橙色の空

夜依伯英

橙色の空

 漣のように連続する虫たちの声が、僕を迎えている。黄昏時の畦道は幼かった僕にとって家に帰るまでの風景でしかなかったけど、薄汚れて初めて見えてきたものがある。橙色の空は、次第に紫へと変わっていった。車の窓越しの空。空はいつの間にあんなに遠くに行ってしまったのだろう。エンジン音が思考を掻き乱した。


「おばあちゃん、帰ってきたよ」


 実家に帰って最初の言葉。これは玄関から覗く仏壇への言葉だ。おばあちゃんは五年前に他界していて、僕はそれに立ち会えなかった。温かいご飯をつくって待っていてくれた母にも挨拶と感謝をし、これまで厳しくも優しく育ててくれた父にも頭を下げた。


「立派になったな」


 その言葉に涙を堪え、僕は心中で謝罪した。ごめんなさい、父さん。僕は立派なんて言ってもらえるほどできた人間ではないんです。大学でも友達ができず、いつも独りで、自分の部屋に戻ってはヘッドフォンと共に音楽に酔って思考の一切を放棄していたような人間なんです。


「ありがとう、父さん」


 それらの事実を、とても言葉にはできなかった。表面だけを繕って、僕自身を隠し通して生きてきた。両親に対しても。この、父と母とが酷い親ならどれほど良かっただろう。最低な親だったら、悲しませずに強がる必要もないのに。堂々と堕落して、彼らに復讐できたというのに。この両親は、僕にとても良くしてくれた。血が繋がっていないこの僕を、大切に育ててくれた。僕は捨て子だった。駅に置き去りにされた僕を両親が拾って育ててくれたのだ。実の両親は親たる資格もない塵だったが、今の両親はそうでなかった。僕が実家に帰った初日は、そうしてすぐに夜を迎えた。久々に床に布団を敷いて寝るのは、なんだかとても懐かしかった。畳の匂いが、幼少期の思い出をほどいて霧散した。この家の近くに流れる小川のせせらぐ音が聞こえてくる。スペクトル密度が周波数に反比例するゆらぎが、僕の心を穏やかに溶かしていく。涙が自然に零れて枕を濡らした。ただいま、故郷。


 次の日の朝、僕は散歩に出かけた。もう陽は昇っていて、空は相変わらず遠かった。幼い頃に駆け回った野山も、今では勝手を忘れてしまった。それだから仕方なく人工の道を通ってでしか、神社に辿り着くことはできないようだった。神社は変わらずその威厳を保っていた。子どもの頃に感じた聖域の感覚は廃れてしまったけど、それでも特別な場所だというのは感じられる。屋根のように覆い被さる木々の葉から漏れる光が、神の誕生を理解させた。今はもう死んでしまった神々が、どのようにして生まれたのかを。ルサンチマンとは別のところからやってきた神々を感じた。僕にはイマジナリ・フレンドがいた。児童期に見られる空想上の仲間。実際に存在するかのような実在感をもって一緒に遊ばれ、子どもの心を支えるものとして機能する。僕のそれは、この神社に来るといつも一緒に遊んでくれる女の子だった。名前は覚えていない。イマジナリ・フレンドを忘れることは健全に成長するための通過儀礼であるとも言えるが、僕の場合は忘れきれていないのだ。その子自体はちゃんと覚えていて、顔も思い浮かべることができる。それでも、名前を覚えていない。何を話したかを覚えていない。ここに来れば、何か思い出せるかと思っていた。それは淡い期待。幻想に過ぎなかった。幻想の友人を思い出せるという幻想に囚われていた僕。いつまで経っても子どものままか。じゃあなんで空はあんなに遠いんだ。


――前に進まないとだよ。


 彼女の声が、聞こえた気がした。僕は前に進めない。いつまでも楽しかった過去に縋って、明日を見ようとしない。その癖に平穏な未来が欲しいだなんて、甚だ図々しいだろう。仕方ないじゃないか。僕は人間だから。


――なんのために学んだの?


 僕は、なんのために。そうだ、明日を見るために。僕が哲学について学んだ理由。哲学をする理由。ニーチェに学び、人間を克服する。僕は弱さを否定し続けないといけない。空が遠いのは、きっとその偉大さを知ったからだ。そのとき、僕は彼女を見た。背中の半分までその漆のような美しい髪を伸ばした彼女を。裸足でこの山の中に立つ彼女を。真っ白なワンピースはあの頃のままで、背丈だって少しも伸びていない。僕の想像の産物。


「君は」


 そう言いかけたとき、彼女は白く伸びた人差し指を口の前に持ってきて、笑って見せた。僕がそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。その日、僕は自分の中の一つの望みを再発見した。『生きたい』という感情だった。脆くて儚くて、今までどうしても見つからなかった感情だった。その裏には『死にたい』があった。僕はそれすら認識できていなかった。そのとき分かった。『死にたい』というのは、僕の生き方なんだと。その想いを抱えながら、僕は明日を生きていく。それが彼岸へ続く唯一の道だ。


 家に戻って、風呂に入って母のつくったご飯を食べたあと、布団に横にならずに窓辺に立っていた。深い勝色の空に輝く星たちは、きっと僕が子どものときよりもずっと前からの光を注いでいる。今はもう存在しない星の光が、僕とこの家を照らしているのだ。過去は現在に干渉する。そして現在も過去に干渉するのだ。僕にイマジナリ・フレンドはいなかった。あの子は僕の心の中じゃなく、あそこに住んでいた。そんなことに、十年以上経ってやっと気づいた。明日、帰ろう。そう心に決めた。夏がやっぱり五月蝿かった。

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