲームのために食事を減らすのはどうかと。財布の残金を確かめようとしたのでしょうが、これ以上お金は使わない方が良いでしょう。結婚指輪に嵌められた石で誕生月は簡単に判断出来ますよ」

 右手で襟章を、左手で腰元の刀をコツコツと鳴らしながら、男は一語一語区切る様に再度繰り返した。

「さあ、今すぐ、ここを、通して下さい」



 飾り紐の男は少年に向け、単刀直入に切り出した。

「私の名は佐尾さお。入国管理局第八支部の主任だ。お前達密航者の取り締まりを生業としている」

 少年は何も反応しない。佐尾と名乗った男は構わず続ける。

「早速だが本題だ。お前が何者で、どこから来たのか、そして何しに来たのか、今一度問おうか」

 左手人差し指に嵌めた指輪を無意識にくるくると弄びながら、佐尾は改めて少年を眺める。

 15、6歳程であろうか。その年齢にしては落ち着いた空気を身に纏っているが、身体つき、表情共にまだ幼さが垣間見える。

 灰色がかった緑の小袖に濃紺の袴、草履といった出で立ちであり、全体として小綺麗な印象だった。

 しかし髪には整えた形跡が無いどころか、向かって右側――少年からしたら左――は耳に髪がかかるほどの長さがあるのに対し、反対側はやや短い。

 そうやって佐尾にめつけられるように見られているのにも関わらず、少年は相変わらずむっつりとした表情を崩さない。

 そんな様子に苛立ったのか、佐尾は身を乗り出す様に少年に顔を近付け、低く落とした声を発する。

「なぁ、お前立場分かってるのか?あぁ? 国境を越えただけで罪を問われるってのに、お前は刀なんぞを持ち込んだ。最早ランクAの重罪人に入ってんだよ」

 しかし少年は何も応えない。彼と佐尾の間に険悪な雰囲気が漂う。

「しゅにーん。自分だけジャケットをゲロで汚された恨みでイライラしてるからって、そんなおっかない顔で詰められたら、その子も話せるものが話せないですってぇ」

「な、お、俺はそんな私怨で動いている訳じゃないぞ、矢間部やまべ! こいつが征異せいい派や統国とうごく派の手先だという可能性を疑ってだなぁ!」

 緊迫した空気をぶち壊す緩い声が2人の間に挟まれた。声の主である年若い部下の方に顔を向けると、佐尾は慌てて否定した。

 顔が少し赤らんでいることから、どうやら部下――矢間部の発言は図星であるらしい。

「でもしゅにーん、その子全然抵抗しないどころか、あなたが刀に触れても身構えるどころか嫌な顔ひとつしなかったんですよ?このアウェイな雰囲気の中なのに?こちらに危害を加えようとする者にしちゃあ、あまりに無抵抗すぎやしませんか」

「確かにそれは一理あるが…」

「きっと何かの間違いで船に入っちまっただけの子でしょう。そんなピリピリせんでもー。あと臭いです」

「替えのジャケットがもう無かったんだよ!必死に水洗いしてドライヤーしてファブるまでが精一杯だったんだ!近々クリーニングに出す!」

 顔の赤みを一層濃くしながら一気に捲し立てると、佐尾は肩で息をする。その肩には件のジャケットが乗っている。よく見ると、袖口などところどころの色が他の部分よりやや濃い。皺が目立つシャツ姿になることを気にしている様だが、まだ湿気ているジャケットに袖を通すのも嫌なのだろう。

 部下に吠えたその勢いのまま、佐尾は少年に向き直り、彼の胸倉を掴む。その相貌は怒りと恥じらいで燃えていた。

 胸元を掴まれて流石に息苦しかったのか、ここにきて初めて、少年の顔が歪んだ。

「おい、手前ぇ人様の土地に入り込んで刀なんぞ持ち込み(挙げ句俺の制服をゲロまみれにして)、だんまりで赦されると思うなよ。そっちがその気ならこっちも……」

 言いながら、佐尾は右手を脇に差している刀にまで伸ばす。

 その刹那のことだった。

 それまでぴくりとも動かなかった少年の右腕が素早く跳ね上がり、彼の胸元から佐尾の左手が弾き飛ばされた。

 一瞬の出来事に対処し切れずにいる佐尾を尻目に、少年はその勢いのまま部屋の隅にまで飛びすさると、腰を低くした臨戦態勢をとる。

 いつの間にか、その左手には彼の刀が握られており、右手はいつでも抜刀出来る様に柄に添えられている。

 短く荒い呼吸を繰り返しながら、見開かれた眼はしかし佐尾ではなく、出入り口を凝視し続ける。

「なんだ――」

 その視線を追う様に佐尾が振り返ったと同時に、扉が開かれた。

「おや、反応したのは少年ひとりだけですか。――やぁやぁ皆さん、本日はお日柄も良く」

 明るい声と共に部屋に入ってきたのは、真っ黒な詰襟に桜紋の入った蘇芳の羽織を組み合わせた男だった。見た目の歳は佐尾と同じくらいか。しかし彼の纏う独特の雰囲気からか、怖いもの知らずの20代、泰然自若とした40代、どちらでも通用しそうな風体である。

 緩くひとつに結ったやや長い髪を揺らめかせながら部屋の中まで歩を進めると、男は部屋に居た3人をやや吊り上がった目で見渡し、続ける。

「こーんな天気の良い日に、こーんな狭くて暗い部屋に男3人が集まってるなんて――」

 微笑んだ男の口元から八重歯が覗き、

「まるで何か悪いことでもしてるみたいじゃあないですか」

 窓から差し込む僅かな明かりの中、それは獲物を前にした獣の牙の如く、鈍く光った。

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