ふまれた

大箸銀葉

第1話

 今となってはもう昔の話。早田という男は近所でも評判の色男で街を歩けば騒ぎもの、噂では歌舞伎の家のどこかから養子になるよう言われたとかいうことでございました。女は早田を見るとほかの男と結婚したがらないと父親達のため息が社会にゆったりと広がりつつも、あの顔なら仕方あるまいとのんきに構えていたそんな時代の小さなお話でございます。


 その早田という男はいつのまにやらふらっと街に現れて、また知らないうちにぱっと消えてしまう。母を探しているといいながらもこんな美しい息子を産み落とすほどのつややかな女がこの街にいるとも思えません。頭の隅ではみんなわかっておりましたことですけれど、早田のあまりの悲壮な顔持ちに同情するしかなかったのです。


 しかしある日を境に早田はぱったりいなくなりました。結局街の人々には早田の母が見つかったのか見つからなかったのかわかりません。妖艶な男は狐か妖怪の類いだったとまことしやかにささやかれたのでした。


 早田の出生は誰も知りません。5歳のころに街から少し離れた山の奥にひっそりと続いている早田寺にあずけられたのでした。尾張の時代から浄土真宗の流れを汲んでいた早田寺はかなり自由な戒律でしたので、早田は髪を丸めることもなく精進料理ばかりを食すのでもなく、ただ住職が「この子には自由に成長させなさい」と言う通りに育てられたのでした。それというのも早田が初めて寺を訪れたとき、住職はあどけない体に張っている皮膚のあまりの美しさから玉のような女の子がやってきたと勘違いからあまりに厳しくするのも可哀想だという父性からきたものでした。結局男だと判明しましたが、男だからといってあえて教育方針を変える必要もあるまいと早田は坊さんに守られる形で世間から離れてますます美貌に磨きがかかるのでした。


「失礼します。また話を聞きに参りました」


早田は住職が夕食を食べ終わる時間になると決まって訪ねていくのでした。


「もう話すことはないよ」


「どんな些細なものでも構わないのです。それに人は川であると教えてくださったのはお師匠様ではございませんか」


「私が今日どんな話をしたか覚えている限りで話してみなさい」


住職がそう優しくほほ笑みかけると、早田は胸をはり住職の目をまっすぐに見つめて昼に聞いた話を繰り返すのでした。


「人は1人で生きることはできません。人は川なのです。源流があり、水の流れがあって初めて私たちは生きることができるのです。私たちは裾野を広げて未来の子供たちにたくすのです。それがやがて私たちの幸せへと繋がるのです」


「よろしい。よく覚えておられる。それでは私があなたの源流を話さないのは仏に無礼を働くのも同じこと。知っている限り、といってもほとんどはもう知っておられることでしょうが少なくともあなたが満足するまでは全てを話すことにしましょう」


住職は思い出すように幾度か目をしばたかせると上を見上げてぼうっと記憶をたどりました。そうして出てきたそのとき、早田が初めて寺にきた日の様子をぽつぽつと語り始めたのです。


「その日は雨でした。朝からしとしと小雨が降り続いておりまして、これからもっと降るだろうかそれとも雨雲はこのまま東の方へ流れていくのだろうかと思案しておりましたところ不意に甲高い「ごめんください」と声が聞こえたのです。


 私は例のごとく「はいはい今参ります」と駆けていくとそこには女2人に囲まれて小さな子供が1人挟まっておられました。見たところ母親が1人、その子供である姉弟のようでしたのではてまだ若い親子がどのような悩みを持ってきたのだろうと考えていると母親が突然「この子を預かってほしい。そして一生この寺に閉じこめておいてほしい」と言ったのです。


 急のことですから私もひどくうろたえてしまって「この子というのは姉弟のことでしょうか」と聞くと姉の方がひどく機嫌を損ねてしまって「はァ!? そんなわけないじゃない。こいつだけよ」と怒鳴られましたよ。そろそろ成人かとも思われるほどの年齢でしたでしょうから、最近の淑女は随分と下品な言葉を使うようになったのだなぁとしみじみ思う時間もありませんからとりあえず話だけでも聞こうと上へ上げたのです。


 お茶をお出ししてそろそろ要件を聞こうかと思うばかりになると日もだんだん暮れ出して、烏がしきりにないておりました。

「それでどのような理由からまた寺に預けられるのでしょうか」

「家庭内のことに口出ししないでもらえる? ただの坊さんのくせに」

「はははは手厳しいことです。なるほどあなた方はそれでいいかもしれないが、寺としてはちゃんと聞いておきたいのです。この子の教育方針にも関わりますし。何より寺に子供を預けるなどというのは今になってみるとけっこう珍しく.....」

「もう説教はたくさん! それと教育方針なんてなんでも構わないわ。だって今日限り親子の縁が切れるんだから」

私は仕事上こういう考えを持っている人とは何人も付き合って参りました。ですからこのような事態になったとき、まず冷静に、相手の心の波に自分の心の凪が侵されないように注意するべきなのです。

「分かりました。それではこの子は寺に赤ん坊のころから捨てられたということにしましょう。本当の家族こそが私たちだと」

「それで構わないわ」

「最後に1つだけよろしいですかな?」

「どうしてこの童を捨てようという気になったのですか?」

母親はしばらく考えてから、うなり声が漏れるような低い軽くドスの効いた声で言いました

「この子が美しすぎるからよ」

.....私が知っているのはここまでです。そのために私はあなたをまだ外に出すことはできません。でもいつかあなたが立派に僧としての立志した証にはきっと寺の門を開けると誓いましょう」

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