第5話
女物のセーターを買うことにためらいがないわけではなかった。その服が女が着るためのものだという事実を意識するほど自分が狂人になっている感覚がした。
「僕は女になるんじゃない。麗子さんになるのだ」
眉を剃り落として上から細眉に見えるようになぞった。メイクは時間がかかる。しかし1歩ずつ体が麗子のものになっていく意識があった。胸が踊った。
純白のガウンコートは7万円するものを買った。高い買い物だとは思わなかった。手のひらでなぞるとビロードのように滑った。これは彼のものではない。麗子のものなのだ。汚い手で触ってはいけない。彼は家宝でも扱うように大切にコートをしまった。愛する女に自分自身がなったとき、はじめて袖を通すことに決めた。地毛はゴワゴワしていて彼に男を強烈に意識させた。ウィッグを被ってそれらしくはなったが、どうにも顔のバランスが悪い。あご骨が不自然に出っ張っていて美しさから遠く離れていた。暗ぼったいカラーで陰に見せかけてようやく見れないレベルではなくなった。
それにもまして彼に生えている毛をどうにかしなければならなかった。まず全裸になり、髭剃りに使っていたジェルを全身に塗りたくって剃刀で毛を取っていった。すぐに刃と刃との間に毛がまとわりついて動かなくなった。彼はほかに毛を取る方法を失ってガムテープに手を伸ばした。苦痛を伴う方法であることに違いない。楽なやり方は探せば見つかったかもしれない。それでもなお彼はガムテープを使うことをためらわなかった。すねに生えている毛に向かってペタペタとはりつけていく。足全体が押さえつけられて気色悪い。
土色の足は恐怖を予感してぷるぷる震えている。1つ深呼吸をすると彼はガムテープの1番端、くるぶしに近いところに手をかけた。燃えるように熱い感覚がして皮膚がひりりとする。裏にはりついたおびただしい量の毛が気持ち悪いほどに充満していた。3枚、4枚、5枚と重ねるうちに彼はだんだんおかしくなってきた。笑わないでやってられない。吐息のまじった高笑いは女のような艶めかしさを持っていた。彼は真っ赤に染まったすべすべのすねを見て麗子が足に宿るのを感じた。これまでにない感覚だった。明らかに普通ではなかった。
顔の大きさをメイクでごまかし、ウィッグも輪郭に触るようにはりつけた。もしこれを瞬間接着剤でとめたならば、頭から麗子になれるだろうか。彼はそんなことを考えながらみかん色のセーターをかぶった。女物がすらっと入るくらいやせこけた体を情けなく、しかしこの時ばかりは頼もしかった。
「こんな格好をして、なのに私は今楽しんでいる。普通じゃない。私の中の麗子さんが表に出てきたのだ!」
彼は狂喜乱舞した。まるではじめから麗子がいたかのような結論に至った。白いガウンコートに袖を通すと体型も完全に隠れた。鏡にはそれまでの宇喜多伊紀とは全くの別人がいた。男とは見えない。しかし女と言われれば違和感がある。不安定な見た目をしていた。しかしそれこそが彼にとって重要なことがらであった。たった1日でこれほどまでにうまくいくとは思っていなかった。十分満足できる肢体がそこにあった。
「これが麗子さんの姿……」
麗子になったとき、はじめから彼にはやりたいことがあった。考えただけでも緊張することであった。しかし彼女を心の中で同化させるには必ず行わなければならないことであった。
「行くか」
日が落ちかけた空は晴れていて、まばらな雲が冬の上を漂っている。夕焼け色に染まった世界は麗子にふさわしい景色だった。彼は迷いなく歩いた。誇らしく胸を張り見られることに興奮した。夜が来るには少し早い時間、このわずかな夕闇が彼女を守る盾となる。
長手公園は誰もいなかった。コートだけでは寒かった。しばらくは邪念がつきまとっていて純粋に太陽を楽しめなかった。しかし今日はそうならなかった。いやこの日は全てが新鮮だった。流星群があしらわれた滑り台も1段ごとに色が変わるジャングルジムも、薄衣まとった女の足元にカラスが地面をつついているモニュメントも初めて見るような景色だった。公園が一体となって彼女のための城を築きあげたと錯覚した。彼女は子どものようにそれらをながめまわしたあと、また太陽を見た。夕焼け空をまじまじと見るのは珍しかった。
「私は女になったのだろうか」
無意識のうちに独り言が漏れ、その言葉に自身が驚いた。否定したかった。しかし心の奥底にあった女装願望が芽を出しただけではないのか。このように大げさに考えること自体間違っているのではないか。そうではなかった。
「私は女になりたかったのではない。麗子さんになりたかったのだ」
この格好は麗子のものだ。女になるのは麗子が女だからだ。宇喜多伊紀は麗子に惚れていた。すべてを捧げて尽くしたい愛情を抑えきれなかった。
「わかったよ。麗子さん。あなたに私の男を捧げましょう。あなたのためなら私はどうなったってかまいはしないのです」
麻酔を打たれてから意識が落ちるまで宇喜多伊紀は夢にならない夢を見ていた。道が2つある。どちらも行き先は真っ暗で見通しが悪かった。しかし輪郭もぼやけて顔の形が見えない麗子の後ろ姿と棚宮編集長がそれぞれ道の中央に立っていた。彼は手術室に向かう最中でたしかに足が麗子の方に向かっているのを感じながらゆっくりゆっくり闇の底へ沈んでいった。
変心 大箸銀葉 @ginnyo_ohashi
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