変心

大箸銀葉

第1話

 木枯らしがヒュルルと通り過ぎていった。季節は移り変わる。イチョウは黄色い服に身を包み、モミジは赤い着物を着る。色づいた葉がはらりはらりと落ちていく。肌寒い秋が終わり、冬がもうじきやってくる。街が白に埋もれて、長い長い寒波の先に桜色が待っている。季節はめまぐるしく変化する。同じ春はやってこない。似ているようで違う世界が毎日、平凡な黒地に紺のストライプが入ったしがない漢の前を駆け抜けていくのである。


 宇喜多伊紀(うきたただのり)は夢破れた男であった。生粋のロマンチストといおうか。それとも現実に馴染めないだけと言えばいいか。とにかく夢なしに生きることになんら興味を示さない男であった。彼は音楽系のライターを細々とやっている。フリーランスとはいうもののミューズ社の出す三流の音楽雑誌『魂の音楽』で新人発掘のコーナーを書くくらいしか仕事がなく、ミューズ社の専属ライターといって不足はなかった。貯金はない。夢とともについえた。その日を暮らすための金は動画サイトであげたわずかな収益とアルバイトで稼いだ。『魂の音楽』の編集長である棚宮婦人は名家の生まれらしいが、高校生で初めて東京に来たときに聞いたヒップホップに心を奪われたと彼は聞いた。彼女の音楽に対する見識は非常に深いものがある。ピアノの腕前は見事なもので、特に夜想曲が好きらしく作曲もする。彼は編集長を尊敬し、かつ彼女もまたしがないライターである宇喜多伊紀に全幅の信頼を寄せている。


「あなたには音楽の才能がある。だからあなたの思うままに有望な新人を書いて」


初めて仕事をもらったときに出された唯一の命令である。あれ以来3年間彼が音楽とともに生きられるのはひとえに棚宮編集長のおかげである。そして彼は期待に応えなければならない。1年同じコーナーを書き続け


「宇喜多さんは私の思った通りの仕事をしてくれたわ。おかげで音楽通の人たちの間で少しずつ話題になり始めたの」


と褒められた。どこまで信頼していいのかわからない言葉だと彼はぼんやり考えながら賛辞を受け取った。実際取材をしていても新人の間で『魂と音楽』を知っているものにあったことがなかった。


 彼はもともと音楽をする側でプロになりたかった。ぼんやりと生きていた中学生の彼はテレビ番組でロックバンドのボーカルをしていた30歳くらいの男が話した


「ロックンロールってのは魂を傷つけるときに鳴り響く音の集合だ」


という言葉に強く惹きつけられたのがきっなけだった。何気ない一言だったかもしれない。しかし思いのたけが、こぼれた雫のように幼い心に垂れた。ボーカルの名前も知らない。バンド名も聞きそびれてしまった。しかし彼を音楽の道に進ませるのにそれらは必要なかった。まるで波が海に引き寄せられるように、しなった柳の枝が強い力で元に戻るように音の海に埋もれることをひたすら望んだ。彼には音楽の才能があった。彼は音楽に愛されていた。しかしそれゆえに、音楽の神に近づきすぎたために音楽はその才能を遠ざけた。皮肉な結果だが、それが何の偽りもない事実であった。


 つまり理想に現実が追いつかなかったということである。彼が音楽について考えるとき、頭の中では延々とメロディにリズムが組み合わさったトラックが鳴り響いていた。それが6時間でも7時間でも自然に続くのである。彼にとって作曲とは曲を作ることではない。気に入った部分を切り取るだけである。曲の素材は無限に湧いてくる。素材は不必要に繰り返すこともない。新しいメロディとリズムが次から次へと生まれるのである。


 それがすべての災いだった。ときに理想は現実をこえて届かない高みへと昇ってしまう。ギター、シンセサイザー、グランドピアノ……。様々な「音」に触れても彼の音楽にはなりえなかった。違和感がほんのわずかであるがゆえに気になってしょうがない。しかし何をどう直したら理想にピタリ重なるのか彼自身にもよくわかっていなかった。シンセサイザーのツマミを色々まわし、ギターのチューニングも彼好みのものにしたにもかかわらず現実の「音」は非情をつきつけた。頭の中に流れてる音楽はあまりにも素晴らしすぎた。その才能が結果的に彼の夢をビリビリに破いたことを彼は知らなかった。


 クリエイティブな音楽家にはなれなかった。しかし音楽に向き合わない時間はなかった。ふとした瞬間、ふらりと思考が音楽の方へと吸い寄せられ永遠に感じられるほど長くリサイタルが始まる。それは彼にとって苦痛以外のなにものでもなかった。1度あきらめたものを思い返すとき後悔がまじらなかったことがない。なぜこんなにも頭の中に響く音楽は楽器から出てこないのだろう。再現するのに妥協ができないほどリアリティのある音がもう完成してしまっているのだろう。悶々とした時間はひたすら反省に耐えるのみ。彼は自分を「音楽を作る才能がない」と決めつけることで心を保っていた。これは言い換えればアウトプットの力である。彼はあきらめるための言い訳をそれしか見つけられなかったのだった。


 夜が深い眠りに落ちた3時ごろから関東一帯に初雪が降った。川端康成の「夜の底が白くなった」というのはこんな朝だったのかもしれないとぼんやり考えながら彼は目覚めた。5時半である。日はまだ昇らず空は暗い。すっかり日の出が遅くなったと出がらしの雪を窓の外に見ながら着替えてフロックコートに袖を通した。


「さぁ、いこうか。今朝は寒いぞ」


手帳にも満たない小さなメモ帳とボールペン(まだホームセンターで買った安物だが、いつか万年筆を買うのが彼の小さい夢である)をポケットにつっこんでドアを開けた。外から流れこんだ冬の空気が部屋の空気と混ざり合うのが見えるようだった。雪がまだ玄関に放り出したままのビーチサンダルを湿らせた。彼は朝なんとはなしに散歩をし、心情や情動、感じといったものを言葉に変えて殴り書くのを日課としていた。

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