第3話
音楽に愛されていた男は1人の女を愛した。愛することは叶わない。けれどもう1度姿を見たいという欲望が重なっていく。彼は常に抑圧されていた。会えないことが禁欲となって苦しめているのだった。
「あなた最近変わったわね」
「そうでしょうか」
「ええ。文に心が乗っていない。音楽への情熱は冷めてしまったのかしら」
「そんなことはありません。……しかし」
「なにか悩みごとでも?」
「いえそういうわけでは」
棚宮編集長は彼の微妙な変化を感じとっていた。ほんの些細な文の乱れからどこまでも心の中を暴かれるような怖さがあった。『魂と音楽』は長い低迷をしたのち、最近になってようやく売れ始めたところであった。
「……わかりました。しばらく依頼を中止することにします」
「そんな! ここで書かなければ私は生きていけません!」
「ええ。ですから依頼料の前貸しとしていくらかはお渡しします。私には解決できない悩みであるなら自分で解決せねばなりません。それがあなたにとって1番の仕事です」
恥を忍び金を受け取った。額にして3ヶ月分である。彼女は怒っていなかった。もし叱ってくれたならば解決したのかもしれない。また音楽の熱情に身を沈ませて新しい音楽を一心不乱に記述できたのかもしれない。しかしそれは彼女の理想とは程遠い。編集長は雑誌を完成させる責任を持つ。だから妥協はしない。彼には痛いほどよくわかっていたはずだった。
原因はわかっている。しかし解決方法がわからない。1ヶ月あのベンチに腰掛けて麗子が来るのを待ち焦がれた。昼には小学校に上がる前、世界が明るく照らされている笑い声を聞くと落ちぶれた自分に辟易の笑みを隠せない。
「おじさん、ここでなにやってるの?」
ふと頭をあげると4、5歳の女児が目に入った。無垢な目をキラキラと輝かせて黒い瞳が異様なほどに大きいのが彼の印象に残った。
「おじさんはね。今人を探しているんだ」
「ふーん。どんな人?」
「すごくきれいな女の人だよ」
「じゃあ、私とかどう?」
ませてるな、と思った。この歳で愛嬌なんて覚えてしまったら幸福で退屈な人生を歩んでしまいそうだ。
「ははは。もっと大きくなったらね」
「こらこらあんまり迷惑をかけちゃダメよ。すみませんこの子が……」
「いえいえ大丈夫です。退屈してたものですから」
母親に連れられて戻っていく女子の背中を見守りながらやっぱり麗子はこの公園に現れないような気がした。人がまばらにもいる時に彼女は姿を見せない。公園の隅で孤独に寂れる瞬間にどこからともなく見える白い肌。柑橘系の香水。いくらでも夢に見た女の姿が実際に現れることはなかった。
しばらくして彼の心に音楽へのギラギラした気持ちが失われていることに気づいた。頭の中に流れていたはずの音は泥水のように濁っている。美しいメロディは消え果て金属を擦り付けるようなガチャガチャした不快音だけが鳴っている。才能が枯れ果てるのは歳のためでも足を引っ張る凡才のせいでもない。ただ1人の女に対する熱烈な恋情が天性のものよりも優先されて引っ張られることによって起こるのだ。才能あるものは普通の恋をしてはいけない。普通の体験はその人を普通にする。彼の心もまた普通の記憶の型がはめられて変形していったのだった。
「どうしたら麗子さんに会えるのだろう」
彼は仕事のことなんてどうでもよくなった。3ヶ月の期限なぞ気にはならなかった。たとえ10年でも20年でも探す気概があった。ただそれを3ヶ月の密度に圧縮するだけであった。
恋い焦がれた男はバカになる。時事の全てが愛する女に結ばれて小さな宇宙を構成する。彼女なしでは生がない。世界がない。何をするにも女の体を想像し、あるいは幻覚を見た。それが会えないとわかるほどにかえって幻覚は強くなってくる。目をつむると肌が見える。声が聞こえる。心の中までさらけ出されている気さえする。
「ああ、俺はバカだな」
つまらない飯を食べながらビールを飲む。乾いた味が舌に吸いついて離れない。初めて麗子を見たときから上手に酔えなくなった。本心を現実にばらまくのが怖かった。彼は待つのをやめて探しに行くのである。見つけてもらうために恋を晒している暇はない。自分からあの麗しさを見つけなければならない。その後のことは何も考えていなかった。
長手公園から南に下ると松の花駅がある。東西に路線が走っていてそこから西に少しいくと海が見える。白い光がゆらゆらと筋になって伸びている。日の入りになると晴れていれば空が真っ赤に染まり海もオレンジ色に変わる。毎日同じ海に沈む太陽は今日もまた海へとさしかかる。その海を一望できるカフェがある。喫茶店エクレア。老夫婦が定年後に始めた半分趣味も兼ねた店である。際立ってうまいコーヒーが出るわけではないが、夕日目当てに訪れる客は多い。彼はエクレアの常連で仕事場でもあった。
「いらっしゃい。おや。どうだい。見つかったかい?」
「いや。なんも」
「刑事さんでもなけりゃ早々見つからないねぇ。名前も知らない人なんて」
「ええ」
「なんか大変そうだな。もっと頭柔らかくしたら案外うまくいくかもしれない」
「頭柔らかくってどうやって……」
彼が語尾を濁したまま皮肉を言おうとしたところに店主が1冊の本をよこして
「こいつは古い小説なんだけどよ。多重人格者って言えばいいのかな。ちょっと違うけど参考になるかもしらん」
と言った。
「小説なんて人生の参考にはなりませんよ」
「それだったらそれでいいじゃないか。なんにせよお前は解決策を求めてる。なら全てのことに貪欲であるべきだ」
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