第4話

 不思議な小説だった。作品の軸に据えられているのは「真似」であり、なにかになりきることについて心理学のサンプル事例のような精密な文章でつづられていた。特に書き出しが印象を与えるような抽象的な調子で


「人は一人だけでは生きていけないということに気づいた。私はどこにもいない。一つ一つバラバラにした私は全て誰かの真似事であった。」


と始まる。「私」と呼ばれる高校生の女が憧れた人を真似することでまるでそのものを得たような気持ちになっていく過程を回想した小説である。はじめは彼もバカバカしくなって途中で読むのをやめてしまおうかと思った。しかし店主への義理もあり目だけは通してしまおうと先へ物語を走らせた。


 女は細かな真似から入っていった。側からみれば恋と呼ぶにふさわしい感情も初恋だからわからない。とにかくクラスメイトの新島のことを熱烈に思っている。彼女は自分でもよくわからないまま新島と同じ格好に興味を示していく。バックにつけるストラップも同じものを探す。休日1日使って街を駆け回っていた。結局、日も暮れようとしたころに同じではないが雰囲気のにているアクセサリーを買う。それで新島と心を同じにするといえるならお気楽なものだ。読みながら彼は小説内の女を侮蔑した。しょせん子どものおままごとのような恋しかできない。嘲笑すると同時に安心と嫉妬がこみ上げてきていた。


 しかし物語が進むにつれて彼の思惑通りの方向になった。


「私はどうにも我慢できなくなった。一心同体欲が日に日に大きくなっていく。」


その通りだ、と彼は思った。愛情は時に全ての共有を欲する。音楽と一体になるほど愛された彼もまた愛とは共有であると信じていた。


「新島くんは優しかった。だからこそ失うことが怖かった。」


読んだ瞬間、意地汚いムカムカが湧き上った。この言葉は嘘だ。彼女は失うものをまだ手に入れてない。ただ臆病なだけだ。明日になってもまた新島と顔を合わせるじゃないか。ここに小説の女と宇喜多伊紀には本質的な違いがあった。彼は愛する女との精神的な距離はない。失ったものを取り戻すためにわざわざ壁を作る必要がない。


 葛藤が長く続いた。読み進めながら彼は本当に価値ある小説なのかわからなくなっていた。わかりやすい。共感できる。が、それだけである。彼の人生は何も変わることはないのかもしれない。やはり小説は小説なのだ。娯楽のために読むものであって参考書にはなりえないのだろうか。小説内の女は真似ごとをかなり進めていて男装にまで手を出していた。男物の学ランを手に入れて袖を通しながらそれまでとは異なる感情が生まれていく。それを諦めながら流し読みをしていたとき、ふと気になる文があった。


「私はふと心の中に新島くんがいることに気づいた。アクセサリーを身につけるとき、黒い学ランに身を包んだとき、心の中にたしかに新島くんの面影を見た。」


それは彼の心に深く刺さった。ずっと葛藤していた正体が急に光に照らされてビビットなオレンジ色が姿を現した。彼は流し読みをやめてもう1度丁寧にストーリーを追った。新島青年に対して恋い焦がれながら心に思い人を宿した少女は現実とのギャップに苦しめられる。たとえば消しゴムを忘れたとき、新島は彼女が困っているのを見つけてそっと自分のものを貸した。善意でしかない行為だったが、それが彼女を傷つけた。新島は助けるべきではなかった。彼女の中の新島は助けなかった。そのような小さな事件がいくつも連なった。


 彼女は失敗した。ついに心を狂わせておかしくなってしまった。心内の新島のために現実の新島が疎ましく思いはじめる。


「アイツなんていなければ、私は新島くんと幸せになれる。私は新島くんを殺すことに決めた」


小説はここで終わっている。覚悟は本物のように思われた。彼はなんとなく彼女の気持ちがわかるような気がした。そして羨ましく思った。


 小説の失敗の原因は新島が生きていることだった。つまり麗子と会えない身分である彼は現実とのギャップに苦しめられることもない。麗子は宇喜多伊紀という男の中にしか生まれ得ない。


「真似をする。麗子さんの真似を」


咀嚼するように口を動かして想像した。白いガウンコート。オレンジ色のセーター。長い髪。白いうなじ。レモンの匂い。


「ああ、ああ!」


彼は麗子を模倣することに決めた。霧が早朝の空気を冷やしている。

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