第2話
早田は住職の話を黙って聞いておりましたが、どうにも釈然としないところがあると見えて
「もとより誠心こめて修行するつもりです。お師匠様をはじめ多くの方にお世話になりました恩を返さねばなりませんから。
しかしそれはそれとして私の本当の母親と姉はどんな人だったのでしょうか」
と聞くと住職は10数年前のことだからと前置きした上で
「とにかくあなたと血のつながっているとは思えない顔立ちでした。母にしろ姉にしろ正直に申しますとあなたより醜い。あなたの肌から白百合を見るとすれば、あの方々は枯れかけのひまわりでした」
葉がカサカサと音をたてました。早田はまだ何か言いたげでしたが、これ以上迷惑をかけるにはと考えて4分の1ほど残された食器を手に取って
「おや、なにか具合でも悪いのですか」
「なに、心配はいらないよ。少し思い沈むことがあってね。ああ、そうそう。この余りはただ捨てるのではなくて本堂の裏側にこぼしておきなさい。ネズミが食べてくれるでしょう」
「お体だけはお大事になさってください」
早田はそれだけいうと几帳面にふすまを閉めて外に出ました。心に黒い霧がやんわりと立ちこめているのを不快に感じながらも、白いかゆをびちゃびちゃこぼすのを見ていると自然と心が落ち着くような気もしました。
早田には本当の母の思い出がほとんどありませんでした。5歳まで一緒にいたのですから普通は覚えているものですが──その理由についておいおい話すこともあるでしょう──早田の1番古い記憶をどれだけたどっていても源流には住職のほほ笑みがあるだけなのでした。
けれども早田は何となく気づいておりました。自分には償わなければならない罪があってそのために捨てられたのだと。親の期待、家族のルールに従うことなく過ごしていたために一緒に暮らす資格を失ったのだと。早田はそのことを受け入れるために大層の時間をかけました。阿弥陀如来を頭の中で浮かべながら「願わくば私の罪を消し、その上でまた母の子となって生まれたいのです。どうか修行の場を私にください」と必死に祈ること10年。ようやく早田は寺の外に出ることを許されたのです。
早田は寺を出るべきか出ないべきか判断がつきませんでしたので、勝手ながらこの寺においてもらいながら街を見たいと申し出ました。住職としてもそれが早田にとって1番賢明なことだろうということで二つ返事で許可を出してくれたのです。
「街というのはとにかくたくさんの人がいます。出会おうと思えば毎日新しい人に会うこともあるのです。ですからその全員を私と思って接しなさい。あなたの真心はきっと人の心を揺り動かすはずですから」
住職は早田のことを信じておりました。世間に潜む邪智はきっと早田に食らいつく。それでも早田はその聖なる身と心でもって悪を退治し、聖なるものをよびよせるだろうと。
「はい、では言ってまいります。毎日戻るつもりではありますが、めし3日経って帰らなければ私は死んだものだとして扱ってください」
「縁起の悪い」
「はは、ではいって参ります」
その日から時間を決めて早田は山を降りて街に入りました。最初の日はとにかく賑やかな世界に面食らって逃げ回るように寺へ戻ってきたのでした。
「おや随分と早いご帰宅だこと」
お師匠様にそう皮肉を言われるだろうと山を駆け上がりながら早田は考えていましたが、住職は何も言わずに飯を作って待っていました。
「きっとそろそろ帰るだろうと思って早めに作っておきましたよ」
早田の行動は全てお見通しでした。肩を落として席につく早田に僧侶が近づいて口々に
「街というのは怖いところですから無理もありません」
「まただんだん慣れていけばよいのです」
「誰しも初めから上手くいくとは限りませんから」
と慰めていくのでした。早田はその親切心がより自分を辱めるような気持ちがして初めてかゆを残しました。別にかゆばかりを食べるわけではありませんが、早田は特に早田寺のかゆが好きでよく住職に無理を言って作ってもらうほどでしたから、あぁこれが住職が言っていた思い沈むということかと考えるとやはりこの食べ残しをネズミかアリに食わせたくなって本堂の裏からこぼして捨てました。
早田は寺を出るのが怖くなって2、3日はろくに飯も食わず眠ることなくただ本尊の阿弥陀如来像の前でじっと座っておりました。如来の荘厳な微笑を見ていると心の奥底まで見透かされているようで、なにかとりとめもない考えごとをする時には座ることも多くありましたがそれにしてもあまりの熱心さに
「早田様はもう世俗を捨てられてしまったのではないか」
と僧侶の中で噂になるほどでした。
苦しみに苦しみぬきそれでも如来にすがった早田にさすがの阿弥陀様も感心なさったのでしょう、疲れ果てて眠った早田の夢に、現れて死後の世界を見せてくれました。そこには何千とも何万とも数えられない大勢の人々がそれぞれ座って修行に励んでいました。その圧巻の光景と気味の悪さだけがぱっと飛び起きた早田の記憶に切れ切れとなって刻み込まれたのでした。
早田は夢に如来が現れたその喜びをどうしても伝えたくなってすぐに住職のもとにとびこみました。
「失礼します。夢に現れた阿弥陀如来についてお話をしたく参りました」
「本当か。まあよい入りなさい。きっと阿弥陀仏もお前のあまりの苦心に心を痛めなさって情けをかけてくれたのでしょう。ここに座ってお話なさい」
はいといって障子を空けた早田を見て住職はギョッとしたのでした。早田の顔はますます冴えてようやく昇り始めた朝日に照らされて薄い金色に輝いているように見えたのです。あのあどけない少年の顔はすっかりと消えて目はキリリと光り、口はグッと結ばれて軽く上がった口角はまるで本堂に飾ってある仏像そのものでした。あぁ本当に阿弥陀様はこの寺にやってきて下さった。そうしてこのお方に何かをさずけて下さった。住職はこぼれる涙を手でぬぐうように手の甲を軽くほおに当てました。
「本当に阿弥陀仏におあいになったのですね」
「ええ」
早田の心からは1つの迷いも消えていました。
「お師匠様」
「いえ、私はもうお師匠様と呼ばれる資格はありません。それは過去の遺物の呼び名です。あなたはたった今私を超えて立派にはばたきました。こんなに嬉しいことはありません。今日まで真心込めて育ててきて本当によかった.....」
今度は本当に涙がこぼれていて、住職は止めることなくただ俯いて畳の上に灰色のしみをいくつも作るのでした。
「頭を上げてください。私はあなたの子供です。あなたは私の父なのです。一生をかけてでも、お師匠様の背中を追いかけることが私にとって何よりの幸福なのです」
そう話しこんでいるうちにますます太陽が昇ってきて金色の光が白く変わっていきました。早田の目からも自然と涙があふれてきて師匠と弟子、その境界がぼんやりとにじんでまどろんでいくのでした。
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