母親

 レリス=コーネリア。


 その名前には聞き覚えがある。アイーダさんの言っていた、かつてクレアさんとともにドワーフの里へと訪れた魔女。


「この魂が……僕の、母親?」


 上手く感情をコントロールできない。今まで僕の生きていた世界には母親という存在はなくて、家族は父親だけだった。だからだろうか。こうしていざ対面しても、イマイチ実感がわかなかった。


 触ってみても、いいのだろうか。


 僕が恐る恐る手を伸ばすと、その魂は大きく揺らめいた。


「うん。きっと、君に会えて喜んでるよ」


「それは……」


 伸ばしかけた手を、僕は止めた。


 わからない。母の魂は、僕の姿を見て喜んでいるのだろうか。そもそも、死者の魂に感情があるのか。


 死者の気持ちは、死者にしかわからない。僕には母の気持ちを知るよしがないのだ。


 でも、きっとクレアさんもそんなことは百も承知で。それでも、母の気持ちを代弁するように語る。


「レリスは、その身に命を……ユアン君を宿した時、すごく喜んでたから。成長した君の姿を見て、嬉しいはずだよ」


「……僕も母に会えて嬉しいです」



 クレアさんには聞きたいことが山ほどある。


 でも、今だけは。


 たとえ魂だけだとしても、母に出会えた喜びをかみしめるべきだろう。


 僕は再び魂へと手を伸ばした。今度はこの手で、ちゃんと触れる。ほんのりとした温かみ。実態のない翡翠色の霊魂が、僕の手を優しく包み込んだ。ずっとこのまま離したくない。そう思えるほどに安心する。


 この感覚は……そうだ。あの日、アイーダさんの家族と一緒に食卓を囲んだ時と似ている。家族の温かみ。


「……母さん」


 ポツリと、僕は呟いた。今まで1度も呼んだことのない、家族へ向けた言葉。


 そんな僕の声に答えるように魂が揺れ動いた。クレアさんの言う通り、喜んでくれているのだろうか。ただ、言葉が続かない。言いたいことは沢山あった。伝えたいことがどんどんと込み上げてきて、喉につっかえて声にならない。


 だから。


「僕を産んでくれて、ありがとう」


 だから、僕は感謝の言葉を選んだ。

 貴方が僕を産んでくれたから今の僕がある。クレアさんと出会って、旅の中で仲間もできた。心奪われる景色に出会えた。


 全ては、母さんが僕を産んでくれたからなんだ。


「僕は大丈夫だから……安心して眠ってね、母さん」


 瞬間、母の魂が黄金の杯から溢れんばかりに膨張し、やがて一筋の光となって天へと昇っていった。その色は先程までの翡翠色ではなく、透き通るような空色の光。


 まるで、僕の言葉を聞いて安心しているようだった。


 しばらく余韻に浸るように、僕は光を見つめていた。時間にしてはほんの一瞬ではあったものの、初めて母と触れ合えたことが嬉しかったのだ。


「……さようなら、レリス。ユアン君のことは、私に任せてね」


 冥界へと昇っていった母の魂に向けて、クレアさんは強く決心したように瞳を向けた。


 黒き空を彷徨う魂の中に、もう母の姿はないだろう。


 母は安心して眠ってくれるかな。



「……」


「……」


 その後、空になった黄金の杯を前に沈黙が続く。


 今の出来事は絶対に忘れないよう、僕はリュックから紙を取りだし、瞳を閉じて強く念じた。黄金の杯に舞い降りた母の魂に触れたあの瞬間を。体から腕へ、そして紙へと魔力が流れていく感覚。その後、完成した写し絵をリュックにしまった僕は、横目でクレアさんを見た。


 クレアさんは、静かに空を見上げたままだった。その紅き双眸から涙が零れたのは、見間違いなんかではないだろう。


「クレアさん……」


 沈黙を打ち破るように、僕は名前を呼んだ。


 だが、言葉が繋がらない。僕自身も、心の中で幾つもの感情が複雑に絡まって、気持ちを整理出来ていなかったから。

 それは、クレアさんも同じだろう。いつもあんなにも明るく、周りを元気づけるほどに眩しい存在であったクレアさんが、弱々しく感じられる。


「……ユアン君。ごめんね、ここに来ようと決めたのは私なのに、心の準備ができてなかったみたい」



 その声は震えていた。込み上げてくる感情を無理やり押し込んでいるようで、聞いている僕も辛くなる。だから、せめて少しでも気持ちを楽にしてもらいたくて、僕はクレアさんの手を取った。白くて、少しひんやりとした両手を包み込むように。




「弱気なクレアさんを見られるなんて、貴重な経験ですね」


「もう……からかわないでよ。私だって、泣く時は泣くんだよ」


「知ってますよ。ですから、今は心の底から泣いてください」


「……ずるいなぁ。本当は、私が君を励ますつもりだった、のに……」


 ぽたぽたと、紅き瞳から零れ落ちる涙が、僕の手の上で小さく弾けた。

 肩を震わせ、嗚咽を漏らす彼女の手を、僕はギュッとより強く握りしめる。


 僕はいつもクレアさんに助けてもらっていたから。今度は僕が恩返しをする番だろう。





 旅は、出会いと別れの繰り返し。

 いつかクレアさんがそう言っていたように、僕の初めての母親との出会いは、あっという間に終わってしまった。







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