第2話

 今日は一段とよく冷えた。身がキュッとしまって熱を逃がさないように縮こまる。

「寒い。ただひたすらに。自分がゴミクズになったみたいに。死の匂いがするように。キレイな死。すべてを寄せつけない完璧な生の終わり」

言葉がすらすらとメモ帳に書き留められていく。詩的に連なった言葉は実際何の意味ももっていない。彼は本当に何も考えていない。死への欲望なんてかけらもない。ただこんな風景には「死の匂い」がふさわしいと直感しただけである。だからあとから見返すこともない。書くことだけが目的となっている。読む必要がどこにもない。誰に読ませることもない書き殴った文字の羅列が増えるだけで彼は安心するのだった。


 雪の香りは鼻腔を転がって刺すような痛みを与えた。しかしそれもまた冬に包まれる錯覚を作り出し、なんとも心地の良いものになっていた。今年は暖冬になる予想だった。しかし彼は直感的にまた寒波がやってくると考えていた。冬がそう言っている。大した理由ではないが自信を持ってそういえる何かがあった。


 長手南小学校が古くなり新しく建て直す議決がなされた。その時整理区画が設定され、新しく長手公園が建設されることになった。地元出身で、全国でもそこそこ名が知れていると聞く創作家の小倉真鯛とタイアップした公園というモチーフだった。真鯛も生まれ育った故郷のためになるならと乗り気でモニュメントを20、それにありとあらゆる遊具や施設のデザインを監修した。その昔宇喜多はテレビでこの公園を知った。真鯛の作品は絢爛を極めた色使いでしかしその反対に繊細なタッチが特徴である。たとえば滑り台の側面にはきらびやかに発行するかと思われるほど鮮やかな黄色、赤、青、翡翠、萌黄色の線が夜空を想起させる紺の上に流れる。滑り台に沿って甘美な細い線が流星群のように滑り落ちる。真鯛は「ほしのくも」というタイトルをつけたが、彼にはもっと良い名前があるような気がしていた。ノクターンという名詞までは考えたが、それにどのような修飾詞をつければよいかまだ見当がついていない。


 それからというもの、長手公園の芸術が散歩のゴール地点になった。子どもの起きていない時間の公園は時間が止まって見える。夜は眠る時間なのだ。風に揺られて震えるブランコや、木の葉が落ちて砂場の上に落ちる一瞬だけがかろうじて公園の寝息というものをわずかに感じさせるのだった。その隅にあるベンチ(これもまた真鯛の作品となっている)に腰掛けてゆったり日の出を待つ。公園はすぐに目覚める。金色に輝きだす遊具は1日で1番美しい顔を見せる。


「新しい朝は希望の朝になりました」


高らかにそう宣言しながら公園は夜の終わりを告げる。しばらくしたら子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくるはずだ。彼はこのときだけ、この僅かな一時のみ音楽から完全に解放される。寒さが快い静けさを演出している。心にこそばゆさを感じながら朝日を正面に据えてゆっくりと見上げる。こんなにも忙しい世界で宇宙はゆっくりゆっくり時を進める。飽きることもなく。不満に思うわけでもなく。だからこそ彼はこの時間に飽きなかったのかもしれない。


「となり、よろしいですか」


不意に女の声で呼ばれると彼の心にたちまち嫌悪の朝霧が立ち上った。しかしこの絶景を一人占めするのもまた気が進まない。この辺りに別のベンチはなかった。公園は子どものためのものだ。東の空に昇る雄大な朝焼けを見るために設計されていなかった。


「どうぞ。今隣あけますね」


彼はベンチの隅に移動して女を座らせた。こんなことは今までなかった。女は化粧をしている。オレンジのセーターの上に白のガウンコートがよく映えていた。初冬のためか前は開けたまま羽織るだけになっていた。ストレートに伸びた髪は朝日に輝いてつやつやと光っている。朝早いというのに化粧も薄すぎず、しかしといってキツイわけでもなく彼好みの顔をしていた。芸術を知らないまま己の中でセンスを磨き続けた子どものような、神聖な娘の魅力を備えていた。


 彼女は何も知らない。いや知らないでほしいと横顔を見ながらぼんやり彼は考えていた。赤ぼったい柔らかい光が女の横顔を染めていく。


「いつもここに来るんですか?」


「ええ。毎日」


突然声をかけられて彼は困った。スズメが2匹鳴いて飛び去った。メスが逃げるのをオスが追う。そのまま公園よりはるか高い空へ見えなくなった。


「朝焼け、きれいですね」


「ええ。しかし1番美しい時間はもう終わりましたよ」


「そうですか。それは残念」


「また明日見られますよ」


「明日は雨ですから」


それだけ言って女は立ち上がった。


「もう行くのですか」


彼女は何も言わなかった。膝のあたりまで降りたガウンコートが紅潮して陽炎のようにゆらめいている。その女のうなじだけが病人のように冴えて尖った白さが浮き彫りになった。彼は息をするのも忘れて純白を見た。「女」よりももっと美しいなにかが男がもつ美しさに媚びる心を抱きしめて離さない。ここで跪いて彼女にかしずけば戻ってきてくれるかもしれないと切に願った。しかしそのことによって彼女だけがもつ美しさが損なわれることを何よりも彼は恐れた。呆然と見送る視線に朝焼けに後ろ姿を照らされた女はただ1度も振り返ることはなかった。


 蠱惑的であった。心がかきむしられる感覚がずっとこびりついて離れない。そして彼が予期した通り女は公園に現れなかった。日の出とともにベンチに座って自然と芸術が織りなす光の反射を純粋に美しいと思えない。その瞬間に女の匂い、それも女よりもずっと美しい彼女を待ち焦がれた。朝焼けにまみれて音楽を忘れ、それでもなお蒼白なうなじだけが頭蓋骨に反響していた。


「もう1度、もう1度だけでいいから彼女に会いたい。そうしないと私はおかしくなってしまう!」


 伊紀の名前はあの女に愛狂うための記号になった。彼は彼女を麗子と仮に命名し、観念の中で愛するようになった。それはまったく異常者のやることで幻覚と交際するに等しい。彼は発情しどうにかして麗子を手に入れたいと願った。夢想の中で彼はぼやけた輪郭を追い求めた。白いガウンコート。オレンジ色のセーター。ボトムスはなんだったっけ……。独り言を呟きながら夢に想像する。正確な体の形はわからない。彼は彼好みの形になるように麗子を工作した。腕は細く柳の枝のようにしならせる。全体的に脂肪を落としてすらっとした体型でありながら臀部には贅肉がついて柔らかい。みずみずしい肌にみかんの汁を1滴2滴落としたような色が広がっている。麗しいと呼ぶに似つかわしい体をしていたのだった。

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