第3話
どのくらい言葉のないやりとりが続いたでしょうか。相当の時間が経ったような気もしますが、2人の時間だけがまるで切り取られたかのように止まっておりましたので一瞬で過ぎ去ったものと何ら変わりはありません。
「それではお話をお聞かせ願いますか。あなたの夢の話を」
早田は今住職のもとを訪れた本当の目的を思い出してその場に正座をし、覚えている限りありのままのことを話しました。極楽の修行僧は全て阿弥陀如来の弟子となって悟りを開くその日まで新たに増える修行僧と肩身の狭い思いをしていることを。
住職は黙って聞いておりましたが、早田が話し終わる頃には目を固く結んでじっとしていました。
「阿弥陀様がなんの目的もなしに夢の中へ姿を現すはずはありません。きっと何か伝えたいことがあったのでしょう」
そう言わましても、と早田は考えこみ
「やはり私には思いあたりがございません。夢のお告げというものはそのように曖昧なものなのですか」
「わかりません。ですがそのように考えるべきなのが我々ですから」
その通りだと早田は思いました。それならば早田も阿弥陀如来の意思を慮らねばなりません。
「失礼ですがなにか悩みはおありですか」
「悩み、ですか」
「ええ。阿弥陀如来は苦しみから私たちを解放してくれるのです。あなたの苦しみが阿弥陀様に届いたからこその夢でしょうから」
そのとき一陣の風が吹き荒れました。もう冬も近いと住職は少しだけ空いていた障子をパタンと全て閉じきりました。
早田は自分の悩みを告白すべきかどうか迷いました。住職に言われる前から1つの悩みが早田の頭をかけめぐっていました。しかしあまりにも俗物な、そして過去に囚われた苦しみは一笑にふされて恥ずかしい思いをするだけかもしれないと思うとなかなか言葉にすることが出来ませんでした。
これこそが本物の苦しみなのかしらと考えていると一瞬、わずかに触れるまつげとまつげの間から見ていると住職が本物の阿弥陀様に見えました。ああ。この方に嘘も偽りも許されない。全てを告白することが唯一の道なのでした。
「お師匠様! どうか私を笑わずにお聞きください。私はお師匠様を父として尊敬申し上げておりました。しかし私の心に常に心残りでしたのは私を捨てた母なのでございます。生き別れの、そしてどうしようもない理由があってのことでしたら私もあきらめがつきましょう。けれども母は自分の意思で、ほとんどなんの理由もなく私を捨てたのです」
「復讐か」
「いえそんな大層なこと考えてはございません。ただ私は母の顔を一目見たいだけなのです。この人が私の母だと認めたならば私にはなんの心残りも未練もなく仏道に入ることができるのです」
住職は何も言いませんでした。しんと張りつめた空気が早田の心をヒヤリと触り、息がつまる部屋の中で2人は何を言うこともなくしばらく黙っておりましたが
「それが望みですか」
住職の声に早田は確かに如来を感じました。雄大で荘厳な、それでいて貧民の心にもよりそう慈母のような優しさに満ちあふれた声は人間には到底真似できない、畏怖されるべきものでした。
「はい」
早田はそれ以上何も言えませんでした。軽い頭痛がしました。
すると住職は聞きなれた声に戻って
「わかりました。それならば存分に探しに行くといいでしょう」
とおっしゃいました。先ほどのあれは見間違いかなにかだったのだろうかと早田が思案していると
「きっと阿弥陀様はこうおっしゃりたいのでしょう。極楽には数えきれないほどの修行者がいます。これからもどんどん増えていくでしょう。たかが街ひとつ分の人に恐れおののくようでは如来どころか菩薩にもなれやしません、と」
早田はなるほどと相づちをうって
「それならば様々な人間と交流を深めるのも修行ということですか」
「察しが良くて本当に優れていることで」
「いえお師匠様にはかないませぬ」
早田は深々と頭を垂れて住職の部屋をあとにしました。そしてその足でそのまま街の方へと山をかけ下りるのでした。
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