目の見えない猫
大箸銀葉
第1話
木曽川は山を這って流れる。森に新鮮な水を届けて伊勢湾に注ぎ込む。だから木曽の山には動物がわんさかいた。その中でつがいの猫が交尾をしたのである。わおおお。あおおお。嬌声が響く夜の山は静かであった。本能に必死な猫だけが月明かりに照らされて子孫繁栄に勤しむのであった。
やがて三毛が映える雌猫の腹が膨らんだ。出産は過去に1度経験済みであった。栄養を猫1倍取ってよく眠る。隠れた安産の秘訣であった。
雄猫はもういない。また別の猫を探しに旅立ってしまった。雌は取り残されたのではない。そのあまりに高い雌のプライドが雄を追い出してしまったのだ。
綺麗な猫は綺麗な子を生む。孤高の猫は誰よりも懐っこい猫を生む。そうやって生き物は今日まで愚かな性技を繰り返してきたのだ。
さて三毛猫は3匹子を生んだ。これは少ない。平均よりも1匹か2匹足りなかった。親は自分の死期を悟った気がした。昨日の雨のせいか木曽川はゴウゴウ音を立てて昼の騒々しさをかき消していた。
まだ目が開かない桜色を派手派手しくしたような色の赤ちゃん猫に朝露(もしかしたら雨露かもしれない)が2滴垂れた。ピチャンピチャン。親が目を離した一瞬の事件であった。吸い込まれていく猫の目は痛かった。水はやがて神経を腐らせる。猫は必死にもがいた。なんとか水を取り除こうとした。しかし戻ってきた親に首根っこを咥えられると途端に大人しくなった。
山の中は危険がはびこる。霧が1面を覆う時もある。変な虫に刺されて痒みに転げ回る時もある。それでも猫は山を降りない。豊富な食べ物がそこにある限り。
親猫は他の2匹と同じように3匹目も育てた。しかし、他が元気に走り回る中真っ黒な猫だけが腹を空かせて座っていた。
不思議に思った雌猫は土の中を這い回る鼠を簡単に加えて噛み殺す。口から血を垂れ流し真っ赤に染まった鼠をポトンと落とした。
黒猫は一目散にそれを食べた。血の臭いが口の中に広がった。甘い香りも漂う。食欲が満足に満たされて気持ちが良かった。茶色の毛がフワッと綿毛のように飛んで子猫の黒い毛と混じって地面に落ちた。その上に真っ赤な血がぼとりと着いた。静かに鼠の死骸は骨になった。
子猫は一匹で狩りが出来ない。食べてみなければ毒と甘味の区別がつかない。親はこの子の内気な性格がそうさせるのではと判断した。独り立ちするまで時間をかけて育てようと決めた。
しかし親は心配である。見殺しにしたくは無かった。我が子の死体を何度も夢に見た。その子もまた黒であった。親は黒い猫をよく好んだ。それで一層目の前で首が据わらない子を無下にはできなかった。
雌猫の穏やかな性格厳しい教育方針へと進路変更を妨げていた。最終手段まで後退していた。脳裏をよぎる度に夢が邪魔をして露が頭の上に落ちる。脳までひんやりと伝わって思い留まる。
子猫は自分の意識で生きられなかった。猫は本能的に自殺できない。痛みと飢餓に苦しんで死ぬか親に生かされるかのどちらかである。不幸なことに子猫は親の姿を知らない。声と匂いだけに生存を託すのみである。
親の姿だけではない。子猫は目が見える状態を知らない。足下を汚らしく這うミミズの形は咥えて初めて知る。雨上がりのぼやっとした空に陽炎のように揺らめく虹の美しさをお目にかけることはない。中秋の名月と十六夜の月との微妙な違いを楽しむことはない。自然の美を全て失った所に子猫はいた。
膿んだ目から黄色い汁が垂れる。子猫は違和感に顔を拭った。前足を伝って地面に膿が落ちた。側を歩いていた蟻の命を奪って土に染みこんでいった。
子猫の成長は遅い。常に栄養が不足していた。独り立ちを迎えた兄妹に比べてずっと小さい。2匹は立派に巣立った。雌猫は悲しかった。これからの危険からもう子猫たちを守れない。そしてそれ以上に黒い子猫をまだ大人に出来ないことが悔しく哀しかった。
それからも親子はずっと側にいた。雌猫は子猫を舐めているとき、子猫は全身を駆け巡るゾクゾクとしたときに限りない愛情を感じた。雌猫は子猫を知っている。子猫は親を知らない。
子猫の目は処置不可能になるまで悪化した。運悪く優しい人間には出会わなかった。
雌猫は年老いて益々ずる賢くなった。狐がとり憑いたかのように獲物を騙す。穴を掘って虫の死骸を溜め込んだ。入ってきた鼠をひたすら咥えるだけで子猫を食わすことができた。餌の餌を上手に利用した。
雌猫は子猫の内気さがそうさせていると判断した。可愛い1匹の我が子猫のために死ぬまで尽くそうと決めた。自分のために生きる価値をもう失っていた。
雌猫の綺麗に混ざりあった三毛は初雪のように白くなった。老いとストレスが雌猫から色を奪った。子猫にそのみすぼらしい姿を見られるのが恥ずかしかった。感情表現の無さが余計に心配を加速させた。
太陽と月が何回も行ったり来たりした。子猫の骨と皮の間に多少の肉がついた。結果として成功していてもその実苦労の絶えない2人3脚であった。特に親猫の看護はまさしく天使のなせる技であった。
ある日こんな事があった。子猫がぐったりとして動かない。汗をかいている。口からはみ出た舌が危険信号となって雌猫の目に映った。
子猫でさえ自分の死を予感した。心の中に赤色が生まれた。瞼の裏が燃えるように熱い。色もない形もない世界が苦しみの赤で染まったのである。感動さえ覚えた。
何かの病に子猫が耐えられるかどうかこの時はまだ誰も確信を持てなかった。死ぬ確証もまた同様であった。母は助かる可能性に自分を賭けたのである。
母猫は子猫を寝かしつけた。なるべく冷たい石の上を選んだ。息が荒い。苦痛に顔が歪んでいる。母猫は子猫の顔をじっと見た。深呼吸を1つした。
母猫は木曽川まて一直線に駆け抜ける。土を蹴り木々の間を縫って風のように走る。頭の中でうめき声を上げる子猫に見つめられていた。助けを求めていた。
渓流は冷たい。白い泡がフツフツと湧く。力強く海を求めて川が走る。葉が何枚か運ばれる。石の周りにベタベタくっついていた。
母猫はそんな様子に目もくれず前足を水に突っ込む。死の淵に引き込むように川が引っ張る。後ろ足が湿った土にめり込む。母猫は怖いと思う気持ちすら感じない。
水は生物を5分で死に至らしめる毒だ。DNAに組み込まれた恐怖すら子猫のために無視できた。
母猫は水面に触れた瞬間手を引っ込める。脊髄で反応しているようだった。手を振って水を払い落とす。これではいけない。子猫に水を届けられない。母猫は猫の本能を捨てねばならなかった。母の愛は時に猫を鬼にする。
小魚が泳ぐ奥深くまで前足が届く。キンキンに冷えた水が脳に危険信号を送る。母猫はそれを口に咥えて口内に貯めるのだ。
子猫は今まさに耐えている。生と死の境界線をさ迷っている。その顔が母猫に勇気を与えた。私が生きたいというエゴイズムが子を蝕む呪縛になる。呪縛に苦しんでいるのは子猫だけではない。その想いが母猫の鎖を引きちぎる。
まだ母猫は続ける。口の中に手を突っ込み冷たい水を流し込む。喉で水をせき止める。これは私のための水ではない。愛するわが子が生きながらえるための冷たく清らかな水だ。それを勝手に飲んだら泥棒だ。母猫は自分にそう言い聞かせた。下を向いて水が昇らないように気をつける。
水が十分に貯まると今度はまた大急ぎで元きた道を駆け抜ける。水が口の中で暴れる。むせて水を吐き出す訳には行かなかった。ほんの少し水が喉に流れ込むだけでえも言われぬ罪悪感が心にのしかかった。体温で水が温くなるのが辛かった。心を暗くしてなお母猫は走る。乾いて固まった土を選んで蹴り前へ跳ぶ。体をしなやかにくねらせて走る姿は優美であった。
死ぬ思いをして母猫は戻った。子猫の腹はまだ微かに動いていた。腹の振動はとても速かった。震えているようだった。母猫は口を開ける。水がべトリと垂れて子猫の顔にかかる。顔がビクっと硬直した。いけないと母猫は顔の水滴を集めて口に運ぶ。喉が上下に動いた。
苦労はまだ絶えない。木曽川は下にある。口を含んだ水をこぼさずかけ登るのは至難の業であった。しかし母猫はなおも続ける。川まで走り、前足を水の中に入れ、それを口に含み、持ち帰って子に移した。
母猫は一抹の不安を抱える。これは治療か延命か。1番大切にしたい子猫をいたずらに苦しい時間を引き延ばしているだけではないか。不安は恐れに変わる。口移しに水を運ぶわずかな時間母猫は謝るようになった。ごめんね。私のためにもう少しだけ生きて。私より先に死なないで。
月が浮かんで沈んだ。木漏れ日が光る。ミミズが石の下に隠れた。子猫の腹がゆっくり大きくなった。汗も大分引いた。赤く腫れた目の周りの筋肉が緩んだ。水に混ぜて草を食むようになった。起き上がるようにもなった。
母猫の長い長い夜は終わりを告げた。そのままぐったりと倒れて眠った。緊張から開放されて牙をむき出しにして笑顔が漏れた。黒猫は鼻を匂いに近づけた。ちょうど母猫の鼻とぶつかった。お互いびっくりしたが母猫は眠り続ける。黒猫は1度飛び退いたがまた近づいて今度はしっかり鼻と鼻でキスをした。
うなされていた間黒猫はずっと母猫のことを思いつめていた。口に生温かい水を飲み込む度に母の愛が流れてくるように思った。
実は夢を見ている間深刻な吐き気と高熱に何度も気を緩めそうになった。病気に体が屈服しそうになった。それでもあと1回だけ母の愛を受け止めたいと考えるうちに遂に病原体は退散していったのだった。
黒猫の目は潰れた。その分の感覚を補おうと耳や鼻が発達した。日陰の風にゆらゆら揺れる草の匂いから毒を判別した。とろけそうに腐ったウサギの死骸をどこからともなく見つけた。腐乱臭と血の匂いに黒猫の心は飛び跳ねた。母猫にいい報告ができると喜んだ。
かえって母猫は老いの弱りに逆らわなかった。季節よりも毛抜けが遅かった。食欲も落ちて植物ばかり口に運ぶようになった。目が落ち窪んでギョロギョロ光った。若い頃若い雄猫が性的に興奮した自慢のヒゲも垂れ下がるばかりだ。動かずに寝る姿は溶けるタイミングを失った雪のようであった。
黒猫は見えない母猫に想いを馳せる。口から、耳から、鼻から、皮膚から愛を注ぎ込んでくれる真っ赤な母猫。黒猫はその色を愛の色と名付けた。母は自分より雄大で優美に”見える”。包み込む壮大な体は強く麗しい。
黒猫は無茶なまでに母猫を頼ってきた。腹の虫を抑えられなかった。眠る時に脇腹を刺した小石に不快を隠せなかった。自分が他よりも劣っていると認めたくなかった。母はその自分を認めてくれた。見守ってくれた。母のために黒猫は何をしていいのか分からなかった。
風が吹いて母猫の短い毛の中に冷たい空気が流れ込んだ。座りながらブルブルと体を震わせる。その様子が黒猫をびっくりさせた。
母猫は黒猫についた木の葉を振り払った。いつまで経っても子供だと思った。体は随分大きくなった。毛並みもゴワゴワして雄々しい。鋭く生えた牙は獲物の心臓を抉りとる形をしている。伸びっぱなしの爪は立派であった。
体格はずっしりとしている。置いてどこかに旅立ったどの雄よりも大きい。母猫の育児は結果的にすべて成功した。そう思った。
母猫は強かった。優しかった。最後まで、大きくなっても子供を見捨てなかった。衰えて動かなくなっても側に座る黒猫を愛した。黒猫は愛によって生きながらえたのである。
夏の暑さがすっかりしぼんで、葉が恋をしたように色づく季節になった。雨がしとしと降る夜だった。黒猫は全身に不快を感じた。冷たく染み込むそれは未知の生き物のように思えた。前足の甲にぶつかる度に黒猫は飛び上がる。秘密の側面を見せたようで母猫が大いに喜んだ。濡れた体を舐めとってくれた。同じ水でも赤く染まった水はむしろ快かった。
愛は目で感じない。心で感じるのだ。
黒猫は歩き回って雨が振り込まない場所を見つけた。実際は洞穴のようにぽっかりと空いた空洞だった。洞穴は寒かった。ところどころ水が溜まってピチャンと音を立てていた。小さな音が反響して洞穴全体を包み込む。黒猫は風情があってしみじみとするような感覚だった。母の愛に似た何かを感じた。
すぐさま黒猫は母猫を連れて洞穴に潜った。ゆっくりと進む母猫は谷底で砂埃が舞い散る中ひっそりと咲く白百合のようだった。
洞穴は静かであった。2匹の猫は語り合わない。雨の降りしきる音が反響する中静かに親子は眠った。
その日は快晴であった。あいも変わらず2匹は狭く縮こまっていた。残った雨露があちらこちらで波紋を作る。まるで洞穴の中にだけ雨が降っているようだった。
突然母猫の顔が上がる。目を見開く。耳が立つ。ヒゲが緊張して前を向く。口を引きつって牙をむき出す。黒猫は何が起こったのか分からなかった。ただ母猫が怒っていることだけは分かった。
洞穴に吹く風が止まった。
「シャー」
それだけ叫ぶと母猫は勢いよく洞穴を飛び出す。グルルルと重低音が響く。それは雷が落ちるよりもずっと恐ろしい声だった。初めて黒猫も顔をこわばらせた。死が近づいている。そう予感した。
洞穴の外では母猫と真っ黒な熊が対峙していた。体格差は圧倒的であった。それでも母は後ろを向かない。強大な熊の横をすり抜け走る。熊が追いかける。
老いた猫のどこに力があるのだろう。走る姿には1種の艶めかしい雰囲気すら帯びる。ぼんやりとした空気を猫が切る。そこに熊が突っ込む。白い猫は熊を突き放したかと思うと急に失速した。
しばらく立って黒猫が洞穴を這い出た。もう外には風が葉を揺らす音のみである。黒猫は孤独を感じた。それをどう埋め合わせて良いか分からない。だから走った。微かに匂う愛の方向に地面を蹴る。銀杏の葉にすべって転ぼうとも。頭に鈍痛が来ても。最後には歩くようにしてそれでも走った。
そこには木曽川が流れていた。速くてそれでいて雄大であった。黒猫は茫然となって立ち尽くす。匂いは川の水にかき消されていた。
何かが川に落ちた。直後に一際大きな何かが川に落ちた。黒猫の膿んだ目から透明な液がタラタラ流れた。黒猫は顔を上げる。振り下ろした前足の爪の下で鼠がチチと鳴いて体を仰け反らせた。黒猫はそれを1噛みすると川の方に放り投げた。いちばん小さな音で落ちた。
黒猫は真っ赤に流れる木曽川に沿って山を下っていった。
目の見えない猫 大箸銀葉 @ginnyo_ohashi
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