第2話
ふぅふぅ。ここはいいね。もうちっと電球が切れかけてるともっといいのに。君もそう思わないかい? 僕は今でも君を抱きたいと思ってる。燃えるような皮膚はどんな世界を見せてくれるんだろう。その艶やかな髪は背に流れる黒い川となって清浄な香りを……かぐわしく……ふわぁぁ。眠くなってきた。酔いが回ってきたんだな。それとも別の何かかな。よーし。今ならなんでも話せちゃいそうだ。あのときの忌まわしい思い出も、死んだ友も、警察官の恐怖に怯えた顔もなんだって、さ。楽しかったな。本気で世界を変えてやるって信じたあの日々。「トルストイより社会を」って事あるごとに宣言するやつがいてな。多分トルストイなんて読んだこともなかったろうな。そういう雰囲気だったんだよ。工科とか文科は社会を変えられないとか言って教師を追い出すあのときの恍惚と言ったらねぇ……。たまらないものだったよ。君にも見せてあげたいけどねぇ……もうそんな時代じゃないんだよ。こうやって話してるだけで幸せってなものさ。
君は何に不満を抱いているんだい? 歴史に名を残す女傑よ。何を変えたくてそんなバカげたことをなしとげたいんだ? 僕たちはそれで失敗した。結局なんの不満も持っていなかったんだよ。文学を読んでいる友達から社会哲学を色々と教えてくれた。今思えばひどく偏った知識だったね。人々の中に悪が蔓延していて、正義から程遠い世界が広がっているような気がしたんだ。……そうか。僕の気持ちがわかってくれるか。ところで君は酒を飲めないのだっけ? 前にあったときはこれまで見たことのない酒豪がいたもんだと思ったものだが……。うん。うん。なるほどね。殊勝な心がけだ。君はずっと真面目なんだね。じゃあ君が歴史に名を残したとき、改めて乾杯をしよう。ご覧の通り僕は老いぼれた。枯れ木も山の賑わいなんていうが、古い友達はもういない。僕だけだ。‥…いけないね。泣いちゃった。ちょっと背中を叩いてくれないか。……そう。もうちっと優しく。うまいね。涙が止まった。こんな老人にも情けをかけてくれてありがとうね。僕は生きてはいけないんだ。あのとき死ぬべきだった。でも生きていたからこそ君に会えたし、今命をかけて君を止めることができるんだね。
さあ、なんでも話そう。それで気が済むのなら幸いだ。君のユディトは所詮妄想の中だけのユディトだ。ユディト書も読んだことがないような君が絵画を見て舞い上がっているのは滑稽だ。人間なんてそんなもんだ。社会なんてそんなもんなんだよ。大人になれとは言わない。しかし賢くならなくちゃいけない。君はまるで子供だ。身勝手に社会が変わるなんてありえない。さあ、それを知った上で君は何がしたい? たとえ上手くいかなくてもやる覚悟はあるか? たとえ自分が失敗者として永遠に名を残すことになろうとも! ああ。そうだ。それでこそ僕が見込んだ女だよ。やっとスタートラインに立ったね。君は英雄じゃない。女傑にもなれない。変えられる未来なんて雨粒の一つほどだ。だけどそれは大きな一歩だ。滴り落ちる水滴はいつか石を穿つ。誰も知らない寂れたバーで今、歴史が動いたんだ!
飲もう、飲もう。これは成功したのと同じことなんだよ。だって変わったじゃないか。君が。社会が。世界が! これは祝杯さ。喜びの美酒を掲げよう。世界なんてそんなもんさ。やあ、大人のユディトよ。僕は少年のダヴィデさ。よろしくね。きれいな絵を描こう。レオナルド・ダ・ヴィンチの筆がいいかな。バロック派のリアリティもいい。印象派は趣味じゃないんだ。現代アートなんてもってのほかだね。彼らは聖書なんて意にも介さない。いい時代になったもんだ。酒が進むね。
女はいい。18からやっと生き始める。男は18になったらもう死んだほうがいいからね。君は生を受け取ったばかりじゃないか。呑みなさい。……もっと出してよ。ここ気に入った。またちょくちょく来るし、なんなら良い酒手に入ったらマスターにあげるよ。家にいいヴィンテージワインがあるんだ。前にフランスに行ったことがあってね。あっちの空気を勉強してたんだ。社会を変えるにはどうしたらいいか悩んでいてね。もう何十年前の話かわからないよ。ワイン工場があって、仲間に金持ちで無類の酒呑である三村ってのがいてね。そいつに連れられて見に行ったことがあったんだ。いいだろう? そのときに1本ずつもらったんだ。タイムカプセルとして年取ったときにこのワインで乾杯しようって決めてね。血のワインって名前をつけてね。生きてたら飲み明かそう。死んだらお互いの血だと思って飲もうって。そのあと行方知らずさ。生きてるのか死んでるのかすらわからない。あのときバラバラになっちゃったから……。ああ、いいよ。そんな約束忘れてるに決まってる。
話が逸れたね。まだ社会を変える気持ちは残っているかい? よし、よし。ならもう一軒いこう。美味いラーメン屋があるんだ。マスターありがとう。お代はここ置いとくね。釣りはいらないから次きたときは今度こそ面白い酒を出してね。
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